あらすじ
1871年,使節団とともに,女子留学生の一員として渡米した津田梅子は,11年間かの地で教育を受け帰国.その成果を日本の女性のために役立てたいと願うが・・・・・・.日本の女子教育のパイオニアであり,シスターフッドを体現した津田梅子の足跡を,その内面や思索にも迫りつつ,最新の研究成果・豊富な資料をもとに解説する.
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女性で尊敬する人ナイチンゲールと津田梅子だけど、津田梅子はナイチンゲールに憧れていて、知り合ってたらしい。津田梅子って6歳から17歳までアメリカ留学してて、日本でキリスト教が禁じられてた時にキリスト教に改宗してるって、そういう女性が居るって今聞いても驚きの経歴だと思う。親の都合でアメリカに住んでたなら分かるけど。女性の高等教育って考え方は海外の輸入物なんだなと思った。日本の女子校の殆どがキリスト教系だもんね。
高橋裕子
1980年(昭和55年)津田塾大学英文学科卒業。84年に筑波大学大学院修士課程修了。89年に米・カンザス大学大学院博士課程修了。教育学博士。04年津田塾大学教授、16年より学長。専門は、アメリカ社会史(家族・女性・教育)、ジェンダー論。著書に『津田梅子の社会史』(玉川大学出版部)等。アメリカ学会副会長、日本学術会議連携会員。
「 一九〇〇年、津田梅子は開校式式辞で「この塾は女子に専門教育を与える最初の学校であります」と述べ、女子英学塾(現・津田塾大学)を創設しました(図序-1)。女子英学塾は、女性に専門的な高等教育を提供する学校として、私学の草分けです。女性と男性とでは、まったく異なる教育が必要であると考えられていた当時、女性は大学はもちろんのこと、旧制高等学校にも入学することが許可されていませんでした。そのような中、わずか一〇人の生徒を迎えて始めた私塾でした。親友であり同志でもあった、大山捨松、アリス・ベーコンらを前に、梅子は自身の教育理念を開校式の式辞の中で明らかにしています。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「梅子は同時代の教育の状況を次のように把握していました。女子教育は進み、高等女学校(現在の中学校、高等学校のおよそ初年次までに相当)は増えてはきているものの、女性のための高等教育が振るわないので、文部省が設けた教員検定試験に合格するような女性が輩出されていない。そこで梅子は、女子のための英学塾をつくって、世界への「窓」を開く英語、そして英学を学び英語教師の免許状がとれる女性を育成したいと考えたのです。英語教師が女性に開かれた数少ない職業の選択肢のひとつで、経済的自立を確かにする手段でもあるとみなしていたからです。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「 実は、それは梅子の目的のひとつであって、別の目的も持っていました。彼女は日本の女性たちが高等教育を受けて、社会に貢献するような機会が、男性と同じように開かれることを心の底から願っていたのです。「オールラウンド・ウィメン」( all-round women)という英語を使って、専門としての英語のほか、時事問題や音楽や絵画などの芸術にも女性が広く触れられるようにと理想を掲げていました。今ではよく言われるようになった、リベラルアーツ教育( 5章(注 4)参照)を実現し、明治の女性たちがそのような幅の広い、高い教育を身につけることで、広い視野を獲得し、男性とともに社会に参画できるようにと目指していたのです。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「梅子は海を越えたアメリカから大きな支援を得ましたが、どうしてアメリカの人びとに支えてもらうことができたのでしょう。明治という時代にあって、なぜアメリカの人びとと連なることができたのか。この小さくても着実な一歩を踏み出す勇気と展望をどのようにして得たのでしょうか。 しかも当時、梅子は官立の華族女学校(私立学習院女子中等科・高等科、女子大学等の前身)の教授を務めており、高い給料と国家公務員としての身分を保障されていました。研修・休職期間も含めると一五年間も務めていた華族女学校、そして女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)での教授の兼務を離れることについては、皆がとても驚きました。また、国費で留学した梅子が官立の学校を辞職するにあたっての交渉と手続きは容易ではなかったようです。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「梅子は、一八六四年一二月三一日(陽暦)に津田仙と初子の二番目の子どもとして江戸牛込南御徒町で生まれました(図 1-1)。男の子を期待していた父親の仙は、また女の子が生まれたと落胆します。その日の夜は家に帰ってこなかったし、一週間たっても名前を考えようともしません。それで、母親の初子が枕元にあった盆栽の梅に因んで、厳しい寒さの中でも凜として咲く梅の花のようにと願いを込めて「むめ」と命名したと言われています。梅子という名前には、一九〇二年に改めています。本書では、一貫して「梅子」と記します。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「津田梅子については、父の仙が開拓使に勤務していたため、ケプロンの歓迎会にも出席する機会があって、女子留学生募集の話を聞くことができる立場にありました。