あらすじ
思想界では近年一段と脚光を浴びる一方で,一般には時代遅れのイメージが付きまとうアリストテレス.本書はこの懸隔に架橋すべく,彼が創出した<探究と知の方法>を示したうえで,人間,社会,自然を貫く議論の全体像と核心を明らかにする.現代人の疑問や違和感に向き合いながら,「いまを生きる哲学者」としての姿を描き出す入門書.
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
現代にいたる哲学の様々な思想とアリストテレスの思想との関係を明らかにするなかで、アリストテレスの思想がどのようなものだったかを浮かび上がらせている。今までアリストテレスについての解説本を読んでも今一つモヤモヤしていたことが、ひとつひとつスッキリしていく。「デュナミス」や「不動の動者」などの概念、あるいはスコラ学やルネサンス期におけるアリストテレスの受容のされ方、などなど。ある程度アリストテレスや哲学史全般について学び考えたことのある人なら絶対おもしろい。
Posted by ブクログ
この本はアリストテレスの哲学の入門書のようなもののようです。
形而上学のような難しいことは難しいことは、わかりませんでした。
心に残ったのは「われわれにとって知られることから事柄の本性に即して知られることヘ」というアリストテレス自身の言葉と、
「世界の現実の中にこそ豊かな可能性が存在しているのだ」という筆者の言葉です。
Posted by ブクログ
過去の遺物として紹介されることが多いアリストテレスだが、彼は、現代の政治哲学(共同体主義)、科学主義に否定的な哲学者(マクダウェル、パトナム)、本質などを個々の事物の現実のあり方として認め、そうした世界のあり方に基づいて、実在する可能性や必然性を説明しようとする新アリストテレス主義者に参照されている現役の哲学者である。また、日常と通念から出発し、明確な方法に基づく吟味により知を構造化していったアリストテレスの姿勢は、実務家にとって今でも参考になる。
そんなアリストテレスの思想を、わかりやすく説明してくれる良書。
Posted by ブクログ
アリストテレス=哲学者といっていいほど、著名な哲学者である。
2000年前の哲学者であるが、哲学を学ぶ者は、アリストテレスを避けて通れない。
アリストテレスは論理学の創造した哲学者であるが、その研究分野は多岐にわたる。
アリストテレスがつくりだしたり定着させた、概念や考え方を、現代人も使っている。
アリストテレスの概念が、人間の思考の基礎的な部分を的確にとらえていることから、現代でも使われているといえる。
Posted by ブクログ
西洋の知の源泉の一つとして多大な影響を及ぼしながら、一般には「否定すべき対象」としか捉えられていないアリストテレス。本書は、そのような一般に流布する「誤解」のいくつかに反論しつつ、今なお現在進行形で有効さを保つアリストテレスの哲学を検証することで、「人間の『知』が成立する条件」を改めて問おうというもの。僕は「魂について」でしかその著作に触れたことがないのだが、これまでにアリストテレスを扱った読み物はいくつか読んでいる。
例えば、「アリストテレスに由来する古い「概念」に縛られることで、学問に枷が嵌められているのでは?」という疑問に対しては、次のように反論を試みる。アリストテレスの知的探究についての一般的枠組みとは、著者の「信頼せよ」「収集せよ」「習熟せよ」「なぜかを知れ」という4X4(4つの「し」)が要約するように、先行研究を信頼しつつ自他を通じて情報を収集し、経験を通じて事象(ことの知)に習熟した上で、妥当な推論形式に従って原因や根拠(なぜの知)を導く、というのがその本質。その理路である「論証」からなる学問的知識は、それぞれの分野の基礎となる固有の原理(基礎措定)に依拠しておりそれぞれ自律してはいるが、相互に関係しながら学問全体を俯瞰するネットワークを形成している。アリストテレスは多岐にわたる諸学問に共通する探究の枠組みを提示したのであって、学問の細分化を志向したのではない、というのが著者の主張のようだ。
