ミシェル・ド・モンテーニュのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ最近『金持ち父さん 貧乏父さん』を読んだばかりなので、なんともタイミングの良いモンテーニュの一言と出会ったことになる。
”最悪の場合には、つねに支出を切りつめることで、貧乏の先手を打て。”
ところがキケロの言葉の方が刺さったな。
”裕福さの程度というのは、収入の多寡ではなしに、食事や暮らしぶりによって計られる。”
これは贅沢をしろということではなく、足ることを知る心の裕福さということ。
”恩義という負債は、返済されることはあるかもしれないけれど、完済はありえないのである。”
これは心に刻んでおくべき名言ですな。
軽々しく「借りは返したぞ!」なんて言ってはいけないですね。
困っているときに助 -
Posted by ブクログ
ネタバレ一番難しいと言われている巻、一番厚い巻を乗りこえて、気持ちが切れたのでしょうか。
ずいぶん時間がかかってしまいました。
しかし、読み終わってみれば、今までで一番エッセイ集らしい巻だったかもしれません。
”他人の称賛を根拠にして、それが徳の高い行為の報酬なのだと考えるのは、あまりに不確実にして、あやふやな土台にもとづいている。とりわけ、現代のような、腐敗した、無知な世の中にあっては、よい評判はむしろ有害でさえある。”
好感度の高い人ほど、何か失敗した時の風当たりが強烈な、21世紀の日本について書いているようだけれど、500年前のフランスなんですよね。
人間社会って進化しないものなのかなあ。
-
Posted by ブクログ
ネタバレモンテーニュにとっての『栄光』とは、今でいう『矜持』とか『プライド』のようなもののような気がします。
”われわれが、正しくふるまうというルールを自分自身のなかから引き出さないならば、そして、罰せられないことが正義だというならば、われわれは毎日、どれほどの悪事に耽るかしれない。”
”神という目撃者が、つまり、わたしが思うに、自分の良心という目撃者が存在することを、忘れてはいけない”
これは『四知』ですね。
天知る、地知る、我知る、君知る。
誰にも知られないということは、ない。
”われわれは、自分のことが話題になるのが気になって、いかに語られるのかは、あまり気にしない。自分の名前が人々の口か -
Posted by ブクログ
ネタバレ白水社の『エセー』全7巻の折返しの第4巻にして最難解と言われる「レーモン・スボンの弁護」収録のこの巻。
これを読み終わったら肩の荷が少し降りるような気がして、気合いを入れて読み始める。
「レーモン・スボンの弁護」とは、理性によって信仰を立証しようとしたスボンの論をモンテーニュが弁護しようとしたものである…はず…なのだけど、気がつくと神に選ばれた人間という存在=特権的存在を徹底的に否定している。
あれれ?
もしかしてこれは「レーモン・スボン(から)の弁護」ってことなの?
”人間にとっては、自分はものを知っているという思いが疫病神となる。だからこそ、われわれの宗教は、無知なることを、信仰と服従 -
Posted by ブクログ
ネタバレ後半の方が興味深いテーマだったのだけど、何でだろう、なかなか文意が頭に入ってこない。
というわけで、付箋は本の前半ばかりでした。
”徳とは、色鮮やかで、強力な染料なのであって、魂が一度それにひたされると、あとはもう、魂もろともはぎ取らないかぎり、その色が落ちることはない。したがって、ひとりの人間を判断するためには、その足跡を、長期にわたり、丹念にたどる必要があるのだ。”(われわれの行為の移ろいやすさについて)
得ではなく徳を行動原理にしたいと常々思っていますが、難しいですね。
自己中ではないつもりですが、好き嫌いが徳の足を引っ張るのです。
精進しなくては。
”酒を飲む快楽というのは、人生に -
Posted by ブクログ
ネタバレ全体として、ギリシャ・ローマ時代の偉人の言葉を引き合いにして語られるモンテーニュの思想は、哲学より歴史の面白さを感じられる。
フランス語で歴史をなんというのかは知らないけれど、英語のhistoryとはまさに、彼の話ってことで、何年に何があったかではなく、だれがいつ何をしたかってことなんだな。(中国の歴史もそうだよね)
”洋服がわれわれを暖かくするのは、その熱によってではなく、われわれ自身の熱によってであり、洋服は、その熱を大切に保ち、はぐくむのに役立っているというのと同じだ。”
第40章「幸福や不幸の味わいは…」に書かれているように、自分を幸福にするのか不幸にするのかは自分次第。
同じ体験 -
Posted by ブクログ
ネタバレいやいや、とんでもないものに手を出してしまいました。
私が一番信頼している読書系サイト『本が好き』でさえ、フレイザーの『金枝篇』を読んでいる人はたくさんいても、この本を読んでいる人が一人もいない!
