ミシェル・ド・モンテーニュのレビュー一覧

  • エセー6

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    『エセー』全訳のうち第6巻にあたる本巻には、第3巻第1章~第8章までが収録されている。題名が示しているように、各章ともタイトルからイメージされる内容が厳密に論理的に展開されるのではなく、古典古代の著作やユグノー戦争当時のフランスについての知見を散りばめつつ、「自分」について語る、というスタイルが取られる。もちろん、「自分」について語るとは言いつつも、第6章における新世界での征服活動に対する批判のように、鋭い社会批判も展開される。色々な意味で飽きを感じさせない著作である。

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    2015年03月15日
  • エセー1

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    仕事の休憩時間の愛読本。びっくりする内容が淡々と平易な文章で語られていて、何とも面白い。勿論モラリストとしての随想もあり、時代を選ばずに読み継がれているのも納得の古典。だからフランス文学はやめられない。

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    2012年07月01日
  • エセー1

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    かの有名なShu Uemura(植村秀)が二十台前半で肺結核を患った際、病床で読んでその後の人生に大きな影響を与えたというので感化されてみた。別名『随想録』

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    2009年10月04日
  • エセー7

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    ネタバレ

    最近『金持ち父さん 貧乏父さん』を読んだばかりなので、なんともタイミングの良いモンテーニュの一言と出会ったことになる。
    ”最悪の場合には、つねに支出を切りつめることで、貧乏の先手を打て。”

    ところがキケロの言葉の方が刺さったな。
    ”裕福さの程度というのは、収入の多寡ではなしに、食事や暮らしぶりによって計られる。”
    これは贅沢をしろということではなく、足ることを知る心の裕福さということ。

    ”恩義という負債は、返済されることはあるかもしれないけれど、完済はありえないのである。”
    これは心に刻んでおくべき名言ですな。
    軽々しく「借りは返したぞ!」なんて言ってはいけないですね。
    困っているときに助けてくれた、ということをもっと重くとらえなければ。

    ”若者たちは、世間も、自分も、両方を満足させることができる。ところが、われわれ老人は、自分のことをどうにかするだけで手一杯だ。自然が与えてくれた楽しみは、老いとともに、だんだんとなくなっていくのだから、人為的な楽しみで、自分を支えていこうではないか。”
    体の衰えはいかんともしがたくても、なるべく楽しみを見つけて、精神的にしぼんでしまわないようにしようと思っています。
    が、難しいよね、ほんと。

    ”(わが国の若い世代の宮廷人たち)は、自分たちの同類としか仲良くならず、われわれのことを、まるで別世界の人間のように、軽蔑と憐れみの目で見るのだ。”
    確かにそうだよね、と思う部分はあるけれど、振り返れば自分たちだって若かった時にはそうだったのでは、とも思う。ジェネレーション・ギャップはしょうがないにしても、なるべく懸け橋になれたらな、と精神的に大人になり切れないおばばは思ってます。
    うざい?

    ”自分にふさわしい名誉以上のものにがつがつしないことを学ぼうではないか。(中略)彼らは、自分の行動を、それにかかった価格をつけて提示したいのである。”
    こういう人、いるわ~。
    「すごいですね~」と言ってあげたら気分良くなるのはわかってるんだけど、心にもないことは言えない性分なので嫌われてる。笑

    ”自分を自分の力で支えている人こそが、もっとも強いのだ。”
    これについては、まったくそのとおりと思うけど、さらに弱い人に手を差し伸べられる人がいいなと思う。
    甘やかすのではなく、見捨てるのでもなく。

    セネカの言葉
    ”死が訪れるのは、いま君が病気だからではなく、いま君が生きているからだ。そのような運命は、病気が快復したあとにも待ち受けている。全快したとき、きみは死ではなく身体の不調を脱したのだ。”
    誠にごもっとも。
    ただ今快復に向けて治療中ですが、なんか肩の力が抜けました。よし。

    400年も前の、フランスの人の文章ですが、「私もずっとそう思っていたの!」と思うようなことが多くて、友だちになれそうな気がしてきました。
    まあ、わたしはカトリックではないので、向こうから「話しにならん」と断られますが。

