テレビや新聞を熱心に見ていたころには、総理大臣が変わるたびにアジア諸国に謝罪に出かけていた報道を見て、日本はとんでもないことをしたので人気がないのも仕方ないと思っていました。ところが本を読み始めると、日本を嫌っている国はむしろ少なく、逆に好感をもたれている場合が多いことが分かり始めました。
好感をもたれているのには訳がしっかりあって、過去の日本がそれなりの貢献をしているからというのが事実のようです。この本では日本が世界から信頼されるようになった国となった11の歴史上の出来事を解説しています。
三部構成で整理されていますが、特に第二部の「日本人の闘い」で紹介されている4つの出来事及び、第三部の「日本人の学び」の最後に記されている「1944年、特攻」は心に残るものでした。特に、死んだ後に残るのは、どう生きたかということだけ(p231)というフレーズは忘れられないですね。
以下は気になったポイントです。
・1985年3.17にイラクのフセイン大統領は48時間以内にイラン上空を飛ぶ飛行機を無差別攻撃すると宣言した、そのときトルコ政府は救援機を2機飛ばして、日本人を全員救った。最後の飛行機がイラン国境を超えたのは、期限の4時間前。その時空港で待っていたトルコの人々は、「先人がうけた恩(エルトゥールル号、1890)を返す時だと言ってくれた(p25)
・エルトゥールル号生存者の69名は、日本海軍の軍艦(金剛、比叡)の二隻に分乗して、オスマントルコ帝国まで送り届けられた(p27)
・日露戦争は、長期的視点で見れば、白人国家である欧米が20世紀以降、衰退していくその芽を生んだ戦争であった(p34)
・当時のロシアは、GDPは日本のおよそ3倍、ユーラシア大陸で有色人種の独立国家は、日本とタイのみ(p36)
・三国干渉当時、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世とロシア皇帝のアレクサンドル3世は親戚筋、フランスはロシアに莫大なカネを貸す国だったので、結束は固かった(p41)
・日露戦争開始前の世界の予測は、当時の公債金利(日本:6.43%、ロシア:4.2%)でわかる。ロシアに勝てた原因のひとつとして、先進的な科学技術の積極的追求(下瀬火薬、無線技術、情報戦)と採用にあった(p45)
・旅順の攻防戦が日露戦争の山場の一つであったのは、旅順港にはロシア第一太平洋艦隊がいたので、向かっていたバルチック艦隊と合流すれば日本の勝ち目はなくなる(p47)
・空気力学を極めた長谷川氏(後にカローラの開発主査)は、外国に車を売るなら、ハイウェイを走ることを想定して、空気力学に基づいた設計が必要と語った(p68)
・福沢諭吉の「学問のすすめ」は当時3000万の人口において、300万部売れた。1850年代は、奴隷廃止論が語られるようになり、黒人奴隷(南部で200万人)る働き手が求められていた、それが中国・清の労働者であった(p97)
・江戸幕府が1633年に鎖国令を出して諸外国との国交を断絶した一つの理由として、スペイン・オランダ・ポルトガルと、諸大名が密かに交易して力を蓄えることを恐れたから(p98)
・太平洋発見は、1520年生まれのマゼランのマゼラン海峡通過による。それまでジパングは、時々の遭難者が見るだけのもの。日本は偏西風に守られ、東回りではあまりにも遠く、スペイン・ポルトガルの魔の手から守られ続けていた(p101)
・欧州の覇権は、西アジアに植民地を広げたポルトガル、アフリカへ広げたスペインが握っていたが、大漁業国としてニシン漁で財をなし海運国となったオランダと、海賊・海軍によるイギリスにより立場が変わっていった(p104)
・英国の貿易国の中で唯一といってよい貿易赤字国が19世紀中ごろの清帝国。茶と陶器という強い輸出商品を持っていたので、その対策として麻薬のアヘンを売った(p107,108)
・アメリカは南北戦争で70万人以上の戦死者、同じ意味(国内の新旧勢力の戦い)を持つ戊辰戦争での死者は0.5万人、当時両者の人口は共に3000万人(p112、114)
・イギリスは薩英戦争を通じて、植民地にする発想を転換して徳川幕府打倒の薩摩を支援、フランスは幕府を支援していた。幕府と薩長が戦えば、英仏の代理戦争になっていた、それを見破ったのが徳川慶喜で、大政奉還を行った(p113)
・ジム・クロウ法がアメリカ合衆国から消えたのは、1964年になってから、東京オリンピックの4カ月前。4代前に遡り黒人の血が流れている人間は黒人とされた(p124)
・第一次世界大戦のパリ講和会議において、人類問題の法案について議論をしている日本の姿に最大の敬意を払うと、全米黒人教会はコメントした(p134)
・新幹線開通前の1964年当時は、東海道線の1日あたりの移動可能人数は、1.4万人、今では、23万人、飛行機では3万人が移動(p178)
・弾丸列車の計画において、日本坂トンネルは1944年に完成したが、戦況悪化により新幹線計画は中止された(p184)
・航空機設計の技術者(当時のハイテク技術者)を、国鉄は1000名以上招へいした、新幹線にはゼロ戦の技術魂が引き継がれた(p187)
・新幹線開業にあたり、世界銀行からの借款でまかなれた、8000万ドル、償還期限20年。当時三番目の大型融資と言われた(p189)
・特攻の成功率(体当たりできた確率)は、僅か14%と言われるが、通常攻撃から見れば、何十倍の成果である。米軍の艦艇200隻以上を撃沈破して、4000人以上を戦死、戦傷者もふくめると9000人も犠牲にした(p217)
・死んだ後に残るのは、どう生きたかということだけ(p231)
2013年12月23日作成