また、「アリストテレスの倫理学は理論を欠いた凡庸なもので、かつ全体主義的だ」という批判に対しても、それはアリストテレスの倫理学が自然科学とは逆に「理論より実践」を重視しており、日常的な実践と生活に根拠を置いているためにそう見えるのだ、と反論する。実践を通じて人間は最高の「善」を志向するのだが、それは個々人の最も優れたあり方である「徳」が発揮できるようなはたらき(機能)を通じてである。個人に機能の発揮を要請するとともに、その発揮が最大限できるようアリストテレスは国家に対し積極的な関与を要請するため、それがやや全体主義的に捉えられることがあるようだ。著者はアリストテレスを擁護して、彼が「徳」の実践だけでなく考究こそが最高善と主張していることや、徳以外にも健康、富や名声などの「外的な善」も重要だと主張していることを反論根拠として挙げているが、ここはやや主張としては弱い気がした。やはり機能面で人間性を推し量るような一種の強引さがアリストテレスにはあるように思えるし、アンスコムの主張するように「徳の倫理」が功利主義や定言命法的な義務と一線を画しているといっても、やはり倫理的な習慣づけにおける法や制度の役割や既存の先行体制を重視するアリストテレスの理路には、定言命法以上に規範的な匂いがどうしてもしてしまうのだ。
「アリストテレスの自然科学、特に目的や原因を論ずる部分は擬人的すぎて現代科学とは相容れない」との批判に対し、アリストテレスの有名な「四原因説」における「原因」や「目的」は現在我々が使用する際の意味以上のものを含んでおり、むしろ「それぞれの事物がその事物であるまさにその理由」という意味合いが強いことを指摘しているが、これはアリストテレスの哲学全般に通底する重要な指摘だと思う。しかも著者は、現代自然科学とアリストテレスの対立点はそれのみではなく、事象を因果・継起的に捉えるか自然に内在する力によるものと捉えるかの違いにあるという。
またアリストテレスは魂:身体の関係を形相:素材(質料)の関係に準えたため、デカルト的ニ元論に対する一元論、特に機能主義(物理主義)的なそれの擁護者として扱われてきた。しかし著者によれば、アリストテレスの「魂」と今日我々が「心」と呼ぶものは全く異なるものである。「魂」は生物が生きるために必要な対象を適切に受容し内側に取り込むはたらきのことを指しており、そしてその対象がもつ能動的な「力(デュミナス)」が魂の受動的な「力」と相互作用することで生命活動(エネルゲイア)が営まれる、というのだ。この魂の機能から、近代以降デカルト的懐疑の対象とされた運動能力や感覚能力、栄養摂取能力が分離され、「思考(考える私)」だけが「心」として扱われるようになったというのだ。デカルトが「意識」という外的対象との遮断性を「確かなるもの」の根拠に据えたのに対し、アリストテレスは感覚能力等も含めた「魂」という外的対象との相互作用ををリアルなものと認めていたということだろう。無論、知的探究を前提としての受容でなければならないのだが。
最後に扱われるのは「存在論(オントロジー)」である。なぜアリストテレスは「なぜ『ある』が『ある』のか」などということを問題にするのか。四原説は生成変化する自然界を解き明かすために着目すべき点を表したものだった。しかしパルメニデスが拘ったように、世界には生成変化を免れ持続する「ある」というあり方が確実に存在する。では万物に共通する普遍的で原初的な「ある」とは何か?それを解き明かすには自然科学と異なるどのようなメソッドが必要なのか?
