あらすじ
不自由で理不尽な社会で、心涼やかに生きるには?
自由に生きれば欠乏し、安定すれば窮屈だ。どうしようもなく希望や理想を持っては、様々な”壁”に阻まれる――。そんな私たち人間のジレンマを乗り越えるヒントは、戦後日本のカオスを生きた作家・安部公房にある!「マンガ家・ヤマザキマリ」に深い影響を与え、先の見えない現代にこそその先見性が煌めく作家の「観察の思考」を、著者の視点と体験から生き生きと描き出す!(NHKEテレ「100分de名著」2022年6月放送予定「安部公房 砂の女」に講師出演決定)
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『ただ、時々こういった人間社会を俯瞰で考察した寓話や小説を読んで、現実の正体を確認しておくことも必要だと思っている。政府やメディアの報道や宣伝を鵜呑みにしてしまうような脳にならないようにするためにも、こういう作品を読んで我々が生きる社会に対する猜疑心を機能させておいたほうが、よほど自分を救うことになる』―『第三章 「革命」の壁―『飢餓同盟』』
日本放送協会の「100分de名著」で「砂の女」を取り上げていたのを見て、何故ヤマザキマリなのかと思ったけれど、この一冊を読んで得心した。ここには如何に彼女が安部公房を読み込んできたかが縷々綴られている。そしてその読みも確かなものだと思う。その読みは、研究者が作品を細分して顕微鏡で観察するような読みではないし、批評家が行うある意味俯瞰した立場からの洞察のようなものでもない。そんな風に作品を観察対象として少し離れた対象物として観るのではなく、ヤマザキマリは作品と共に生きてきたという読みを披露するのだ。それは切実で、そして現実的(実存的)な読みでもある。
自分もたいがい天邪鬼なので、ヤマザキマリが今の時代こそ多くの人が安部公房を読んだ方がいいと推してくる意図は共感できるような気もする。確かに安部公房の本は読者が勝手に想像するような物語を提供しない。そこに予定調和のようなものはないのだ。言ってみれば「その後のシンデレラ」のような話ばかり。現実なんてこんなものだ、と否が応でも見せつける。そのことの意味をこの作家の生い立ちや思想遍歴に照らし合わせて読み取ってみせるのは、著者独自の解釈という訳でもないが、作品の寓話性も含めて分かり易く解説している(つまりはそこに物語性を導入することに成功している)。しかし、既に著者も気付いているように、この作家の非予定調和には最終目的地がある訳ではない。「こうだ」と思ったものに辿り着いた瞬間からその場所が曖昧になる、「これこそが正義だ」と思った思想が社会に流布した瞬間からそれが悪夢となる、という構図をこの作家が繰り返し描いているのと同様に、作家自身が自分らしさというものを見出し得ない(作品から安部公房とはこういう人だと読み解いた途端に俺はそんなものではないと反証して見せるように自己否定を繰り返す)というホムンクルスの無限退行する構図に捉えられてしまっている以上、ヤマザキマリの読み取った安部公房もまた内部からじわじわと崩壊する定めにある。そんな風に作家を突き放してしまうと批評家的な読みに傾いてしまうけれど、作家自身が作品の内在する矛盾の構図の中に棲むからと言って作品が訴えかけることの意味や真実味が毀損される訳ではない、ということがヤマザキマリの主張なのだろう。それは確かにそうだと思う。
著者に倣って自分自身の記憶を振り返って見ると、安部公房との出会いは十代前半の頃に読んだ「鉛の卵」。親の所有する本の中に収められていた一篇だ。それは日本放送協会が少年ドラマシリーズで「「タイムトラベラー(時をかける少女)」や「つぶやき岩の秘密」(何故かこの時の主題歌の一節が未だに脳内再生されることがある。歌は石川セリ)などを映像化していた頃で、無知な自分は、筒井康隆は小松左京(その頃「日本沈没」が大流行)と同様の空想科学小説家だと思っていたし、「つぶやき岩の秘密」の新田次郎も同じ分類の作家だと思っていたので、「R62号の発明」「鉛の卵」の作家安部公房も彼らと一緒くたに考えていた。ただ、安部公房の「鉛の卵」は、どこか星新一に似ているようで、それでいてもっとひんやりとした感じのする小説だと思ったというぼんやりとした記憶がある。それらの本や眉村卓の「ねらわれた学園」、光瀬龍の「夕ばえ作戦」などのジュブナイルSF小説と呼ばれる単行本を町の本屋を巡って買い求めた頃の話だが、その頃に読んだ安部公房の文庫本の幾つか(今思えば、少しばかり読むのが早過ぎたのかも知れない)の印象は「鉛の卵」程良くはなかった。それらの本は既に散逸してしまったけれど、何故か今でも「榎本武揚」(函に大江健三郎の推薦文あり)と「砂の女」(ヤマザキマリが言及しているように、函に武田泰淳と三島由紀夫の推薦文あり)は書棚にある。
