あらすじ
資本主義をこえていく、新時代のグランドセオリー!
人新世から希望の未来へ向かうための理論。
英国で出版された話題書Marx in the Anthropocene(ケンブリッジ大学出版、2023年)、待望の日本語版!
いまや多くの問題を引き起こしている資本主義への処方箋として、斎藤幸平はマルクスという古典からこれからの社会に必要な理論を提示してきた。本書は、マルクスの物質代謝論、エコロジー論から、プロメテウス主義の批判、未来の希望を託す脱成長コミュニズム論までを精緻に語るこれまでの研究の集大成であり、「自由」や「豊かさ」をめぐり21世紀の基盤となる新たな議論を提起する書である。
目次
第一部 マルクスの環境思想とその忘却
第一章 マルクスの物質代謝論
第二章 マルクスとエンゲルスと環境思想
第三章 ルカーチの物質代謝論と人新世の一元論批判
第二部 人新世の生産力批判
第四章 一元論と自然の非同一性
第五章 ユートピア社会主義の再来と資本の生産力
第三部 脱成長コミュニズムへ
第六章 マルクスと脱成長コミュニズム MEGAと1868年以降の大転換
第七章 脱成長コミュニズムと富の潤沢さ
【原書への賛辞】
自然科学に関するマルクスの手稿への詳細な検証を通じて斎藤幸平が私たちに想起させるのは、マルクスがなぜ自然と資本主義の関係が根本的に持続不可能と主張したのか、ということだ。本書は、忘れ去られていたマルクスを私たちのもとに復活させる。長らく顧みられることのなかったマルクスを手がかりに、斎藤は、「脱成長コミュニズム」を力強く主張する。この理論的なアプローチは、「豪奢なコミュニズム」という抽象的な概念を対象にするのではなく、むしろ〈コモン〉の幸福を対象にして「豊かさ」という概念そのものを再編成しようとしている。
ティティ・バタチャーリャ(共著書『99%のためのフェミニズム宣言』)
傑作。これこそわれわれが待っていた本だ。斎藤は、マルクスに基づいて「脱成長」と「エコ社会主義」のワクワクするような統合を成し遂げている。ここにポスト資本主義への転換の秘密が隠されている。
ジェイソン・ヒッケル(著書『資本主義の次に来る世界』)
斎藤幸平はマルクス思想を完結したシステムではなく、運動のなかにある思想としてとらえている。彼の「脱成長コミュニズム」という果敢な表明は、現代のエコロジカルなマルクス思想、すなわち「人新世のためのコミュニズム」への決定的な貢献である。
ミシェル・レヴィー(著書『エコロジー社会主義』)
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
斉藤さんの本は初めて。
素晴らしく前向きで論の運び方がどこかミステリ風で非常に興味深い知的刺激を得られました。
全て読み終わったあと、マルクス解体というタイトルにグッときた。
細かく精読すると問題はいくつかありそうだが資本主義のオルタナティブを思考することは続けていきたい。
富という概念を再認識させられる。
読書が持つ力は様々あるが、その本を読んだ後世界の捉え方に新たな道筋を与えてくれる、それが一番の力です。
Posted by ブクログ
前作よりも難しいけど、自分の言葉にならないけど、社会に対して感じていた違和感とか、やるせなさ、それに対してどうしたらいいかを言語化してくれている気がして読み終わるとスッキリ。
Posted by ブクログ
生産力主義的、ヨーロッパ中心主義的な思想家として認識されがちなマルクスの印象をひっくり返そうとする研究。
著者は一個上なんだけど、マルクスの研究者としてヨーロッパで出版した本がその後日本語で出版されるという流れに畏怖の念を抱くな。
資本論が未完に終わってしまったこともあり、マルクスの環境に関する考え方が見落とされている。しかし、晩年のマルクスは自然科学についての研究に熱心に取り組んでいたことがMEGAと呼ばれるマルクス・エンゲルス全集からわかる。マルクスの分析の範囲は社会の領域に限定されず、人間と自然の物質代謝にも及んでいる。
2部はマルクス主義とエコロジーに関する文献レビュー的な。
人新世という概念が、環境危機にもっとも責任があるのはグローバルノースに住む高所得の人々だが最も負の影響を受けるのはグローバルサウスの貧しい国々という資本主義の側面を人類という抽象的存在のもとに隠ぺいしてしまうというネッケルの批判。