    ギリシアやローマの歴史以上に、モンテーニュの生きた時代の宗教戦争についてをよく知らないので、正直読んでいて苦痛な部分も多かったですが、モンテーニュの意見を現代に置き換えて、自分にひきよせて読むとなかなか面白かったです。
    毎回読み始めは気合いが必要でしたが、全巻通読することができてよかった。
    とくに老後の生き方について考えるところは、身につまされました。

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    2023年05月31日
  • エセー6

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    ネタバレ

    一番難しいと言われている巻、一番厚い巻を乗りこえて、気持ちが切れたのでしょうか。
    ずいぶん時間がかかってしまいました。
    しかし、読み終わってみれば、今までで一番エッセイ集らしい巻だったかもしれません。

    ”他人の称賛を根拠にして、それが徳の高い行為の報酬なのだと考えるのは、あまりに不確実にして、あやふやな土台にもとづいている。とりわけ、現代のような、腐敗した、無知な世の中にあっては、よい評判はむしろ有害でさえある。”

    好感度の高い人ほど、何か失敗した時の風当たりが強烈な、21世紀の日本について書いているようだけれど、500年前のフランスなんですよね。
    人間社会って進化しないものなのかなあ。

    ”老いは、顔よりも、精神に、たくさんの皺をつけるにちがいない。年老いても、すっぱいにおいや、かびくさいにおいがしないような魂など、まずめったに見られるものではない。”

    心します。

    ”もっとも美しい心とは、もっとも多くの多様性や柔軟性をそなえた心にほかならない。”

    多様性という概念を当時から提唱していたのもすごいけれど、10年近く前にこの訳語を使用した訳者も、今になってこれほど日常よく耳にする言葉になるとは思わなかったと思うわ。

    ”民衆の無知に折り合いをつけられないような英知は、すべて味気ないものにすぎないわけで、これではもう、他人の仕事はおろか、自分の仕事にだって関わるのはやめなくてはいけなくなる。公私を問わず、ものごとは世間の人々との関わりなしにはすまないのである。”

    ああ、確かに学校の勉強はできただろうけど、仕事はできない人っているなあ。
    難しい言葉でまくしたてられても、具体的に何をしたいのかが伝わらない。
    だから誰も相手にしなくなる。
    仕事が滞る。
    頭がいいなら、頭の良くない人にわかるようにかみ砕いてプレゼンをしてほしいのだが。

    ”討論において、一致(ユニゾン)とはまったくもって退屈なことでしかない。”

    そう考える人はごく少数だよね。
    一致しなくても強引に推し進めるしさ。
    一時期教育の場でディベートを盛んにやっていたと思うんだけど、今はどうなんだろう。

    ”彼らにはまちがいを直す勇気がないのだ。なぜならば、自分がまちがいを直されることに耐える勇気がないのだから。”

    モンテーニュはそこそこの地位のある著名人なのに、非常にリベラル。
    自分の考えをしっかり持っているからこそ、他者にもそれを求めるし、他者の意見も尊重する。
    その代わり借り物の意見をえらそうに言う人は、コテンパンにやっつけるらしいです。

    そしてモンテーニュさん、どうしたんでしょう。
    一番長い章は「ウェルギリウスの詩句について」というタイトルで、もっぱら性愛についてを延々と書いてらっしゃる。
    検閲が厳しかった時代はカットされたそうだけど、ねちねち書きすぎです。笑

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    2023年05月17日
  • エセー5

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    モンテーニュにとっての『栄光』とは、今でいう『矜持』とか『プライド』のようなもののような気がします。

    ”われわれが、正しくふるまうというルールを自分自身のなかから引き出さないならば、そして、罰せられないことが正義だというならば、われわれは毎日、どれほどの悪事に耽るかしれない。”
    ”神という目撃者が、つまり、わたしが思うに、自分の良心という目撃者が存在することを、忘れてはいけない”

    これは『四知』ですね。
    天知る、地知る、我知る、君知る。
    誰にも知られないということは、ない。

    ”われわれは、自分のことが話題になるのが気になって、いかに語られるのかは、あまり気にしない。自分の名前が人々の口から口へと伝われば、どんな状況で伝わろうとも、それて十分満足なのだ。”