『そんなアナーキーなたくましさと、いっそ馬賊になってやろうとか、風呂場でサイダーを作って売るようなサバイバル能力も、私にとって安部公房という人物の魅力である。私は生きるスタイルに囚われない傍若無人で気骨のある人に強いシンパシーを覚える。(中略)私はたとえば村上春樹の小説のように、小洒落た固有名詞が頻繁に用いられ、みっともなさや情けなさですらスタイリッシュに回収されていくような文学が苦手だ。人間を特別視しているような文字の羅列に、浮薄で脆弱なものを感じてしまう』―『第一章 「自由」の『砂の女』』
ヤマザキマリの言いたいことは理解できるようにも思うけれど、表現者(そしてそれは人間の逃れようとしても逃れられない業)として、著者が否定的に捉えている「承認欲求」あるいは「自己肯定感の希求」に根差しているものである点で、安部公房も村上春樹も同根で有るとも自分は思う。敢えて言うなら安部公房の作品の方がむしろどこか捻じれた自己肯定感のような粘度を感じさえするのは、自分だけだろうか。更に言うなら、自分は村上春樹の熱心な読者ではないが、この稀有な作家のやっていることもまた、人間の心の内に巣食う薄暗い感情(あるいは怪物)を暗い穴の底を覗き込むようにして暴いている行為であって、ヤマザキマリが描写する安部公房の仕事と似た動機をそこには感じる。また承認欲求という文脈で言うなら、ヤマザキマリが安部公房の読みを通してやっていることもまた、一つの「自己肯定感」を求めての行為であることもまた否定できないのではないかとも思う(それが全てではないにせよ。ただ、そういう読みをその行為から読み取れと安部公房なら暗に言いそうな行為である)。決して本書を否定しているつもりははないのだが、安部公房を読み解くことによってついついそんなことを考えてしまうことに思考が傾倒していくようになる。つまり、安部公房を読み解くとは、腐敗していく自分自身の五臓六腑を腑分けしていくような作業なのだ。
本書は安部公房の伝記ではないし(伝記なら山口果林のことも書いて欲しいと思ったり)、作品論を語る本でもない(著者の作家に対する熱が強すぎるので作家を語っているのか作品を語っているのか判らなくなったり)けれど、この本を切っ掛けに安部公房を読む人や、自分の頭で考えることを志向する人を生み出す切っ掛けを与える力のある本であることは間違いない。
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「個人の実存」という安部公房の一貫したテーマを、個人と個人以外を隔てる「壁」という切り口で読み解く書評。著者の青年期の境遇が安部公房自身のそれと著作のテーマにシンクロしたということで、読み込みの深さや思索の濃さの度合いが高く、ここまで書物を自分事として読み込むことができれば、読書体験としては最高なことだと思う。
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ヤマザキマリさんに興味を持ち、「国境のない生き方」「仕事にしばられない生き方」を読みつつ安部公房の「砂の女」を読んだ。その後に読んだこの本は、安部公房が表現する自由の壁、世間の壁、革命の壁、生存の壁、他人の壁、国家の壁を解説してくれる。この本のおかげで安部公房文学の神髄に触れることができたから、ヤマザキさんの分析力たるや、凄いものを感じる。
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生きていく上での壁をテーマに、安部公房作品を通して、ヤマザキマリさんの経験を加味して、作品の解説本。パンデミックで生きづらさが表面化されてきて、この本読んで頭の中がすこし整理できた部分があった。安部公房作品読んでみたくなりました。
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「砂の女」は自由と不自由について書かれた本だと思うが、ヤマザキさんは「壁」をキーワードに彼女の視点から解説してくれている。
“自由を求めるのであれば、そこに必ず普通している不安や不条理から目をそらしてはならない、それが安部公房文学の核心”
安部公房の作品が本当に好きなんだろうし、文章自体も表現が多彩で読みやすかった。
読書感想文ってこういうふうに書けばよかったんだ。
ドストエフスキー:壁は曲がる方向を教えてくれる。
壁の外(自由):不安や不条理と向き合うこと。
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安部公房は、昔「カンガルーノート」を読んで、よくわからない気持ち悪い話だなぁと思って終わってしまった。ただその時も、何とも言えない魅力があるとは思っていた。
今回この本を読んで、安部公房を再読したいかと言えば、正直言って読みたくない。残酷描写が多いし、オチも救いがなく、読んで辛い気持ちになるのは見えている。きっと私のメンタルはそこに耐えられないのだと思う。
そういう意味で、著者のヤマザキマリさんは強い人なのだと感じる。安部工房が活躍した戦後の時代も、人々は皆強かったのだろうか。そのエネルギーに憧れはするけども、わたしにはとてもまだまだと言うところかな。