3部ではプロメテウス主義的なマルクス主義の欠陥を認めたうえで赤と緑の対立の解消を試み、マルクスが最終的には脱成長コミュニストになっていたとする。生産力の発展がポスト資本主義社会の物質的基盤を自動的に準備せず、むしろ人間や自然からの掠奪をますます悪化させる可能性を認識しており、1868年以降は自然科学の研究に励んだのもそのためである。さらにヨーロッパ中心主義からも離れていた。
そんなマルクスが構想していたのが、市場競争と資本蓄積への圧力がない、非消費主義的な活動に十分に時間を割くことができる、より健康的で連帯した民主的な生き方ができる脱成長コミュニズム。エッセンシャルワークをすべての社会構成員で共有し、非エッセンシャルな生産を削減、ブルシットジョブの除去で環境負荷を即座に経験することができる。
終章で、なぜマルクスという個人の思想が今も研究の対象なのかという自分の疑問に著者が回答していた。マルクスの研究プロジェクトは未完、だからこそそれをさらに拡張し現代の科学的知見を取り込みながら経済学批判のプロジェクトをさらに発展させることができると。決して現代のマルクス研究者がやろうとしているのはマルクスの神格化とかということではないのだな。
問題は、脱成長コミュニズムに大衆を向ける仕組みがないことだろう。資本主義はそれこそ資本が勝手に増殖するような仕組みになっているわけだが、脱成長コミュニズムは世界に住む全員が同意しなければならないような、それはつまり戦争や核兵器の廃絶と同じレベルの困難さということだと思う。だから最後には「歴史の審判を待つことにしよう」と言うしかないのよな。
Posted by ブクログ
アクター・ネットワーク理論やマルチスピーシーズ人類学など最近よく聞くキーワードが「自然」と「社会」の一元論と捉えられ、それらに対して自然を「素材」と「形態」の2面から捉える方法論的二元論の立場から批判を行なっている箇所は、批判的な視野を持って近年の思想を読み解く視野が開ける面白い論説だった。
一方、脱成長コミュニズムやコモンズ的な潤沢さに関する議論については、あくまで余裕のある先進国の人が想起するビジョンでしかないという印象。
既にしてコモンズが失われ、環境危機がスタートしている社会において、莫大な人口を抱えた状況で途上国の人がこの理論を受け入れることは到底なさそうな気がする。
あくまでマルクスはこう読むことができるという点で批評的に面白かったという感覚。
Posted by ブクログ
内容をあまり理解できていないが、脱成長を考えるべきという意見には賛成。ただ、具体的に何ができるか、特に個人や営利企業に何ができるかまだイメージがわかない。
Posted by ブクログ
マルクスのノートから読み込み、マルクス経済学を現代に当て嵌めて考察する第一線のマルクス研究者である斎藤幸平氏。一般向けとは少し線を引いた学究的内容だが、同氏の学者としての本気(恐らく、そのほんの一部分だが)を垣間見るような読書だった。
地球は有限である。だから我々は競争する。競争するためのルールは概ね、資本主義でいこうという事になった。共産主義という選択肢もあったが、一国では成し遂げられぬ概念であり、結局、共産主義は、資本主義と競争する事になる。また、共産主義は、こうした有限性に対し、人口抑制の論理を内在化している。資本主義は、資本家のエゴによって有限性を無視して暴走し易い。勝手な解釈だが、どちらも原点には、社会からのトリアージに対する生存本能がある。
有限だが、まだ大丈夫。
少なくとも、発展途上国に対しては、成長機会を与えてあげなければ、不公平だ。こうした論理が正しいのか、答えがない。答えがないが、プロメテウス的打開派に対し、マルクス的有限派が対立する。そしてそこには、競争の勝者への否定がある。競うから成長するという側面と、競うから弱者を犠牲にするという側面に対し、二項対立的な考えが交錯する。
ー 環境問題への関心については、マルクス主義者を自称するような人たちさえも長らく否定的であった。マルクスの社会主義思想は、自然の支配を目指す反エコロジー的なプロメテウス主義によって特徴づけられると非難されてきたのである。実際、少なからぬ20世紀のマルクス主義者たちも、環境保健主義を本質的に反労働者階級的で、上流中産階級のイデオロギーにすぎないと考え、さらなる技術革新と経済成長による労働者階級の物質的利害の促進を擁護してきたのであった。