ここで出てくるのが例の「カテゴリー」である。アリストテレスはさまざまな「ある」のうち、主語に関連づけられる述語としての「〜である」に着目したが、カテゴリーはその述語やその表示する対象や事態を表す概念とされる(その後、分類するときの領域や部門を表す言葉として使用されるようになり、カントへと受け継がれてゆく)。主語に位置するSについて問う場合、Sが「何で『ある』か(どのような「ウーシアー」か)?」「どのようで『ある』か?」「どれだけで『ある』か?」という疑問文における「ある」だ。これらの疑問文に対する答えが同じカテゴリーを形成する。ここで出てくる「ウーシアー」は優れて形而上学的で難解な代物ではあるが、著者によれば「ある対象がなぜその対象であるのか」を論じる際、その対象の素材や構成要素をその対象となさしめる原因として規定するもの、換言すれば対象の形相であり本質が「ウーシアー」だという。
そしてその素材に該当するのが先述の「デュミナス(可能態)」であり、形相に該当するのが「エネルゲイア(現実態)」だという。アリストテレスは、この2つの「あり方」がウーシアーの何たるかを規定しているとしているが、これらの2相は互いに排他的に存在しながら多種多様な事象について当てはまるという包括性を有しており、前者は単に可能性にとどまらない「力」を備えることで、後者は実際にその力を発現することで、それぞれ基本的な「あり方」を規定している。
そしてついに議論は「不動のウーシアー=神」に到達する。この世界の因果的な生成変化を駆動する「不動の第一動者」は、デュミナス的な可能性に止まってはならず、常にエネルゲイア的な実現力でもって他を動かす。ここで「不動にも関わらず動く」という矛盾を突き破るのは、「他から愛されることにより愛するものを動かす」というあり方だ。自らは不動なのに他から愛される結果、他が動いてしまうというのだ。この特権的なエネルゲイアの発現こそが、「知性(ヌース)」の活動としての「智解活動(ノエーシス)」であり、さらにその対象も最高知性である自分に向かい「智解活動の智解活動」に至るという。このマスターベーション的に自家発電する「神」はひたすら自愛に専心し、結局のところデュミナス的なあり方にとどまっているような気もするのだが、著者はここにアリストテレスが豊かな「可能性」を世界に見出し、それゆえ無限の知的探究の対象とすべしとした根拠を見出しているようだ──「ここにも神がおられるのだから」というあの有名な一節は、このように読むと確かに新たな色彩を伴って立ち上がってくる。
Posted by ブクログ
アリストテレスの哲学を詳細にわかりやすく説明した本である。最後の章でアリストテレス復権についていろいろと説明されていた。実際の復権者の哲学の書籍を読んでいないので、簡略化された説明はあるものの、よくわかった、ということではなかった。
Posted by ブクログ
「で、あるべきだ」という信念(思い込み?)からコミュニケーションを始めようとうとする、つきあうのがメンドクサイ人には、しっかり調べて分析して自分のモノの見方を吟味してからしゃべってほしい、と切に願う。世界を、澄明に、フラットかつ緻密な目で見るということでありたい。
Posted by ブクログ
人は何のために生きるのか。古代ギリシャのアリストテレスは富でも快楽でもなく「善く生きること」こそ幸福だと説いた。中畑正志『アリストテレスの哲学』はその思想を誤解や批判に応答しつつ現代に読み直す。混迷の時代、私たちは理性と情念、必然と偶然のはざまで揺れる。速さや効率に追われる日常の中で調和を探る彼の声はいまも生きている。
Posted by ブクログ
趣味のなかで『アリストテレス全集』を読む機会があったが、あまりにも読みづらく、まずは全体像から知ろう、ということでこの本を手に取りました。
哲学の話なので簡単ではありませんでしたが、前半部の「徳」の話や「経験的習熟」の話は大変面白いと思いました。
すべての学問が日常体験を出発点にしているおかげで、何千年もの時を超えても、身近に感じることができるのだろうと感じました。
Posted by ブクログ
アリストテレスの本を読む準備に読んでみたけど、ある程度の知識は前提になってる感じがして一番目にはあまり向かない本だったかもしれない。
アリストテレスに向けられる批判に対するアンサーという形で彼の思想を紹介していく内容で、思ったより難しくて二回読んだ。思想を系統立てて紹介するというよりは、魂や原因などのアリストテレスの使用する用語の現代のイメージ・解釈とのズレを指摘したり、彼独自の考え方を丁寧に説明するのが主になっている。
アリストテレスの知的探求は、人間の知を求める本性と知的能力を信頼し、多くの情報を集めて観察や実践を重ねたうえで「なぜそうなっているのか」を把握することを目指す(単に答えを知ることではない。そこはプラトンと似てるかも)。得られる知は論証の形で表現される、というのが彼の知の枠組みで、これを基礎に様々な学問をなしていったらしい。特に自然学の探求においては「なぜそうなっているのか(原因)」は素材・形相・始動・目的の四種類の原因を探究するとか。
また、アリストテレスの倫理は行為の正当性ではなく「徳のある人」がする行為であることによって正当性が得られるらしいのだが、この部分がよくわからなかった。徳のある行為とは徳のある人のする行為である、とするとなんだかトートロジーに陥るような気がして…。最後のウーシアに関する話も分かったような分からないような感じで、もうちょっと勉強する必要がありそう。