印象に残ったのは、「箱男」では、都会の周囲の人々が無機質な砂のメタファーなのでは、というところ。人々の中にいても、気にされない、自由にしていいよと言われるのは、ある意味不自由で、孤独なのだなと思った。
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昔から、大好きな作家の安部公房氏の本
砂の女・壁・他人の顔・箱男
一番大好きというか、忘れられないデンドロカカリアクレピディフォリア。
不条理な感じが忘れられない作品ばかりです。
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敬愛する作家についての思いの丈を気になる現代作家が語る、当然面白い。
ヤマザキ氏のルーツや経歴について今まで知らなかったことも多く、そういった側の視点だけでも得るものはあるような。
一方で、安部公房に限らずとも自分の人生の紆余曲折に沿った作家がいて、「あの作品はこう、この作品はこう’みたいな語りが出来るのは羨ましい。アーティストという商売柄もあろうが。
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ヤマザキさんも公房さんも大好きだが、蘊蓄はゲップかな。本棚の奥から赤線いっぱい引いた箱入りの「箱男」手に取る。「100分で名著」もよかったが、より深まった。コロナ禍、ロシア。社会不安高まっている今こそ公房作品と思う反面、進歩のない人間に自分含めて愛想尽かす。
Posted by ブクログ
漫画家のヤマザキマリさんの安部公房論。彼女の人生とリンクした作品の紹介があります。「砂の女」を始めとして数多くの作品が登場します。
ヤマザキさんについては、イタリアに住んでいる漫画家という印象ぐらいでしたが、この本を読みこれまでの半生のエピソードにまずびっくりしました。17歳で絵画の勉強のため単身イタリアに渡り、まもなく生活能力に欠けたイタリア人の詩人と同棲していたと言う事実。17歳と言ったらまだ高校生で、女の子。異郷の地に本人の希望とは言え一人やる親がすごい。それも多分仕送りなどはないのか、はたまた少ないのか極貧の生活をしていたようですから、その年齢の大人度が自分とは比べ物にならない!と感嘆しました。そんな環境で出会った小説が「砂の女」。ですからこれは読むべき時期にぴったり合致したのでしょう。
確かに私も若い頃に安部公房は読んだ記憶があります。他にも小松左京、カフカ、ニーチェ…ちょっとジャンルは異なりますが、不条理だとか虚無だとかに何故か憧れ⁈本質は理解できないまま、その小説の雰囲気だけが残っている有り様ですが…彼女の場合はそれを実感していることに凄さがあります。
ヤマザキさんが「砂の女」に代表されるテーマ「壁」は、現在の世の中においては当に物理的にも精神的にも物事を隔てる象徴です。傍目には合理的とは思えないロシアのウクライナ侵攻や人間のコミュニケーションを阻害する感染症の蔓延など世界は、不穏な様相を呈している中にあって、どう考え行動していけばいいのか…
便利さや様々な情報が瞬時に手に入るツールもありながら、そのため息苦しさに喘ぎ、蟻地獄のような閉じた世界に籠る人々。人と違うことを恐れ、孤独では生きられない私たち。
安部公房は…そうした孤独で自由な存在が世間と足並みをそろえて動くのではなく、考え方や行動が一律でなくとも、価値観が違っていても共生していける社会が民主主義社会だと…言わんとしているのではとヤマザキさんは述べています。以前にマルクス・ガブリエルさん(哲学者)が「SNSは民主主義を損なう」と述べていましたが、なるほどこのことか、と思いあたりました。
元々人と群れるのが苦手で、天邪鬼気質の私には、何故皆、他の人と同じじゃないと不安なのか、始終繋がっていることがそんなに良いことなのか疑問だったので、この考えには納得です。
どんな世界、場面においても壁が立ちはだかっており、それは表からも裏からも見える世界があることを自覚したいものです。
Posted by ブクログ
人間の負の側面、社会の負の側面に、きちんと目を向けられているのか。
これを知っている人と、知らないでいる人とでは、思考や選択のベクトルが全く変わってくるのではないかと思う。
ヤマザキさんの人間・社会を見る目は鋭いな、と思うがフィレンツェでの極貧期に安部公房に出会いどっぷりと浸かったことが、表層的なことだけでなくその裏にあることに思考を巡らせることに繋がったのではないかと思う。
現実を生きる力をくれる文学が好きだ。
私自身は青春期には安部公房には出会わなかったのだけれど、人間の弱さや社会の厳しさを突き付けてくる文学に出会い、自分を省みることができた。青春期の良き文学との出会いは大切だなと思った。
Posted by ブクログ
イタリアで出会った『砂の女』から、
安部さんにぞっこんになったマリさんの6つの「壁」をテーマとした思索本です。
自由・世間・革命・生存・他人・国家を切り口に、
不条理なこの社会をしたたかに生きる気づきをもらえます。
安部公房の人生概観もできました。