あらすじ
終戦間もない北海道網走での少年時代。著者は、雑音まじりのラジオから聞こえる異国の言葉に胸をときめかせ、語学に邁進した。そして独学で英語を磨き日米交換留学生になり、教材が入手困難な中あらゆる方法を駆使して30歳で「20カ国語」をマスターした。語学上達のノウハウを惜しみなく開陳した名著であり、外国語の習得に熱中した一人の青年の青春記。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
著者の種田輝豊氏の生まれは1938年。翌年1939年9月にドイツ軍がポーランド侵攻を開始し第二次世界大戦が始まった。日本は1941年12月にイギリス領マレー半島へ侵攻して大戦に参戦した。終戦は1945年、種田氏6歳の時である。
そんな時代背景と相まって、彼の外国語勉強法はまさに「執念」である。今は当時と違って大量に、様々な語学テキストが溢れているというのに、果たして私は彼ほどの熱意を持ち学べるのだろうか? 甚だ疑問である。
とはいえ、私も仕事で英語を使う身。ブロークンでも通じるからいいや、というざっくりとした気持ちが、否応なしに引き締められた。
ブロークンで良い、通じれば良いから挑戦して話そう、というのは大事だが、いつまでもその考え方に甘んじていては成長が見られない。相手の尊敬を得るためには、正しく語学を話し書けるようにならなければならない、というのは、まさにその通りである。勉強しよう。
一番ダメージを喰らったのは、著者の知人である流暢に英語を話す外国人の話である。彼は日本語をローマ字で覚え、単語や語句のイメージを単純にしか記憶していなかったため、時折「あの人はどこにウサンムショウしたの」などと頓珍漢な言い回しをしていたらしい。英語でこれをやらかしている気は、正直とてもする。
語学を学ぶノウハウは、今となっては使えない手もある。
映画館で録音する件は「いや今やったら著作権法違反」と内心で突っ込んだが、案の定、注釈で違法である旨記載されていたのには笑った。まぁ、私的利用であるからして、戦後間も無くの立法精神に則れば目を瞑ろうというものである。
とはいえ、有用な方法もしっかりと示されている。備忘録として、ここに幾つか記して感想を終える。
(1) 150〜200pの入門書を通読すること。単語数は1000〜1500語程度が望ましい。目安として1週間で鳥瞰図的展望を試みる。1000〜1500語記憶すればたいたいの文章は読める。インテリ層はおよそ8000〜1万語を使う。その次に精読を3回以上繰り返す。飽きたら休憩してOK。
(2) 初歩の時代には初歩の辞書を用いる。作文をする段になって和英辞書などを入手する。
(3) 初見の単語はまず眺めて印象を感じる。意味を考える。最後に発音する。単語そのものとして覚える+文章や会話の中で捉える。例としてはin place ofやI walk home. ゆえに単語集は勧められないとのこと。
(4) 基礎的な文章を丸暗記することが最適。
(5) いかなる時でも、「これは英語でなんと言うのか」と好奇心を持ち、気に入った言い回しや単語はメモして調べる。
(6) 独り言を繰り返して作文力を鍛える。
(7) 毎日少しずつより「がむしゃら」時々「休憩」
(8) 好きなこと、趣味、興味あることを語学の架け橋にする。
(9) 会話学校(プロが教えているとは限らない)やサークル(馴れ合い)は勧められない。
(10) 発音は脳に刻まれるまでネイティブのものを繰り返し聞く。音楽も最適。
(11) ラジオやテレビ講座は入門書の補足として利用する。語学雑誌は復習用に用いて自身の語学力を図るために用いる。
(12) ある程度基礎文法を知ったら、辞書を頼りに原書や興味ある分野の出版物を読む。
(13) 習得済みの言語で他の言語を学ぶ。
Posted by ブクログ
島崎和歌子さんは出てきませんが、何か参考になる勉強法があるかなと読み始めたところ、そんな事はどうでもよくなるほどのとんでもない大河ドラマが眼前に広がりました。
学生時代の英語修得はまだしも、そこから残りの19ヶ国語の修得がダイジェストのようにサラッと書かれるだけという驚異的、脅威的ですらある半生記でした。
種田さんの外国語修得への一種の変態性とすらいえる情熱は、例えば『ダーリンは外国人』のダーリンも言語オタクだったように、一定数の人々が持っているものなのかもしれませんが、私のようなテレビばかり見て育ってきた俗人はテレビでスポットライトが当てられてきた「俳優」「芸人」「ミュージシャン」「スポーツ選手」といったような人々が各々の芸術活動や競技活動に人生を懸けることを簡単に受け入れる一方で、言語に対して生活のほぼ全てを捧げるような生き方に対して「何故?」という拒否反応に近い感情すら抱いてしまいます。
しかし、種田さんが語学学習への愛ゆえに、文法が正しくない状態で「伝われば別にいいじゃん」的な姿勢で外国語を話す人をディスっている部分を読んだとき、私もお笑いや小説や演劇等でそれがいくらウケたり評価されていても「いやこんなもんが面白いとされてるなんて終わってんな」とか憤りを憶えるのに似ていると気づきました。
お笑いとか演劇にそんなに興味がない人からしたら「別にウケてんだからいいじゃん」って話だし、実際私もよくよく冷静に考えてみれば、お金を払ったお客さんが納得して喜んでいたり、その作品を受け取って幸せな気持ちになっているんだから、全然良いじゃないかということを理屈では理解できるのです。
また、私は外国語修得界隈に疎いので、文法が間違っていようと相手に伝わってるのならそれで良いじゃないかと思ってしまうのです。
でも、そういうことじゃない。好きってそういうことじゃないのです。好きだからこそ面倒くさい人になるのです。美学みたいなものを拗らせて、こういう笑いの取り方はクソだとか、こういう語学学習はクソだとか、思ってしまうのです。
私と種田さんは、好きを拗らせた同志なのです。
そこに気づいたとき、種田さんが魅了された言語修得の世界に興味が湧きましたし、また同時に、他人から理解されないようなどんな物でも人生を捧げるほど好きになっていいんだ、すでにこの世に存在している「推し活」的なジャンルに見当たらないような物でも、何だって好きになったっていいし、何だってそれに生活全て費やせるほどのめり込める可能性があるんだという、世界ってものすごく希望に満ち溢れためちゃくちゃ楽しい場所なんじゃないかと思える、希望の書ともいえます。
まだいろいろ書きたいですが、今これを駅のベンチで書いておりまして、今、あと15秒後にゲボを吐こうとしているんじゃないかというコンディションのOLさんが隣に座ってきたのでここまでにします。