    過剰な承認欲求。

    ”国家においては、すべてが、子供たちをいかに育て、いかに教育するかにかかっていることは、だれでもわかっている。なのに、人々はこれを親任せにしている――親が常識はずれでも、意地悪でもお構いなしに。”

    児童虐待について、モンターニュの時代からあったんですね。
    というか、子どもの人権なんてなかったってことですね。

    ”怒りというのは、ひとりよがりの、思い上がった感情である。われわれは、まちがった理屈に心を揺り動かされているときに、誰かに正当な弁護とか弁明をされたりすると逆に心理や潔白さそのものに八つ当たりすることがよくある。”

    自分への戒めとしてよく覚えておこう。

    ”女たちもこれと同じであって、恋愛の法則にならって、相手に逆に怒ってほしいからこそ、自分で怒ってみせるのだ。”

    ちょっと何言ってるのかよくわかりません。
    モンテーニュさん、女性と何かあったんでしょうか。

    ”わたしとしては、先にのべたような賢い人となりを見せんがために、自分の気持ちを窮屈にするくらいならば、むしろ、少しばかり八つ当たりぎみでもいいから、召使いのほっぺたにびんたでも食らわせることをお奨めしたい。わたしは感情を自分のうちに抱え込んで、辛い思いをするよりは、それを外に表すほうが好きなのだ。”

    え?え?
    八つ当たり、結局OKなの?

    ”わたしはいつも、《悲しみの少ない女たちほど、派手に泣く》という名言を思い出さずにはいられない。”

    わたしもいつも《仕事をしない人ほど、文句が多い》と思っています。
    同じですね。…同じかなあ…?違う?

    ”人間の思考のもっとも普遍的な性質とは、多様性にほかならないのである。”

    400年前からこう言われているというのに、未だ進んでいない多様性を受容する社会。
    多様性を受け入れるということは、想像力があり、寛容でなければならないということ。
    それは難しいことだけど、難しいけど、そうあろうと目指そうよ。

    ところで最終章のタイトル『子どもが父親と似ることについて』について。
    50ページもあるこの章のほとんどが、医者と医療行為への不信なのです。
    ただ、章の最初と最後に、先祖代々医者嫌いの一族と書いているので、間違いではないのでしょうが、正解でもないですよねえ。

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    2023年04月26日
  • エセー4

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    白水社の『エセー』全7巻の折返しの第4巻にして最難解と言われる「レーモン・スボンの弁護」収録のこの巻。
    これを読み終わったら肩の荷が少し降りるような気がして、気合いを入れて読み始める。

    「レーモン・スボンの弁護」とは、理性によって信仰を立証しようとしたスボンの論をモンテーニュが弁護しようとしたものである…はず…なのだけど、気がつくと神に選ばれた人間という存在=特権的存在を徹底的に否定している。
    あれれ?
    もしかしてこれは「レーモン・スボン(から)の弁護」ってことなの?

    ”人間にとっては、自分はものを知っているという思いが疫病神となる。だからこそ、われわれの宗教は、無知なることを、信仰と服従に合致した特性だとして、強く勧めたのである。”
    いやいや、キリスト教より前にソクラテスが言ってるやん。無知の知。

    ”どれほど多くの人間が、想像力の力だけで病気になったことか。(中略)おまけに、本当の病気が足りなければ、学問が手持ちの病気をちゃんと貸してくれる。(中略)そのあげくに学問は、健康にもあからさまに文句をつける――「いいですか、はつらつたる青春の元気さなんていうものは、いつまでもその調子で続くわけがないのです。(後略)”
    なんか今の時代そのまんまのような気も。

    ”われわれは、ほんのかすり傷にも痛がるくせに、健康に対してはなにも感じていない。”
    健康も幸せも、失くしてから気づくんだよねー。

    ”《苦痛の不在は、粗野な精神と麻痺した身体という、大きな代償を支払わなければ得られない》キケロ”
    痛いこと、辛いことを避けたまま成長した挙句、人の痛みがわからない人が増えてしまったのが今の世の中のような気がします。

