あらすじ
日本の詩歌の源,最古の歌集.奈良時代末に編まれて以降,読み継がれてきた二十巻四千五百余首には,宮廷歌人から無名の男女に至る人々の心が映される.本冊には巻一―巻四,雄略天皇・額田王・柿本人麻呂・大伴旅人らの雑歌・相聞・挽歌・譬喩歌を収録.新日本古典文学大系に基づき,86年ぶりに全面刷新した文庫版.(全五冊)※この電子書籍は「固定レイアウト型」で作成されており,タブレットなど大きなディスプレイを備えた端末で読むことに適しています.また,文字だけを拡大すること,文字列のハイライト,検索,辞書の参照,引用などの機能は使用できません.
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Posted by ブクログ
感情を率直に歌い上げるという評価の通り、歌に迫力があります。
但馬皇女の116番の歌や、大伯皇女の105番、106番、大津皇子の107番の歌など緊張と臨場感が伝わってくる。
また大岡信氏が高く評価した笠郎女の歌も、多くがこの岩波文庫版(一)に収録されている。
第4巻に彼女が家持に贈った歌が24首一気に載せてあるが、とんでもない才能だなと。
本文庫の特徴は、学校の教科書に載るぐらい定着していた解読を一部改めたこと。
例えば
柿本人麻呂の「ひむがしの」の歌、炎(かぎろひ→けぶり)
志貴皇子の「さわらび」の歌、石激(いはばしる→いはそそく)
どちらも納得いく改定でした。ここから分かるのは、『万葉集』の解読はまだ完了していないということ。
そして、100%確定することは不可能なのではないか、ということ。どこまで行こうと推測・仮説の域を出ない。
それは本書の解説に、1000年の研究史を経てもなお完全には読み解けていない歌集だと書かれている通り。説が分かれるどころか、解読すらできない歌が中にはある(9番や67番など)
しかし、じゃあ何を言っても正解なのかというと、それも違う。
100%確定することは不可能でも、その正解に一歩ずつ近づいていくことはできます。その努力を放棄することはない。人ごとに遥かに歩み続けなければならない。
もう一つ言いたいのが、なぜこんなに
天皇・皇子・皇女・貴族・官人から名もなき庶民に至るまで作者の階層が広いのか
北は陸奥、南は薩摩まで地名分布が広いのか
数多くの動植物、装束、調度品など詠みこまれる事物が豊富なのか
さらに歌の内容も豊富だし、漢文や漢詩や書簡集まで収録されている
こんなに内容豊かな作品が日本の文学世界に突如として出現した。第二分冊の解説で「空前絶後」と言われてるがその通り。もっと段階を踏んで作品が少しづつ豊かになっていくなら分かるけど。
なにしろ序文が無いので『万葉集』がなぜ生まれたのかについてはどの説も仮説の域を出ることはないでしょうが、想像してみるのも面白いかもしれない。
Posted by ブクログ
小五のときに小倉百人一首を丸暗記(母親相手に毎日二回、かるた取りをして覚えた)したのが幸いし、古典が読めなくて困った、という記憶がなかったりするのだけど、万葉集をきちんと読んだのは、やっぱり大学に入ってからだった。
―――そして後悔。これ、なんて面白いんだろう!
どうしても注目されるのは歴代天皇や、女性歌人の詠んだ秀歌であるのだけど、いわゆる「庶民」の詠んだ、日々の生活の呟きのような歌が本当に面白い。
別れた男に対しての
「お前みたいな冷たい恋人なんか、冬の川に浮かぶ鴨にでもなっちまえ(そしたら少しは私の気持ちもわかるでしょうよ)」だの、
「あんたなんか厠の下を泳ぐ魚でも食って、食あたりを起こせばいいのよばーかばーか」
てな歌を読んでいると、1000年2000年たったくらいでは、人間の本質って変わらないのねー、と、しみじみできること請け合い。
(だからこそ、過去の過ちを繰り返さないように、歴史に学ぶところは多いんだなあ、と……)
Posted by ブクログ
佐々木信綱編の上下巻です。私が持っているのは誰の校訂だったかな? 日本には昔から「歌」がありました。嬉しい時、哀しい時、切ない時、淋しい時、恋している時、「歌」で心や自然を表現する伝統を持っているなんて、なんて素敵なんでしょう。