あらすじ
日本人はだれしも「世間」にとらわれている。世間という人的関係の中で、「ゆるし」や「義理」「人情」といった原理に庇護されて生きている。西洋では、神にたいして罪を告白するキリスト教の「告解」という制度により、「個人」が形成され、その集団である「社会」が誕生した。しかし日本にはいまだに個人も社会もなく、世間のなかでしか「存在論的安心」を得られない。ゆえに、日本人は世間からの「はずし」を強く恐れる。日本の犯罪率が低いのはそのためである。もし犯罪や不祥事を起こした場合は、ただちに謝罪しなければならない。日本では真摯な謝罪によって、世間からの「ゆるし」を得て「はずし」を回避することができるのだ。ところが、近年日本の刑法が厳罰化する傾向にある。これは犯罪をゆるす「世間」が解体されつつあることのあらわれなのか? 法制度の変遷をたどりながら、日本「世間」の現在を問う意欲作。
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Posted by ブクログ
先日、不本意ながら謝るという出来事があった。そこから学んだことも多かったんだけど、そもそも謝る、謝罪って何なのだろうと思い、タイトルに「謝る」という言葉が入っているこの本を見つけた。
日本の独特な「世間」のことを書いている。日本には欧米的な「個人」や「社会」がなく、その代わりに「世間」があると。そこでは絶対的な基準がうやむやにされている。謝れば許すのが日本の「世間」であり、それは言い換えれば、謝らなければ村八分になるということ。だから、空気を読んでとりあえず謝れば罪がないことになったり減刑される。読んだことはないのだが、日本に「甘え」の構造を見出した名著があったけど、それと同じようなことを言っているんじゃないだろうか。
そういう日本の世間はいいのだろうか。大多数が形成しているのが世間だから、それでよいと思っている日本人が多いんだろうけど、私は窮屈だな。謝罪を求められた件だって、心からでなく謝罪したこと、転化的に謝罪したことがいまだにしっくり腑に落ちずにいる。
でも世間では、そういうときは空気を読んで謝罪をするのが大人ということになっている。なぜ日本では、それほど空気を読むことが素晴らしいこととされるのか。最近ちょっと目にした読みもので、「外国人も空気を読むが、その上での振る舞いが日本とは違う」というようなことを言っていた。本書の最後のほうで辺見庸さんを引用したりしながら、著者は「単独者」「独身者」といった世間の間に身をおき、自分の意思によって生きるスタンスを提案している。それは、やみくもに世間に反旗を翻すのではなく、世間を十分知ったうえであえて振る舞うものだと。そういうふうに生きたいものだし、そういう同志と出会いたい。
Posted by ブクログ
世間の「ゆるし」に腹が立ちつつも自分はどこか甘えている。
都合よく期待している。「起訴便宜主義」
はずされたくないから擦り寄る気持ち悪さ。暗黙の了解。
おかしいとは思いつつも世間とはそんなものと割り切れる日本人。
著者のいう「世間-内-存在」による「ゆるし」、「世間-内-存在」が
「はずし」たら「世間-外-存在」で孤立して生きていけない日本。
IT世間、10代、学生にSNSが浸透する理由、自殺者が減らない
こと。
世間が我がことのように論評し、世論を形成すること。
「共通の時間意識」から生じる同情と共感。
「謝罪」というおまじない。呪術。
「世間に流されないようにしないといけない」とは誰が言ってたん
だっけ。
「世間-内-存在」と「世間-外-存在」の間、「世間-間-存在」
徹底的に「世間」の空気を読み、「世間」をよく知った上で、あえて、
「世間」の空気を無視する。そういう態度が必要だ
著者はそう提案している。