    ”それにしても人間とは、常軌を逸した存在というしかない。ダニ一匹作れないくせに、神々を何ダースも作るのだから”
    神さまって作るものではなく、最初からそこにある存在なんじゃないの?って思ったけど、日本でも神様大量生産してましたね。
    菅原道真とか徳川家康とか。

    後半は信仰についての肯定。
    ここでようやくレーモン・スボンを弁護しようという気になったのか。
    だけど、クリスチャンではないので、後半はあまり刺さりませんでした。

    さ、難解な部分も終えて、エセ―の坂も下りに差しかかります。
    とおもったら、次巻はもっとも分厚い巻になるらしい。
    1巻も相当長く感じたんだけどなあ。
    毎回が勝負巻の『エセー』。
    頑張らねば。

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    2023年04月12日
  • エセー3

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    後半の方が興味深いテーマだったのだけど、何でだろう、なかなか文意が頭に入ってこない。
    というわけで、付箋は本の前半ばかりでした。

    ”徳とは、色鮮やかで、強力な染料なのであって、魂が一度それにひたされると、あとはもう、魂もろともはぎ取らないかぎり、その色が落ちることはない。したがって、ひとりの人間を判断するためには、その足跡を、長期にわたり、丹念にたどる必要があるのだ。”(われわれの行為の移ろいやすさについて)
    得ではなく徳を行動原理にしたいと常々思っていますが、難しいですね。
    自己中ではないつもりですが、好き嫌いが徳の足を引っ張るのです。
    精進しなくては。

    ”酒を飲む快楽というのは、人生においても重きを置きたいものであるからして、もっと時間を割くべきかと思われる。店の丁稚(でっち)や人足(にんそく)たちのように、とにかく酒を飲む機会は逃さぬようにして、この欲望のことを常に念頭に置いておくべきなのかもしれない。どうもわれわれは、日々、この習慣を切りつめているような気がする。”(酔っぱらうことについて)
    いや、私はそこまで飲まなくても大丈夫なのですが、いやいや、モンテ―ニュさんがそうおっしゃるのなら仕方ないですなあ。でへへへへ。

    ”人間に関することは、なにごとも、自分に無縁ではないのだと考えなくてはいけない。(テレンティウス『自虐者』七七、のもじり)”
    これと似たようなこと、梨木香歩の『村田エフェンディ滞土録』にも書いてありましたね。
    第一次世界大戦が勃発した時、留学先のトルコから故郷のギリシャに帰ろうとした下宿人が「わざわざ今帰らなくても」と言われて返した言葉。
    他人事ではなく、なにごとも自分のこととして捉えること。
    これもまた、心がけていることの一つです。(酔っぱらうことについて)

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    2023年03月31日
  • エセー2

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    全体として、ギリシャ・ローマ時代の偉人の言葉を引き合いにして語られるモンテーニュの思想は、哲学より歴史の面白さを感じられる。
    フランス語で歴史をなんというのかは知らないけれど、英語のhistoryとはまさに、彼の話ってことで、何年に何があったかではなく、だれがいつ何をしたかってことなんだな。(中国の歴史もそうだよね)

    ”洋服がわれわれを暖かくするのは、その熱によってではなく、われわれ自身の熱によってであり、洋服は、その熱を大切に保ち、はぐくむのに役立っているというのと同じだ。”

    第40章「幸福や不幸の味わいは…」に書かれているように、自分を幸福にするのか不幸にするのかは自分次第。
    同じ体験をしても、幸福に転換できるか不幸として受け取るかは、自分の心持による。
    まあ、それに対する忍耐力もそれぞれなので一概に自分のせいと切り捨てることもできないけれど、なるべくポジティブに受け取ってネガティブに備えようと思っています。(デフォルトがネガティブなので)

    ”自由身分の女性は、酔っている場合を除いて、侍女を二人以上連れて歩いてはいけない。夜、町の外に出てはならず、金の宝飾品を身につけたり、宝石で飾り立てたドレスをまとってはならない。ただし、娼婦たちは例外とする。男は、放蕩者をのぞいて、金の指輪をはめてはならず、ミレトスの町で織られた毛織物のような、きざな服装をしてはならない。”

