【感想・ネタバレ】朝日新聞政治部のレビュー

あらすじ

「吉田調書事件」の当事者となった元エース記者が目にした、崩壊する大新聞の中枢
登場人物すべて実名の内部告発ノンフィクション

地方支局から本社政治部に異動した日、政治部長が言った言葉は「権力と付き合え」だった。
経世会、宏池会と清和会の自民党内覇権争い、政権交代などを通して永田町と政治家の裏側を目の当たりにする。
東日本大震災と原発事故で、「新聞報道の限界」をつくづく思い知らされた。
2014年、朝日新聞を次々と大トラブルが襲う。
「慰安婦報道取り消し」が炎上し、福島原発事故の吉田調書を入手・公開したスクープが大バッシングを浴びる。
そして「池上コラム掲載拒否」騒動が勃発。
ネット世論に加え、時の安倍政権も「朝日新聞バッシング」に加担し、とどめを刺された。

著者は「吉田調書報道」の担当デスクとして、スクープの栄誉から「捏造の当事者」にまっさかさまに転落する。
吉田調書報道は、けっして捏造などではなかった。
しかし会社は「記事取り消し」を決め、捏造だとするバッシングをむしろ追認してしまう。
そして、待っていたのは「現場の記者の処分」。
このときに「朝日新聞は死んだ」と、著者は書く。

戦後、日本の政治報道やオピニオンを先導し続けてきた朝日新聞政治部。
その最後の栄光と滅びゆく日々が、登場人物すべて実名で生々しく描かれる。

【目次】(抜粋)
◆第一章 新聞記者とは?
記者人生を決める「サツ回り」
刑事ドラマ好きの県警本部長

◆第二章 政治部で見た権力の裏側
政治記者は「権力者と付き合え」
清和会のコンプレックス
小渕恵三首相の「沈黙の10秒」
古賀誠の番記者掌握術
朝日新聞政治部の「両雄」

◆第三章 調査報道への挑戦
虚偽メモ事件
社会部とは違う「調査報道」を生み出せ!
社会部出身デスクとの対立

◆第四章 政権交代と東日本大震災
内閣官房長官の絶大な権力
小沢一郎はなぜ総理になれなかったのか
原発事故が突きつけた政治部の限界

◆第五章 躍進する特別報道部
福島原発の「被曝隠し」
「手抜き除染」報道と特別報道部の全盛期

◆第六章「吉田調書」で間違えたこと
吉田調書取材班の結成
吉田調書報道の「小さなほころび」
危機管理の失敗
動き始めた安倍政権
「池上コラム問題」はなぜ起きたのか
衝撃の木村社長会見

◆第七章 終わりのはじまり
バッシングの嵐と記者処分
ツイッター騒動と「言論弾圧」
東京五輪スポンサー

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Posted by ブクログ

ネタバレ

朝日新聞政治部

著者:鮫島浩
発行:2022年5月25日
講談社

タイトルは地味だけど、無茶苦茶おもしろかった。

「吉田調書」とは、福島第一原発の事故直後、最前線で危機対応した吉田昌郎所長が、政府事故調査・検証委員会の聴取に答えた内容記録。政府は極秘文書として公開せず、隠し続けた。これを入手した朝日新聞は、2014年5月にスクープ報道し、大きな衝撃を与えた。しかし、同年9月、木村伊量(ただかず)社長は記者会見し、その記事の一部を取り消した。この記事のデスク(次長職)と吉田調書を入手した2人の記者(年上の部下になる)は、「捏造記者」として激しくバッシングされ、どういう理由かは不明だが個人情報がネットに晒され、家族も含めて考えられないような個人攻撃を受け続けた。

「吉田調書」は、どう読んだって「捏造」であるわけがない。後に他紙も入手し、政府が公開した内容そのものであり、どうして「捏造」と言われるのかは全く理解できない。吉田所長が「すぐに現場に戻れるように待機」を所員に命令していたにもかかわらず、約9割が福島第二原発に退避していたことが判明したが、それを「命令違反」と報じたことが朝日新聞の間違いだった。いや、間違いではなかったかもしれないが、中には知らなかった所員もいる可能性があり、最初からそう言い切るのは不適切であることは間違いない。

では、どうして「捏造」といわんばかりの詫びようで取り消してしまったのか。当事者がその真相を明かしているのがこの1冊。そこには、同じ年にやはり記事取り消しを行った「慰安婦」問題が重厚に絡み、ネット時代における発行部数の低迷が関わっていた。

この本は、それを話の核にはしているが、筆者が大学を出てから記者として経験した様々なことが織り交ぜられていて、無茶苦茶おもしろい。自伝的ノンフィクションは大げさな面や正直でない面があるかもしれないことを割り引いて考えても、とても面白い本だった。それにしてもタイトルが地味すぎる。内容的には合致しているが、もっと別のタイトルにすればもっと売れるのにと思う。

