あらすじ
幕府に対し抗議の切腹! 婚活支援も代官の仕事! 「水戸黄門」が描く江戸時代は史実と正反対!? 借金だらけの質素な生活に文句もいわず、領民の生活向上のために汗を流した真の武士――今日、代官といえば「悪代官」が定番である。頭巾をかぶり、お忍びの姿で豪商を訪れ、山盛りの切り餅(二十五両の包み)を前に、「むふふ、お主もワルじゃのぉ」「お代官様にはかないません。わっはっはっ」と「賄賂を取り放題、悪行三昧」の場面をテレビなどで見かける。これは大正時代に一世を風靡した、立川文庫の講談本『水戸黄門漫遊記』から始まるようだ。そして、昭和44年(1969)8月から始まったテレビの『水戸黄門』により、代官は完全に悪役の汚名を着せられ、世間に定着させられたのである。しかし、江戸幕府の270年わたる繁栄を支えたのは紛れもなく代官たちであり、そこには多くのドラマが隠されている。
●徳川家康も一目置いた名代官とは
●「婚活」の世話も代官の仕事?
●代官と商人の涙ぐましい関係
●江戸時代の百姓一揆は1件だけ?
●代官も直面した中間管理職の苦悩
●超多忙だった南町奉行・大岡越前
●「遠山の金さん」のリアルな姿
●時代劇には登場しない無頓着代官
●代官が行った世界初の偉業とは
●アメリカの土を踏んだ代官の無念
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Posted by ブクログ
チェック項目8箇所。代官が誤解されているのは、江戸時代の農民が知られていないことにも由来する、江戸時代の農民たちは非常にしたたかであり、むしろ代官のほうがよっぽど苦労した。江戸時代、私領(大名領、旗本領)でも幕領でも、年貢は「五公五民」が基本だった。島原・天草一揆こそ、江戸時代の最初で最後の一揆だった、「信達騒動記」……「このたびの騒動、寛永の頃、天草四郎や由井正雪の類の一揆とは違い、強訴なので、て道具を持たないことはもちろん……」、一揆は武器を持って戦うが、強訴は戦わないので武器は持たない、信達騒動は大規模な百姓一揆のように見えるが、武器を持たないので一揆ではない。五代将軍綱吉の時代に、51名の代官が処分されている、このように幕政改革があると、最初に荒波をかぶるのは幕領支配の前線にいる代官たちであった、代官だけは家柄が通用しない実力の世界である。天保の飢饉に見舞われ、奥州出羽は飢餓に陥る、それをきっかけに天保6年(1835)藩は、「女買入」を代官に命じた、そこで、飢餓に苦しむ最上領から女性を買い入れ、「村々の妻なき男に配当する」ことになった、買い入れる女性は14、5歳以上、場合によっては12,3歳でも可能とした、これは数え年なので、現代の女子高生以前の年齢にあたる。秀吉政権下でも何かというと、「一郷一町曲事。御成敗くわえられるべきこと」と連帯責任で村や郷、一町全員が殺された。八大将軍吉宗と大岡越前守忠相の最大の功績は、農民出身の高級官僚を作り出したことにある、ここに江戸幕府中興の祖たりえた理由があった。林鶴梁代官は異国船騒ぎのあと、海防を憂うあまりか、激務のせいか、突然吐血した、その後、快方に向かったが、再び夜中に吐血して、翌朝駆けつけた医師に「童便」を指示された、「童便」とは、童子の便のことで、子供の大便を干して粉にし、これを丸薬として生姜汁とともに飲む。江戸の歴史をつぶさに見てみると、代官たちは真摯な姿勢で領民と向き合い、領民の生活を少しでも改善させるために日々奔走していたことが分かる、水戸黄門が定着させた「悪代官」のイメージとは対極に位置する代官たちが、現実には大勢いたのである。