    第43章「奢侈取締令について」
    特権階級しかぜいたくをしてはならないというのではなく、飾り立てるのは恥ずかしいことというふうに世論を持って行かなくてはダメだという。
    以前松本人志が、「暴走族」って言うとかっこいいように思えるから、「鼻くそ団」とか、小学校低学年の子が喜びそうな恥ずかしい名前で呼んでやれば、暴走行為はなくなるのでは、と言っていたことを思い出す。

    ”どんな野菜があれこれ入っていても、すべてはサラダという名称で一括される。”
    第46章「名前について」

    じゃあ、髙木くんがレタスのことをサラダと呼んでいても問題ないね。
    「レタスは野菜で、サラダは料理の名前です」と言われてもピンときてなかったみたいだから、これからは野菜すべてをサラダと言おう。笑
    だってモンテーニュがそれでいいって言ったも~ん。←間違った権威主義

    ”ヴェネツィアは沼地のせいで、パリは泥のせいで、鼻につーんとくるのが玉に瑕である。”
    第55章「臭いについて」

    そうだったのか…。
    いや16世紀の話ですけど。

    ”わたしにいわせるならば、われわれの精神は、二十歳までにはかなりの成長をとげて、その先どうなるのかもわかると思う。その年齢になっても、能力のほどのあきらかな証拠を見せないような人間は、その後も実際に能力を発揮することはまずない。天賦の資質や能力が、このころまでに、その美しさや力のほどを現さないというのなら、もう一生、それが現れることなどないのだ。”
    第57章「年齢について」

    遅咲きの人もいるから一概には言えないけれど、おおむね賛成です。
    二十歳を過ぎてまだ、「俺はまだ本気になってないだけ」なんて思っているのなら、本気になる才能がないのだから、この先もこのままの可能性は大。
    けれど現代の日本の若者は、勉強ばかりを優先させられて、何事についても実践の経験値が低い場合が多いので、謙虚に経験値を高めていけば、どこかで花開くこともあるかもね、と思いたい。

    あれ?
    結局偉人の言葉からのあれこれは、あんまり刺さらなかったなあ。
    さすがにギリシア・ローマの偉人の言動を身近には引き寄せられないからなあ。
    セネカとかウェルギリウスが何を言おうと、他人事として面白いだけなんだなあ。

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    2023年03月21日
  • エセー1

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    いやいや、とんでもないものに手を出してしまいました。
    私が一番信頼している読書系サイト『本が好き』でさえ、フレイザーの『金枝篇』を読んでいる人はたくさんいても、この本を読んでいる人が一人もいない!
    だれだよ、私にこの本勧めたの。

    第1巻は25章に別れていますが、20章を読み終わってまだ半分くらい。
    最初の方はエッセイと言うよりも、哲学や歴史についてを読んでいる気がしました。
    塩野七生の『ローマ人の物語』、ダンテの『神曲』、佐藤賢一のフランス史物などを読んでいたおかげで、思ったほどつらくはありませんでしたが、やっぱり知識の不足が残念だなあ。

    ”わが国では、分別(サンス)がない人間のことを「あの人は記憶力(メモワール)がない」などというものだから、それでもってわたしが、自分の記憶力のなさを嘆いたりすると、なんだか自分に分別がないことを認めたかのように(後略)”
    記憶力がないということは分別がないと判断されてしまうというところに、フランスの厳しさがあるなあ。
    日本人でよかった。

    ”われわれの宗教は、生を軽視すること以上に、確かな、人間的なよりどころをもってはこなかった。(中略)実際、失ってしまったら、惜しむこともできないものなのに、それを失うのがどうしてこわいというのか?”
    死への怖れというのは、人間が根源的に持つ感情だと思うので、それが過剰なときに恐怖を軽減するための宗教というのは有効だとは思う。
    だけど、今度はそれが行き過ぎて、来世の幸福をエサに死を軽んじさせる宗教も現れるから、何事もほどほどがいいと思うんだよなあ。
    日本の場合、行き過ぎた廃仏毀釈が、宗教と生活を切り離してしまったことで、新興宗教につけ要られる隙を作ったのではないかと最近思っています。