「吉田調書」事件の経緯と真相を先に記すと・・・

2012年6月、ライバル吉田慎一(後のテレ朝社長)に勝ち木村伊量(ただかず)が社長に就任。
2014年5月14日、「吉田調書」第一報。
2014年9月11日夜、木村社長の緊急記者会見。「吉田調書」を「間違った記事だと判断」し、「『命令違反で撤退』の表現を取り消」した。
2014年11月、木村社長辞任

著者は「吉田調書」報道でのデスクであり、記事そのものには自信があったが、「命令違反で撤退」の見出しや表現については当初から修正の必要性を感じていた。中には命令を知らずに第二原発に避難した社員もいるのではないか、と。著者らは修正記事を提案していたが、3年連続の新聞協会賞を狙う木村社長が少し先延ばしにした。正しい報道より受賞の栄誉を優先した。しかし、協会賞の申請を行ったが、「吉田調書」を入手できない他のマスコミから関心を持たれずに、早々と候補から消えた。

前々から指摘されていた「慰安婦」報道の「吉田証言(吉田清治氏証言)」について、前任の秋山社長が先延ばしにしていたものを、木村社長が自分で決着をつけるとしていた。木村氏は金丸信に深く食い込んでいた記者で、今も安倍総理と連絡が取れると言っていた。2014年8月5日、朝日新聞は特集記事「慰安婦問題を考える」で吉田証言を虚偽と判断し、それを取り上げた16本の記事を取り消した。これを機に朝日バッシングが吹き荒れる。

政府は「吉田調書」を公開するつもりはないとしていたが、他社にリークして朝日批判を展開した。そして、朝日の報道のどこが間違っていたかを説明して回った。8月18日、まずは産経が「吉田調書」入手(恐らく政府がリーク)を報道し、朝日の報道を批判。朝日新聞包囲網が始まった。そして8月25日に菅官房長官が「吉田調書」を9月に公開すると方針転換を発表した。

8月29日朝刊に掲載予定の「池上彰の新聞ななめ読み」が掲載拒否される。内容が「慰安婦(吉田証言)」への朝日の対応が遅きに失したというものだったため、木村社長が拒否。

2014年9月11日、木村社長は緊急記者会見して「吉田調書」記事の一部を取り消す。「吉田調書」「慰安婦(吉田証言)」「池上コラム」の3点セットでバッシングされるなか、「吉田調書」をフィーチャーして他の2点から目を逸らさせ、難を逃れようとの狙いだった。
 
発行部数減に悩む朝日新聞は、テレビ朝日との連携を強めて打開しようとしたが、ちょうどテレ朝は初めて生え抜きである早河洋氏が社長になり、独自色を強めていた。また、早河氏は安倍や管と密接な関係を築いていた。朝日を嫌う安倍政権は、テレビ朝日との連携強化を阻止したかった。2013年夏の参院選で圧勝したものの、盤石ではなく、NHKに続いて民放各社や新聞各社の「メディア支配」に力を入れ始めた。木村社長を辞任に追い込んで、早河社長のテレ朝との蜜月関係を保ちたかったのだろう。木村社長が辞任した翌年2015年春、報道ステーションは長年受け継がれてきた朝日新聞記者によるコメンテーター指定席をなくした。

**********

筆者は朝日新聞の内定を断り、新日鉄への就職を決意したが、鉄鋼マンにとしての自分が想像できなかったため辞めて、断った会社にもう一度問い合わせてみたら、唯一OKしてくれたのが朝日新聞だった。

警察は記者同士の競争意識につけ込み、警察に批判的な記者には特ダネを与えない。他の記者全員にリークし、批判的な記者だけ「特オチ」させることもある。それに怯えて記者たちは従順になる。

朝日新聞の星浩編集委員らは、小渕氏に近く、政敵である加藤紘一が起こした加藤の乱には肩入れしなかった。

1999年春、筆者は27歳で政治部へ。政治部長の若宮啓文(父親は鳩山一郎内閣の総理秘書官)には、「せっかく政治部に来たのだから、権力としっかり付き合いなさい」と言われた。

福田康夫内閣で官房長官になった町村信孝を取材した時、「私は自民党の同期で政務官になったのが一番遅かった。私が清和会だからです。日本の政治はずっと経世会が牛耳ってきた。経世会は最初に宏池会に相談する。その次に社会党に根回しする。社会党がNHKと朝日新聞にリークする。我々清和会はその報道を見て初めて何が起きているかを知ったのです」

小渕総理の「総理番」でいろいろ学んだ。官邸と官邸記者クラブとの「癒着」も。官房機密費の使い方には驚きで、さすがに記者に現金は配られないが、政務担当の総理秘書官は連夜、総理番を集め高級店で会食していた。

外務省の担当時、局長や課長らを昼や夜の会食に誘い、情報を聞き出すのがメインの仕事。政治記者が誘う場合はほぼ100%、記者側が費用負担。会社の経費でも落ちず、ほとんど自腹。