初め仙は長女の琴子を応募させようと考えていたようですが、琴子はそれを望みませんでした。留学することを「望んだ」梅子が応募することになったのです。このことは梅子がアメリカで過ごした子ども時代の作文の中に明記されています。「私の姉は家から遠く離れたところに来たくはなかったのです。私だって両親のもとを離れたくはなかったのですが、それでも私はアメリカに行くことを望んだのです」と。もちろん、この話をもちかけた仙は娘をアメリカに行かせたいと考えていたのでしょうが、この作文から本人の前向きな意思も働いていたことがわかります。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「そもそも、幼少の女子が家族と離れてアメリカに留学すること自体が前代未聞でしたし、このような幼い少女が一〇年もアメリカで過ごすことがどのような結果になるのかということはまったくの未知数でした。歴史家の田中彰は、これらの少女たちが明治維新の敗者となった下級官吏の娘たちであったから、犠牲になる可能性を顧みず、国益に資するよう、未知の西欧社会を探る実験台として選ばれた「人身御供」であった、と述べています(田中彰『岩倉使節団「米欧回覧実記」』)。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「彼らの斬新な点は、年端もいかない女子の留学に賭けてみるという判断にあります。男子の留学はすでに行われていましたが、女子が留学しても、帰国後、男子と同様に評価され、起用されるような受け皿が準備されるのかどうかも定かではありませんでした。明治維新で失墜した家族や、あるいは大きな時代の変化の中にある国家のためにも、女子のアメリカ留学が貢献するであろうという認識があったからこそ、娘たちを開拓使派遣によるアメリカ留学に託したのでしょう。社会の変動によってもたらされた新しい価値や未来の社会が何を必要とするかといったことについて、展望は持っていたのでしょうが、危険を顧みず、リスクを取ることもはばからない姿勢があったからこそ、三少女の留学は可能になったのです。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「当時、ソーシャル・ダーウィニズムという、科学の分野で議論されていた進化論を社会の「文明度」にもあてはめた考え方が興隆していて、人種の序列を正当化する役割を果たしていました。見逃せない点は、森や黒田は日本人男性が欧米の女性と国際結婚することを考えてはいても、日本人の女性がそうすることは視野に入っていないことです。その背景には父系の血統を優先する考え方があるからです。逆に女性には、幼少期から女子留学生がヴィクトリア的女性のハビトゥスを身につけ、「真の婦人」となっていくことで、「人種の改良」に役立っていくと想定していたことがわかります。ただ、彼らが魅力を感じたアメリカの「家庭」のありようは、キリスト教がその最重要な基盤になっていました。その当時、日本ではキリスト教は法律で禁じられている宗教でしたから、実はそのような兼ね合いについても考えなくてはなりませんでした。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「 森は、一八七一年には、『アメリカにおける生活と資源』( Life and Resources in America)という、日本におけるアメリカ研究の端緒とも言える書籍を監修し出版しています。森は、日本におけるアメリカに対する偏見を取り除き相互の理解を促進させ、日本社会の近代化を推進することを考えていました。この本の編集を助けたチャールズ・ランマンが、後に梅子のホストファーザーになる人物です。 チャールズ・ランマンは、一八一九年ミシガンで生まれました。チャールズの祖父と父はイェール大学で法律を学んでいます。祖父のジェームズは連邦上院議員も務めたことがあり、第二代大統領のジョン・アダムズのまたいとこにあたります。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「梅子の母・初子とアデラインとの間には書簡のやりとりがあったようです。その中で、梅子のキリスト教への改宗についても触れられていました。アデラインは梅子自身の一存に任せたいが、彼女がキリスト教に改宗することを望んでいるということを、まだ日本がキリスト教禁止であった時代に言及していました。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「宗教的に敬虔であることは、当時のアメリカ女性が持っているべき中核的な価値でしたから、梅子はアメリカ人家庭での教育を真髄から受ける運びとなったのです。日本人というアイデンティティーを強く持ちながらも、道徳教育の面ではアメリカ人の子どもと同様にキリスト教を基盤として育まれることになりました。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「 実際、帰国直後は家族や親戚、友人に再会できてうれしかったし、母国の街並みや風景、人びとを見ることができて幸福に思いました。しかし、すぐに梅子は大きな困難に直面します。日本語がわからなくなっていたからです。言葉を聞いて理解することも、話して伝えることもできませんでした。