あらすじ
「現金化したら、何もかもおしまいやな」。日本最大のダムに沈んだ岐阜県徳山村最奥の集落に一人暮らし続けた女性の人生。30年の取材で見えてきた村の歴史とは。血をつなぐため、彼らは驚くべき道のりをたどった。各紙で絶賛!
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Posted by ブクログ
2006年9月25日早朝、揖斐川を堰き止めるゲートが。徳山ダムの記念日であり、それは徳山村がダムに沈む日でも。水かさが増していき、国道が、学校が、集落が・・・沈んでいく。1500人ほどが暮らしていた徳山村。2005年4月まで最奥地に最後の1人として暮らしていた廣瀬ゆきえさん(大正7年生まれ、2013年8月1日没、93歳)の万感の思いを、徳山村百年の軌跡を、大西暢夫さん(ゆきえさんより50歳若いカメラマン、徳山村で生まれ育った)が取材し書き綴りました。「生きる」ということを深く感じさせていただいた書です。
Posted by ブクログ
ホハレ峠
~ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡~
著者:大西暢夫
発行:2020年4月
彩流社
岐阜県中西部、福井県に接し、滋賀県ともほとんど接しているような地域にあったのが徳山村。村のほぼ北端、福井県との県境にある冠山を源流とする、木曽三川の一つ揖斐川が南へと流れ、その南端に出来た徳山ダム。2006年から水をためはじめ(マスコミでは貯水、役所は湛水と呼ぶ。とくに最初はテストを兼ねているので試験湛水というが、異常がなければそのまま水を抜かない)たため、徳山村は廃村となった。その様子は、著者が監督した「水になった村」というドキュメンタリー映画に収められ、公開された。文句なしの名作映画。
去年発行されたこのノンフィクションは、旧徳山村でも、門入(かどにゅう)地区で最後の1人となった廣瀬ゆきえさんの生い立ちを訪ねて、著者が滋賀県や北海道にまで足を延ばして取材を行い、そこで得た事実を綴ったものだが、そこには単なる大正8(1919)年生まれの1人の女性の歴史ではなく、その時代から戦後に至るまでのまさに日本の歴史の縮図となるような物語がある。発行以来、大評判となっているこの本だが、その理由は読めば誰にでも分かる。
門入は、村北の冠山を源とする揖斐川の源流沿いではなく、村の東、滋賀県方面に源を発する源流沿いにある集落。ダムに近い村の中心地・本郷地区からは非常に遠く、従って水に沈まなかったエリアも多い。とはいえ、移転させられていて住み続けることは不可能だ。最後の1人、廣瀬ゆきえさんは、夫の司さんにも先立たれ、移転先で一人暮らし。著者にいろいろな話をした。そして、この本の出版を待たずに旅立った。
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当時は子沢山の家庭が多く、徳山小学校の門入分校は賑わっていたという。それでも40人ほど。運動会は本郷の本校で開催されるが、朝出て歩いても本郷に着くのは夕方。そこで1泊して翌日に運動会、また1泊して翌朝に歩いて戻る。2泊3日の旅だった。
そんな僻地に中学校はなく親元から離れなければならないが、廣瀬ゆきえさんは他の多くの女の子同様、中学には行かせてもらえず家の労働力となった。畑仕事や家事、縫い物などの習い事。自分たちの食べ物は畑で作るが、完全自給自足は無理で現金が必要。そのもとが養蚕で、14歳の9月には初めて自分たちが作った繭(まゆ)を担いで、滋賀県の業者に売りに行く。その時に越えた峠が表題にもなっている「ホハレ峠」だ。泊まりがけの重労働で、繭から成虫が出て来てしまう前に到着しなければならない。
さらにその年の10月には、彦根にある巨大紡績工場(カネボウ)に就職することに。11月~翌年4月、親元から離れて綿から糸を紡ぐ仕事をした。「ああ、野麦峠」を連想しがちだが、(仕事はきつかったのだろうが)彼女は前向きで、プールのような大きな風呂に毎日入れ、生まれて初めて牛や豚が食べられる暮らしは、徳山村に比べると極楽だった、と回顧している。