小泉政権時、政治部記者として竹中大臣の番となった。彼は政治家ではなかったため、麻生に負け続けた。著者はいろいろ情報提供して竹中と親しくなった。経済部の記者が事務次官や官僚らをいくら回ってもつかめなかった情報を、竹中から引き出して特ダネを連発した。

古賀誠元幹事長付きになった時、家の前で待っても見向きもしてくれなかったが、厄介なのは、月に1、2度、上機嫌で帰ってきてその場に居合わせた番記者だけを引き連れて近くのラーメン屋に行き、政界の裏事情を怒濤のごとく話した。また、週末に地元に帰るが、同行してもカラオケで唄うばかりでなにも言わない。最終の飛行機で記者たちが引き揚げ始める。泊まり覚悟の記者だけが残ると、そこから話し始める。

2005年8月21日の記事、長野総局の記者が田中知事を取材していないのに取材したように装った「虚偽の取材メモ」を作成し、政治部がそれをもとに記事を作成して出稿した。大事件となり、秋山社長は政治部、経済部、社会部などから記者を集めて調査報道に専従させる「特別報道チーム」を新設した。この新組織が、後の「吉田調書」報道へとつながっていく。

「特別報道チーム」の記者はどこの記者クラブにも属さず、ゼロからはじめる。著者たちが注目したのは、トリノ五輪を前にフィギュアの代表選考に疑惑が向けられている件だった。そちらは広がらなかったが、取材する中で、スケート連盟の不透明支出が浮かび、特ダネをものにした。2006年10月には元会長らが背任容疑で逮捕される事件に発展した。

1999年以降、現職総理と他をしのぐ関係を築いた朝日の記者は3人。小渕恵三と星浩、麻生太郎と曽我豪(たけし)、そして菅直人と著者。

自民党政治の限界を痛感し、民主党への政権交代に目が向くと、先取りして星浩や曽我豪は民主党への取材に手を伸ばした。しかし、筆者は民主党が見向きもされていなかった10年前から人脈を耕していた。「自民党こそ政治取材」と信じていたマスコミの諸先輩たちは、民主党政権に厳しい論調を浴びせ、民主党崩壊後に安倍総理が繰り返した「悪夢の民主党政権」のイメージづくりに加担した背景には、二度と政権交代は起こしたくないという各社政治部の先輩諸氏の警戒感があったから。

原発事故直後、なにも情報がない状態。京大の後輩でもある細野豪志首相補佐官に何度も電話したがかかりなおしてこなかった。うたた寝をしているとついにかかってきて、「事態はかなり深刻です。ご家族だけでも避難されたほうがよい状況です」

2012年7月21日、特報チームにいた著者は「被爆隠し」のスクープ。福島第一原発で働く下請け業者の作業員は常に線量計を身につけ、年間50ミリシーベルトを超えると働けないと判断された。下請け業者は働き手を失うと痛いため、線量計を鉛のカバーで覆って数値が上がらないようにしていたことを突き止めた。新聞協会賞を受賞。

「吉田調書」を入手し、スクープに向けて準備中、国家権力が嗅ぎつけてパソコンやスマホに侵入してくることに備え、架空のネタ元が使う架空のメールアドレスを用意し、会社が著者に用意しているメールアドレスから「先日は貴重な情報をありがとうございました」などという架空のメールを定期的に送信して攪乱させる対抗策を取った。

「吉田調書」スクープの日、8階にあるローソンに行くと、知らない記者や社員から握手攻めにあった。ちょうど同じタイミングで林修のテレビに出演して解説をしていたため、顔を知られていた。ところが、4ヶ月後、記事取り消しが発表された日、同じローソンでは社員たちが著者を一瞥するとそそくさと目を逸らしていった。

停職2週間、失望している著者。マスコミ取材には一切答えるなと言われていた。私用電話には顔なじみの他社の記者から電話がじゃんじゃん入る。無視するのも気が引けるので故障したことにして切っていた。すると、会社からあてがわれたスマホに「自殺していないか」との問い合わせメールが会社から来る。自殺したという情報がある、とのこと。
後で詳しいベテラン記者に聞くと、公安は監視対象を見失うと自殺情報を流して所属組織に確認をさせる。それが手っ取り早いから。著者は監視対象なんだ、と解説された。

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2022年11月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

新聞記者と政治家の関係性は持ちつ持たれつの立場。
朝日新聞内のガバナンス問題や、そもそも新聞記者って何なの?と影響力の大きな業界の暗黒面を知ることができた。日本社会が求めている有益なジャーナリズムそのものは、現体制が維持される限りお遊戯会(出来レース)みたいな報道内容に偏重していくんだろうなと少し悲しくなりました。かと言ってナイトクローラー的なアメリカ報道に偏るのも良くないと思うのですが。。隠蔽・保身だけの世界は自分には合わなそう。

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2022年09月29日

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