実の母やきょうだいとも意思疎通ができません。父の仙と姉の琴子だけは英語を解したので、通訳の役割を果たしてくれました。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「 「移植された木のようで変な感じがします」(一八八二年一一月二三日)と梅子は帰国した直後にランマン夫妻に書いています。母国である日本の文化に適応することは想像以上に困難なことでした。この再適応は、留学当初、アメリカでの生活に適応することよりも難しいことだったかもしれません。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「これらの梅子の文章に、独自の道に進む勇気と、試練があってもそれに立ち向かうのだという気概が表されていると皆さんは感じませんか。多くの人と違っていることは苦しいことなのだけれど、それでも梅子は自分自身の可能性に挑戦してみるという自由を選択したかったのです。周縁に生きる者だからこそ独自の視点を持ち得た好例です。このとき、梅子はまだ一八歳でした。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「女子も男子と同様に学問をして一人の人間として教養を身につけながら成長し、自分自身の頭で考えることができるようになるといった、現代では当たり前のこととしてとらえられていることが、当時は当たり前ではなかったのです。女子と男子の教育は、異なっていて当然と思われていました。将来果たす役割が性別によって異なっているので、何を学ぶか、どのように学ぶか、何年間くらい学校という場で学ぶか、それらがすべて異なっていたのです。明治社会の中でもっとも高い位置にあった天皇からそのような女子教育の方針が表明されていたことは、華族女学校にも大きな影響を与えていたことでしょう。 梅子がこの「御親喩」を詳細に理解していたかどうかは定かではありませんが、「西洋式の」というより、西洋で教育を受けてきた梅子がイメージしていた女子教育は、視野の広い自立した人間を育てることに重きを置いたものです。結婚についてはさきに紹介した通り、梅子は「嫁に行く」ことが想定されているような結婚はできないと思っていました。女性の人生をどのようにとらえるかという女性観の根幹の部分で、天皇を頂点とする国の方針と大きな違いがあったことがわかります。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「当時のアメリカでは、女性の知的能力や病というものが、「科学的」という名のもとに検討される対象となって、女性は厳しい学問に耐えうる身体を持っていないと考えられていたのです。女性の脳の重さが男性よりも軽いと言われていたことなども日記には記されています。であるからこそ、トマスは身を呈して、女性も学問ができるということを実証したいと一四歳の頃から決意していたのです。 さらに、トマスと彼女の友だちが科学の実験室がほしいと言ったときにも、母からは女性にふさわしくないと言われ、父からは聖書の教えを持ち出され、「女性は男性のために創造されたのであって、女性のために男性がつくられたのではない」と諭されました。「同じ能力の男女を比較すればあらゆる面で男性の方が優っている。つまり、愛らしさ、優しさ、しとやかさ、美しさ、愛情深さは女性に備わった資質であり、支配力、精神力、体力、知力は男性に備わったものである」のだから、「妻は夫を敬い、夫は常に妻を導く、そのように神によってつくられている」と説かれました。このような当時流布していたジェンダー規範を両親からも突きつけられ、一五歳だったトマスは、「ほんのわずかでも私の自由が奪われるのなら、私は決して結婚などしない……」という決意を日記に表明していました。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「それはまた、帰国直後からアデライン・ランマンに綴ってきた日本の女性についての問題意識をアリスとともに整理することにもつながりました。本書の根底にあるテーマは日本の女性の地位向上です。日本の女性にも、男性と同等の高等教育の機会が必要で、日本社会のためにも高等教育を受けた女性が必要であると梅子とアリスは意気投合したのです。日本の状況や文化をいかにして「文明」に近いものとしていくか、「改革」や「改善」という言葉を使って、二人の意見や提言をこの本に盛り込みました。特に二人が強調したのは、日本の人びとがキリスト教の良い影響を受けつつ、日本の家庭と教育を改革していくことでした。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「講演の冒頭で梅子は本会議に招待されたことへの謝意と、この機会を通してクラブ運動について多くを学びたい旨を述べました。日本の状況については、女性の課題に対して進歩的な運動への理解が進んでいることや、皇后が女子教育や女性の地位向上に理解が深いことなどを紹介した後、政府高官も梅子と筆子の派遣に、つまりは女性の運動にきわめて協力的であったことを示唆しています。そしてブリード副会長と面談した大隈、外山が大きな力になってくれたことを説明し、二人の男性の理解を取りつけるブリードの手腕を称賛しました。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「梅子はアメリカに滞在中に過去数十年で進展した女性の状況、特に教育のありようについて視察する意思を表明し、そのような機会を提供されたことに感謝の言葉を繰り返しました。