    ”子供にとって、遊びとは、ただの遊戯ではなく、彼らのもっとも真剣なふるまいだと考える必要があるのだ”
    「子どもは遊びで遊んでるんじゃないんだよ」by我が家の次男

    ギリシャやローマ時代の古典の引用を多用しながら
    ”わたしだって、こんな、受け売りの、物乞いするような能力は、好きでもなんでもないのだから。
    われわれは他人の知識で物知りにはなれるかもしれないが、賢くなるには、自分自身の英知によるしかない”
    と自分の言葉でいいことを書いた後、引用の羅列。
    遊んでいるのか、自虐なのか。

    ”お子さんが、知能を獲得されたら、それを浪費せずに、節約するように、そしてまた、目の前で語られる、ばかげた与太話などには腹を立てないように教育することです。なぜといって、自分の好みに合わないものには、なんにでも食ってかかるとなどというのは、不作法で、はた迷惑なことだからです”
    今の日本にこそ、必要な一言。

    ”歴史を覚えさせるよりも、それについて判断することを教えるべきなのです”
    判断するためには、歴史をある程度知らないとね。
    とはいえ、モンテーニュが語る学校への不満って、今と全然変わらない。
    規則や体罰などで子どもを縛るな、とおっしゃってます。
    ”これでは、まるで青春を閉じ込めておく牢獄ではありませんか”


    ところで、「エセー(随想録)」というので、「枕草子」や「徒然草」のような身辺雑記から発するあれこれかと思ったのですが、それよりちょっと宗教・哲学寄り。
    ちょうどフランスの宗教戦争の頃でもあり、ちらちらカトリックの影響も見えます。
    だけど、書いた当初はこれ、時事問題くらいの感覚だったのかしら。
    今読むとがっつり歴史なのですが。

    あと、最後の方で、自分が勉強をできないことの言い訳めいたことを結構長く書いてますが、誰かに何か言われたのでしょうか。
    どうしたモンちゃん、ちょっと引くぞ。

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    2023年03月09日
  • エセー1

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    コロナ禍で読書の時間が増え、この機会に古典を読んで有意義な時間を過ごそうと手に取った1冊。読みやすさを重視した翻訳に助けられ、楽しく読み切ることができました。とても16世紀に書かれたとは思えない、現代にも通ずる本質を見通したご意見の連続で、まさに今語りかけられているような気持ちになります。この1巻で特に印象に残ったのは哲学と教育に関する章。哲学は本当は陽気で元気いっぱいで楽しくて茶目っ気たっぷりのものと説いたり、教育は子どもの自発性を促すものと説いたり、当時の主流に対するアンチテーゼを提示している点が興味深かったです。

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    2020年09月13日
  • エセー7

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    『エセー』の最終巻。晩年のモンテーニュが、肉体的にも精神的にも、意気盛んであったことがよく分かる。国は宗教戦争のさなかにあり、自身もそれにかかわりながら、『エセー』を書いている時は、いつものモンテーニュであり、それは最後まで変わらない。自らの慣習に忠実に、食べ、飲んで、眠っている。抑制することもなければ、過激になることもない。悟りすましたりもしない。人間歳をとり、死が近づいてくると、何かに頼りたくなるものだが、モンテーニュは自身の経験をしか頼らない。しかも、頑迷ではなく、融通無碍に晩年に対処している。見習いたいものだが、なかなかこうは生きられない。達人の域である。長めの章立てが、ぱらぱらと読むには、ちと不都合だが、引用した部分などを時折りひもといて、拳拳服膺すると、落ち着いた老後が送れるような気がする。

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    2016年05月19日
  • エセー1

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    16世紀に書かれたモンテーニュの随筆。根が暗いのでこれを読んで以来「人生に、ふんわりとした平静さ」をもたらす為に夜な夜な死について考えてる。

    第19章「哲学することは、死に方を学ぶこと」
    死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。

    人生を大いに謳歌したというなら、もうたらふくいただいたのだから、満足して立ち去るがいい。

    人生は、それ自体は善でもなければ、悪でもない。お前のやり方次第で、それが善の場ともなれば、悪の場ともなるのだ。

    人生の有用性とは、その長さにではなく、使い方にある。

    死んで不幸になった人間を、見たことがあるか?

