『人間形成の日米比較 かくれたカリキュラム』恒吉僚子 著 中公新書
★第一章
日本―性善説・・・子どもを叱るときは、本来あるはずの“良心”に訴えかけながら諭す。
元来、邪心がない子どもを軌道から外れた時に粘り強く方向を正すとう日本の伝統的発想は、まさに、わざと曲がろうとして変形し
...続きを読むてしまったわけではない植物に、添え木をするのと似ている「植物モデル」
アメリカ―性悪説・・・放っておいたら子どもの中の悪魔が暴れだす。きちんと毅然とした態度で叱って“矯正”しなければならない。(ピューリタンたちの信仰「人間は生まれながらにして罪深い存在である。」に由来する)
子どもの本性は、矯正すべきわがままな意志を持つ動物的存在
「動物モデル」
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しかし、今は変容している。ここまでの極端な考え方はなくなった。
日本の学校・・・感情型の説得法。日本的な集団管理体制のもとに、直接鑑賞を控えながらも教師が教室を統制できる状況を作り出している。
・同調は、「個」の犠牲ではない。相手との感情移入を軸としながら同調するような一体感。
アメリカの学校・・・権威型の説得法。より自他を意識の上で切り離した自我構造に結びつきやすい。
・同調は、自分の「個」を犠牲にするもの。
★第二章
とりあえず、著者がアメリカと日本の学校を見比べて思ったこと。
→「人はある社会の一員である故に見えることと、一員であるためにかえって見えないこととがある」わぁ~って。
日本の学校・・・日本の小学校は、アメリカには存在しないような数多くの協調行動の場、そして、それを通じて、感情移入能力の練習の場を与えていると考えられる。
Ex)児童会活動、クラブ活動、遠足などでもグループ分け、集団登校、運動会・・・
・日本はとにかく 指示が細かい!!
・生まれつきの能力差なんてないサ。たとえ存在しても環境や努力といった後天的なものに比べれば大したことナス。
アメリカの学校・・・日米で同じ係が存在する場合も、そのあり方が違う。役割がそれぞれ個人の判断に委ねられる。細かい規律はナシ。
・生まれつきの能力差は認める。それを厭わぬ。→ギフテッドを認める。
個人間に生まれつきの能力差が存在するのだという考え方自体は、今もなお多くのアメリカ人の間に力強く生き続けている。→だからこそ、「自己顕示術」がマスト!!!!!!!!!!上手に自己宣伝しないと生きていけない。
・「なにがしかになる」道の第一歩は、「なにがしらしく振る舞う」こと
・学校は、特別な必要性があると判断されれば他の人とは違う扱いをされるのだというメッセージを送っている。
共通点・・・学校が教えることとして掲げている教科などの公式のカリキュラムの他に、児童たちが人間関係などを通して自ずから学んでいく潜在的カリキュラム「かくれたカリキュラム」が存在する。→学校は、社会を様々な形で反映している。
★第三章
日本の学校の小集団活動の特徴・・・
①目標、手順、役割が明確である
②活動がルーティン化されている
③児童相互の集団規制を利用している
・教師が集団による役割分担と児童相互の規制を利用しつつ、直接統治と間接統治を併用
・同調の根拠を、児童の内面に委ねている「内在型」
アメリカ・・・教師が個人的リーダーとして、自ら指示を下して児童を率いていく
・相手の内面よりも、物事の因果関係や力関係などの、非感情的な、より外在 的な要因による同調を促す「外在型」
★第四章
アメリカ人にとって、「自分は黒人である」「自分は中国系アメリカ人である」という事実は、「自分が男性である、女性である。」ということと同様、根源的な認識である。→人種やエスニシティの違いは重要。
ローレンス校はレベルに応じてクラス分けがなされているが、レベルが上がっていくにしたがってマイノリティの数は減っていく。
→→人種と深く関連した階級や、意識の違いなど、目に見えない壁によっても仕切られている。