24歳になると縁談話があり、北海道の真狩(まっかり)村へ嫁ぐ。なぜ北海道なのか?結婚相手のルーツが徳山にあり、徳山村からは北海道への開拓団が出ていたのだ。すなわち、2人は遠戚なのだろう。年がたち、夫婦は徳山村に戻ることになるが、それもゆきえさんの家の跡取りに絡む理由からだった。徳山村の人々と真狩村の人々は、遠くに離れてもお互いの家を守るため、また集落を維持するために助け合う。そうした実態を解明していく著者。
食べ物を自分たちで確保し、家系や共同体も必死で維持していくなか、近代化は情け容赦なく襲ってくる。徳山ダムに反対しながらも、最後はハンコを押して出て行く村人たち。廣瀬ゆきえさんは言う。先祖代々守ってきた土地も家も畑も、お金になった。それまでは現金はほとんど持っていなかったが、大金を与えられて移転先の家で暮らす。段々お金は減っていき、まもなく底尽きる。自分の代でなくなる。全部国に取られた・・・
丁寧な取材を重ねた上で、構成上に起承転結もある、情熱に満ちたノンフィクションの一冊だった。素晴らしい。
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初めて会うのに「どこの坊じゃ、腹は減っとらんか。飯食っていけ!」が挨拶のようなもの。まずは飯、会話はその後。山仕事をしている人たちは、空腹の恐怖を頭の片隅に入れているからなのだろうか。
廣瀬司さんが証人として立ったとき、細かい質問に答えられない度に、呆れた表情を見せ、うすら笑いする原告側の態度に僕は怒りを覚えた。
ゆきえさんの移転先では、スーパーは年寄りが歩く速度で15分以上はかかり、負担になっていた。いつの間にか、食材などを買い求める受け身の生き方に変わっていることに著者は気づいた。
本郷本校での運動会で宿泊したところで、中学生ぐらいのお兄さんやお姉さんたちがわしらのお世話をしてくれた。食事を作ってくれたり、布団を敷いてくれたり。まだ寝小便する子も2~3人おったが、着替えがないから、着物が小便でぬれたまま翌日の運動会に参加。お尻を濡らしながら走っとる女の子がいたが、別に珍しい光景ではなかった。泊まった部屋は畳、門入ではまだ板張りの上にむしろが当然やったから嬉しかった。
「桶飴」は直径20センチぐらいで深さ10センチほどの木桶に飴が固まった状態、それを金槌とかで割って食べた。
滋賀県の工場から関係の人が門入まで迎えに来て、わしらを引き連れ、ホハレ峠を越え、滋賀県木之本町まで歩いて出た。そこから汽車に乗って彦根に向かったんや。
石油や塩を頼まれて買って行くものが多かった。昔の塩は湿っぽいもので今のようなさらさらのはなかった。だからとても重い。5キロや10キロでは山ではとても暮らしていけん。藁で編んだ中に塩が入っておって、ぽたぽた塩水がしたたるほどの湿っぽさで、徳山に着いてその塩に重しをして、落ちる塩水を集めた。それが冬に作る豆腐に欠かせないにがりになっておった。
ゆきえさんは、14歳~16歳までの冬の3年間は彦根駅前の紡績工場で働き、17歳からは愛知県一宮市の紡績工場に職場を変えた。
北海道で見知らぬ家を訪ねる。訝しげな目で見られる。徳山村から来たというと「ちょっと中に入れ」と入れてくれ、何軒も訪ねて地元の人にここを教えられたことを言うと、「よく来た!本当によく来てくれた。ここで正解だ。ここしかないんだ。徳山村の開拓の話だったら、この村でわかるもんは俺くらいのもんだ」
ダムの説明会が門入でも何度も行われたんや。国の偉い人たちが村民に対して、これからの行く末を話していくんや。それに参加するだけで4000円もらえたから、それを目当てに参加する人たちも多かったんじゃないかな。・・・何回も何回も集会が行われて、少しずつ徳山から出て行こうとする考えの家族が増えていた。経済的に苦しい家族から。そこから集落は崩されていくんやな。
3年ぐらいは国のほうも丁重に話をしてくれたが、みんなとも慣れ親しんできたころから、「はよ、ここを出て行け!」と言わんばかりに、言葉使いや態度が変わっていったんや。仕方なく、家を壊した家族もおったよ。
廣瀬ゆきえさんが、生前、最後に会った人は著者だということが判明した。