一方、アラル海の環境破壊(綿花栽培等のための灌漑により、東北地方と同じくらいの面積のあった湖が10分の1にまで干上がり、20世紀最大の環境破壊といわれる)やチェルノブイリの原発事故に代表されるソ連体制下で生じた深刻な環境破壊を前に、環境保護主義者たちは「社会主義」では持続可能な社会を構築できないという確信を強めていった。その結果、20世紀後半には「赤」(社会主義陣営)と「緑」(環境運動障営)の間に重大な対立が生じることになったのである。
ー 地球が有限である以上、資本蓄積に絶対的な生物物理学上の限界があることは明らかなはずだ。けれども、資本は自らに制限を課すことはできない。むしろ、資本は絶えずこの制限を乗り越えようとして、社会と自然に対する破壊性を増していく。それゆえ、人間の生存と自然環境の保全のためには、資本主義的発展の破壊的な性格に終止符を打つことを目的とした「社会的制御の必要性」が生じるのである。しかし、そのような社会的生産の計画化は資本主義的生産の無政府性と相容れない。だからこそ、自由にアソシェートした生産者による質的に異なる生産の組織化 ー つまり、社会主義システム ーが必要だとメサーロシュは訴えたのだ。
ー そもそも物質代謝概念の重要性は今日でもしばしば過小評価されているが、『資本論』を正しく理解するために、この概念は不可欠だ。というのも、マルクス主義のもっとも根底的なカテゴリーである「労働」を、マルクスは人間と自然の物質代謝に関連づけて定義しているからである。労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。人間と自然の物質代謝の過程はまずもって、自然的・生態学的過程であり、どの歴史的段階にも共通するものである。なぜならば、人間は労働を通じて自然に働きかけることなしには生きることができないからである。この点を強調しながら、マルクスは続けて次のように述べる。労働過程は、人間と自然とのあいだの物質代謝の普遍的な条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にも関わりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なものである。
人間は自らのために地球環境保全を主張するが、「滅びない前提」さえ明確になれば、この議論はやがて終わる。同様に弱者に対しての関心も、強者に利する所がなければ長続きはしない。無条件に弱者を助ける思想があるなら、北朝鮮は核武装などしない。自己防衛や、優先順位を巡る競争や政治的所作もまた本源的なもの。利他的だけでは、生きられない。
Posted by ブクログ
前著「大洪水の前に」と重複するところも多い気はするが、よりマルクスのテクストに深い入り込みつつ、晩年のマルクスの思想を再構築していく。
そのプロセスに知的好奇心が動きつつも、なんで今更マルクスが著作にできなかったことを今あれこれと推論しなければいけないんだろうという気持ちがしばしば起きてしまう。
マルクスが本当に考えていたことはこうなんですと言って、20世紀に破綻したと思われるマルクス主義を環境、持続可能性という観点から再構築しなければいけないんだろう?(そういう意味では、タイトルの解体というより再構築という方が相応しいと思う)
それって、マルクスの神格化ではないか?
という批判は、当然、著者はわかっていて、そういう趣旨ではないのだというわけだけど、それでもそういう思いを禁じ得ないわけだ。
マルクスの資本主義理解は、今をもっても正しいところはたくさんあると思う。また、時代の変化を踏まえながら、理論的に発展したところも多い。
一方、環境問題や持続可能性を踏まえた理論もたくさんあるのだから、「現在」の資本主義理解と環境問題理解を組みああせて、新たな理論構築した方がいいんじゃない、と思ってしまう。
しかしながら、マルクス主義系の研究者にとって、まだまだマルクスの威光は効果的なようで、彼らにとってこうした「マルクスは実はこう思っていた」というのが意味があるわけかな?