この機会を、西洋の女性から東洋の女性へ、アメリカの女性から日本の女性へと差し伸べられた連帯の申し出と受け止め、謝意を述べたうえで、国々は外交や交易のみならず、女性の課題も含めて、シスターフッドを通してもつながっていかなくてはならないと訴えました。そして日本の女性の状況が進展し、女性が高い地位につくようになれば、今度は日本の女性が東洋の他の国々の女性の模範となり、支援の手を差し伸べることになると語り、世界の女性たちの教育や地位の向上は一歩一歩進捗し、女性は隷属した状態、性的対象ではなく、男性と対等な真のパートナーへと立ち上がっていくことでしょうという希望を述べ、再度の感謝の言葉で結びました。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「日本の雑誌に掲載されたナイチンゲールの写真を見せると、微笑んで、「これは実物よりずっときれいです」と言った後、彼女は日本の女性の状況について尋ねました。梅子が看護の仕事の発展ぶりを説明し、それがいかにナイチンゲールのおかげであるかを伝えたところ、「そんなことはまったくありません。看護に従事されている方々の賜物です」と彼女は謙遜して言いました。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「梅子は厳しい教師でした。女子英学塾で実際に梅子に習った経験のある卒業生はそのように語っています。ここで学んだ者たちが高等女学校の教員になれることがひとつの目標でしたから、梅子は塾の命運をかけて学生の指導に心を砕きました。 梅子は、教え子たちが全国の高等女学校に、そしてときには海外に巣立っていくことを喜び、達成感を得ていました。卒業する学生の進路にも心を配り、親身になって世話をしていました。塾長室に日本地図を掲げて、高等女学校に着任する教え子の赴任地に旗を立てていたことに、梅子の卒業生を誇りに思う気持ちが表されています(図 6-5)。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「国境を越えるという意味では、生涯で五回の海外渡航をしています。この時代においてはきわめて希少な恵まれた体験です。また、宗教的価値観の境界を超えて、日本の武士道などに基づく道徳観、そしてキリスト教に基づいた愛と無私の精神、その両方を持ち合わせていました。国境を行き来し、身を呈して梅子を支えた盟友も日米両方の人びとでした。 そして、何より梅子が乗り越えようとしたのはジェンダーの規範でした。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
「また、「人生を無為にせず、広く社会に働きかけることのできる、有為な人になれ」という言葉の基盤には、多くを得た者は、社会にそれを還元しなくてはならないというノブレス・オブリージュの考え方、そして、キリスト教精神とも言える思想がうかがえます。 音声としても遺された式辞の「声」には、女性に参政権がなかった時代にあって、女性も市民として責任ある役割を果たす自立した個人であれ、という梅子の理想が語られていました。世界に進水する船のかじ取りに、一人ひとりが責任を持って有意な航路を見出すように、と梅子は願ったのです。」
—『津田梅子 女子教育を拓く (岩波ジュニア新書)』髙橋 裕子著
Posted by ブクログ
津田梅子の数奇な人生を丁寧な解説と共に学ぶことができました。本書では梅子の偉業だけでなく、人との出会いの大切さ、ジェンダーバイアスという人工の障壁の乗り越え方など、現代に生きる私たちにも通ずる人生のヒント提示してくれます。
Posted by ブクログ
津田梅子の生涯と功績が時代背景も絡めてわかりやすく書かれていて過不足がない。
梅子が留学し、理想としたアメリカでも、当時は女性参政権はなく、大学も男性と同じように学べたわけではないが、それでも日本と比べれば天地の差があったのである。大金をかけて留学させ、三人(梅子、捨松、繁子)とも、意欲も能力も高かったのに、帰国しても仕事がないというのは、いかに苦しかっただろうと思う。男性の帰国者はやりがいのある仕事と高い地位が約束されていたのに。
繁子と捨松は結婚したが、そこには諦めもあったに違いない。梅子は生涯独身だったので仕事を堂々とやれたというのはあると思う。昭和の終わりの時代ですら、結婚した女性が働いていいのは、家事育児をきちんとやって、夫に「迷惑」をかけないならば、という条件がついていた。つまり、家事育児が女の一番大切な仕事であり、仕事で手が回らず夫に家事育児をさせるようでは妻失格という世間の感覚だった。明治はもちろんそれ以上だっただろう。
梅子は新しい紙幣の顔になるが、立身出世した男性よりダントツで身辺潔白だったし(婚外子も妾も当たり前だった男性と比べれば)、「津田塾大学を作っただけでしょ」と言う人は、当時女性が働き、女子に教育(嫁入り教育ではなく、本当の学問)を受けさせることがいかに困難であったかを知るべきだと思う。
ま、しかし、あまりに人間としてもケチのつけようのない素晴らしい人物なので、面白味には欠ける。これは、私個人の「どこかぶっ壊れた人が好き」という特殊な嗜好によるもの。普通にオススメできるいい伝記だと思う。
大庭みな子の方は小説だから梅子の違った面も描かれているのかなと気になっている。