奥野滋子のレビュー一覧

  • 「お迎え」されて人は逝く 終末期医療と看取りのいま

    Posted by ブクログ

    書籍としてはともするとトンデモ本の類と言えなくもないが、主旨には共感できる。
    死期が近づいて説明できない言動が出ている患者に対し、医療従事者や家族が「せん妄」ではなく「お迎え」ととらえることで、患者の旅立ちまでの時間は大きく変わるだろう。静かに肯定し見守ってもらえると心安らかに旅立てるのではないか、と思う。
    以前読んだ『ミシンと金魚』も思い出した。

    P82「本人が怖くないというのなら。夜中でも起きてしゃべっていようがいいじゃない」となれば、多分その人はだれかとの会話を続けることができるでしょう。でも意識障害と判断してすぐに薬剤治療をして眠った状態にしてしまうと、もうそうしたチャンスが奪われてしまうのです。

    P116 体の痛みはモルヒネなどの医療用麻薬を使うと非常に楽になることが知られています。ところが、つらい症状はいち早く薬で緩和するという治療方針が、心の部分にまでも通用すると多くの医師が思ってしまったのです。【中略】なんでも薬で対応しようとする医師の対応に、一部の医療者たちは今危機感を抱いています。医療者の間でスピリチュアルペインへの理解がいま一つ進んでいない、大きな要因と言えます。

    0
    2025年08月09日
  • 緩和ケア医から、ひとりで死ぬのだって大丈夫

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    家族や大事な人を看取るに際して、そして自分の生き方死に方を考えるために有益。
    最後の瞬間に立ち合う人がいなかったからとて、それは決して孤独死ではないという部分にとても共感。たとえば自宅でなくなっても、最期の瞬間に誰もいないということは、ままあるもの。
    どんな最期を迎えるか、どんな医療を望むか、誰もが考えておかなければならない。そしていつでも死は隣にある、ということも心しておきたい。

    0
    2022年01月18日
  • 「お迎え」されて人は逝く 終末期医療と看取りのいま

    Posted by ブクログ

    死を常に意識して毎日を大切に生きて行きたい。
    でもそんなに簡単に死を受け入れられない。
    本当に難しい話だと思う。

    0
    2020年09月30日
  • 「お迎え」されて人は逝く 終末期医療と看取りのいま

    Posted by ブクログ

    タイトルだけ見るとスピリチュアル系の本のようである。だが著者は現役の医師で、病院の診療部長として、臨床と教育の両面で緩和ケアに携わっている人物である。

    近年、日本で臨終を迎える人の多くは、病院で息を引き取る。全体としては8割、癌患者では9割という。こうした状況は実は先進国でも珍しく、背景には日本独自の国民皆保険制度がある。それ自体はすばらしい制度ではあるが、何かあればすぐ病院へ、という風潮は自然、強くなる。
    病院は、その性質上、「病気と闘う」ところである。可能性がある治療法があれば試す。こうすれば治る「かもしれない」、治る「可能性がある」手立てがあれば、提案する。
    ここでは、基本的に、「死」は敗北である。「自分は絶対に治る」と頑張る患者もいれば、「こうすれば助かったのではないか」「こんな手段もありえたのではないか」、とあきらめがつききれない遺族も出る。
    だが、極端なことを言えば、最終的にはヒトの死亡率は100%である。長く見積もっても、百数十年を過ぎれば、どんなヒトでも必ず亡くなる。
    「死」が敗北であるならば、誰しも負け戦を生きていることになる。

    一方で、病院での臨終は、往々にして、画一的になりがちであり、家族から切り離されがちである。
    口から食事が出来なくなれば、点滴で栄養を入れる。
    精神状態が悪くなれば、強い薬で意識レベルを落とすこともある。
    実際に危ないということになれば「ご家族は外でお待ちください」と病室から出される場合もある。
    そうした中で、弱っていく親しい人に十分ふれあう機会がないまま、別れの時を迎える家族もいる。
    これでは患者も不本意であり、家族にも悔いを残すのではないか。

    著者は職業柄、多くの人を看取ってきている。その中で、印象に残ってきたのが「お迎え」現象である。臨終が近くなると、「ああ、お兄ちゃんが迎えに来てくれたよ」「お母さんがあそこで待っている」と、以前亡くなった親しい人の姿を見る人がしばしばいるのだという。
    こうした場合、現代医学では「幻覚」や「せん妄」症状と見なして「治療」の対象とされる場合もある。
    だが、本当にそれでよいのか。
    本人が「あの人が待っていてくれるから」と安心して息を引き取ることができ、家族が「よかったね、あの人に会えるよ」と送り出すことが出来るのなら、「お迎え」現象はむしろ、喜ばしいことではないのか。

    少し前までは、医療者が「お迎え」現象を語るなど、言語道断だった。「非科学的」とも言える現象だからだ。だが近年、医療者の中にもこの現象に注目する人が増えている。

    著者はこの「お迎え」を日本人の死生観にあったものと見る。
    強い宗教的信念を持たない人も多いが、日本人は、神社で手を合わせ、寺に参り、大木を祀ってきた。何とはなしに大気に満ちる「何者か」を敬う風潮は昔からある。
    誰しも「死」を迎えるのは一度だ。どんな世界なのかわからない「あの世」への架け橋を、親しかった懐かしい人がともに渡ってくれるなら、それは怖いことではなくなる。本人にとってはうれしいこと、遺族にとっては安心なこととなりうる。
    盆の迎え火。墓参り。
    「この世」と「あの世」との境界はゆるりと越えるものであったのかもしれない。

    厳しい治療で身体を痛めつけるのではなく、薬で意識を落としてしまうのでもなく、最期のときをゆるやかに過ごせれば理想的なことだろう。

    高齢化社会を迎え、一方で、病院の病床数は限られている。今後は、病院で死を迎えられない人も増えるだろう。自宅での看取りも増えていくと目される。自宅介護には家族の負担の大きさもあり、きれい事では済まない部分もある。
    家族や自分にとって、どんな臨終がありうるのか、どんな臨終が望ましいのか。亡くなった後の葬式や墓を考えるだけでなく、臨終自体を考える「終活」があってもよい。
    もちろん、どんな死を迎えるのか、予測はつかないが、いざそうなる前に、あれこれ考えるヒントをくれる1冊である。

    0
    2016年09月03日