だれだよ、私にこの本勧めたの。
第1巻は25章に別れていますが、20章を読み終わってまだ半分くらい。
最初の方はエッセイと言うよりも、哲学や歴史についてを読んでいる気がしました。
塩野七生の『ローマ人の物語』、ダンテの『神曲』、佐藤賢一のフランス史物などを読んでいたおかげで、思ったほどつらくはありませんでしたが、やっぱり知識の不足が残念だなあ。
”わが国では、分別(サンス)がない人間のことを -
Posted by ブクログ
『エセー』の最終巻。晩年のモンテーニュが、肉体的にも精神的にも、意気盛んであったことがよく分かる。国は宗教戦争のさなかにあり、自身もそれにかかわりながら、『エセー』を書いている時は、いつものモンテーニュであり、それは最後まで変わらない。自らの慣習に忠実に、食べ、飲んで、眠っている。抑制することもなければ、過激になることもない。悟りすましたりもしない。人間歳をとり、死が近づいてくると、何かに頼りたくなるものだが、モンテーニュは自身の経験をしか頼らない。しかも、頑迷ではなく、融通無碍に晩年に対処している。見習いたいものだが、なかなかこうは生きられない。達人の域である。長めの章立てが、ぱらぱらと読む
-
Posted by ブクログ
16世紀に書かれたモンテーニュの随筆。根が暗いのでこれを読んで以来「人生に、ふんわりとした平静さ」をもたらす為に夜な夜な死について考えてる。
第19章「哲学することは、死に方を学ぶこと」
死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。
人生を大いに謳歌したというなら、もうたらふくいただいたのだから、満足して立ち去るがいい。
人生は、それ自体は善でもなければ、悪でもない。お前のやり方次第で、それが善の場ともなれば、悪の場ともなるのだ。
人生の有用性とは、その長さにではなく、使い方にある。
死んで不幸になった人間を、見たことがあるか? -
Posted by ブクログ
第二十五章 衒学について
(a)われわれは他人の意見や知識をしまっておく。そしてそれでおしまいである。だがそれをわれわれ自身のものにしなければならぬ。われわれは、火が必要になって、隣にもらいゆき、そこに火がたっぷり赤々と燃えているのを見ると、腰を据えて温まり、自分の家へ火を持って帰るのを忘れてしまう人によく似ている。(中略)ルクルスは戦争の経験がないのに、書物を読むだけであれほどの偉大な将軍になったが、はたしてわれわれのようなやり方で書物の知識を身につけたのだろうか。
読書を習慣とするものは、みな多少なりともこの文章にドキリとするのではないだろうか。読書は他人の頭脳を借りる行為である -
Posted by ブクログ
だいぶ前の事だが、翻訳という技術が全く情けないものになったと誰かが嘆いていたが、最近の翻訳者たちはすごいのではないか?宮下訳のエセーも従来にない読みやすさがある。第1巻でも全部読めたのは訳者のおかげである。
「死など恐ろしくはない」といいながらいつも死について考えているモンテーニュがなんとなくおかしいなどど思いながら読んだ。
英才教育を受けフランス語よりラテン語を得意としたモンテーニュという人となりも考えさせられるものがあったし、若くしてさっさと隠居し、塔にこもって出てこない館主のわがままを支えた人たちの事も想像してみたくなる。
現代では、隠居しても、こんなわがままはとても通らないのは言 -
Posted by ブクログ
註釈で興味ぶかかったのは、イタリア語のtristezza。名詞では悲しみと悪意の両方の意味があるそうです。モンテーニュは悲しみというものを自制心を失うものとして警戒しています(第1巻2章)。それにしてもなぜ意味が両義なのか、そのルーツを知りたいものです。形容詞triste ならば悲しいで、tristo となれば悪意がある、と意味が変わります。まれに前者でも悪意があると解釈されます。(p.26)
英語でもフランス語経由でtriste などがありますが、悪意という意味はありません。ノーテンキなイタリア人は、悲しみというものに悪意を嗅ぎとる習性があるのかもしれません。日本人の感覚からすれば、人生は