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    2015年08月10日
  • エセー2

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    モンテーニュの著作はまるで長い時間を共に苦労した旧友に出会えたような気分にさせてくれる。

    無知な人の信仰心、中途半端な人の無神論、そしてさらに崇高な人の深みを増した信仰心。

    30歳を過ぎて、心身ともに増えるよりは減った。前進するよりは後退した。なるほど時間を上手に使う人は年と共に知識なり経験なりが豊富になるかもしれない。でも活発さや敏捷さ、それに粘り強さなど人間本来のとても大切で欠かせない能力は色あせて衰えていく.

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    2015年07月31日
  • エセー1

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     第二十五章 衒学について

    (a)われわれは他人の意見や知識をしまっておく。そしてそれでおしまいである。だがそれをわれわれ自身のものにしなければならぬ。われわれは、火が必要になって、隣にもらいゆき、そこに火がたっぷり赤々と燃えているのを見ると、腰を据えて温まり、自分の家へ火を持って帰るのを忘れてしまう人によく似ている。(中略)ルクルスは戦争の経験がないのに、書物を読むだけであれほどの偉大な将軍になったが、はたしてわれわれのようなやり方で書物の知識を身につけたのだろうか。


     読書を習慣とするものは、みな多少なりともこの文章にドキリとするのではないだろうか。読書は他人の頭脳を借りる行為であるから、ただ答えを得るためにそれを求めるとかえって愚鈍になりかねない。

    モンテーニュがいうように少なくとも賢くなるためにはわれわれ自身の知恵によるしかないのだから。

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    2011年10月16日
  • エセー1

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    エリック・ホッファーが暗記出来るほど読んだという事で手にしたのですが、面白いです。 難しくなく、スッと入れるのは翻訳家の方の努力の賜物だと思います。

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    2010年12月05日
  • エセー1

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    だいぶ前の事だが、翻訳という技術が全く情けないものになったと誰かが嘆いていたが、最近の翻訳者たちはすごいのではないか?宮下訳のエセーも従来にない読みやすさがある。第1巻でも全部読めたのは訳者のおかげである。

    「死など恐ろしくはない」といいながらいつも死について考えているモンテーニュがなんとなくおかしいなどど思いながら読んだ。

    英才教育を受けフランス語よりラテン語を得意としたモンテーニュという人となりも考えさせられるものがあったし、若くしてさっさと隠居し、塔にこもって出てこない館主のわがままを支えた人たちの事も想像してみたくなる。

    現代では、隠居しても、こんなわがままはとても通らないのは言うまでもないが、当時だって容易な事ではなかったのではないのかな。

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    2010年11月20日
  • エセー2

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    志朗による巻末コラムもよいです。訳文のリズムとコラムのリズムが、みごとに調和しています。あたりまえのようで、じつは相当の筆力がいるのだと思います。おそらく、これもまたモンテーニュの優雅さを引きだすための演出なのでしょう。。

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    2010年08月25日
  • エセー1

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    註釈で興味ぶかかったのは、イタリア語のtristezza。名詞では悲しみと悪意の両方の意味があるそうです。モンテーニュは悲しみというものを自制心を失うものとして警戒しています(第1巻2章)。それにしてもなぜ意味が両義なのか、そのルーツを知りたいものです。形容詞triste ならば悲しいで、tristo となれば悪意がある、と意味が変わります。まれに前者でも悪意があると解釈されます。(p.26)

    英語でもフランス語経由でtriste などがありますが、悪意という意味はありません。ノーテンキなイタリア人は、悲しみというものに悪意を嗅ぎとる習性があるのかもしれません。日本人の感覚からすれば、人生は美しいというよりも、人生ははかない、哀しい、というほうがしっくりきます。モンテーニュの随筆をめくって、人間としての自制をうながされるのも幸福なひとときです。読みようによって、モンテーニュはいくらでも変現しそうです。翻訳のよさがそれを保証しています。

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    2010年08月25日