ジェフリー・ユージェニデスのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレヴァージンスーサイズを見てから読んだので、おおざっぱな話や登場人物はだいたい頭に入った状態で読みました。映画のほうは女の子たちのほうにクローズアップがされていましたが、こちらは語り手である男の子たちや、映画で拾いきれなかった細かい事柄がきちんと説明されていたので個人的には原作のほうが好きです。特にクライマックス~エピローグに至るまでは小説のほうが密で、いくつもの絶望(年月の経過、街の退廃など)が重なっていき少女たちの死が覆い隠されてしまう過程がわかります。あと、映画のタイトルが何故「ヴァージンスーサイズ」であるか、ということは原作のほうが分かりやすいです。
-
Posted by ブクログ
ネタバレヘビトンボが飛ぶ季節に末娘のセシリアを筆頭に次々と自殺していくリスボン家の姉妹たち。
その時のことを当時少年だった「僕ら」の視点から振り返る。
彼女たちの自殺の原因は書かれてなく、読み手も「僕ら」と一緒になって推測するしかない。
リスボン家は躾に厳しく、学校外で他人と接する機会がないため姉妹たちは周りからミステリアスで憧れの存在だった。
しかし本当は彼女たちも普通の私たちと変わらない子たち。
最初は家が厳しすぎることで将来を悲観しての自殺かと思ったが、それ以上に根本的なことかもしれない。
この世界そのものが彼女たちと合わなかったのではないだろうか?
不思議な感じで始まり、不思議な感じで終わる、とてもミステリアスだけど穏やかな話。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ面白かった。五人が順番に死んでいくのかと思ったら、セシリア以外はまとめて死んだのは予想外だった。あとヘビトンボをシオカラトンボやアキアカネのようなビジュアルで想像していたけど、検索してみたらもっと気持ち悪い感じだった。
「ぼくら」という人称の薄気味悪さ、真偽不明の証言と憶測のパッチワークで形作られた姉妹の顛末の"真相"、登場人物の暮らしのうんざりするくらいデティールに富んだ描写。
スティーブン・キングの田舎町を舞台とした小説と似た読み味を感じる。アメリカの田舎の閉塞感。Suburban Gothicというジャンルがあるらしい?
日本の田舎の息苦しさとはまた違うものがある気がする。それから、こんなに事細かに、あけすけに描写されもしない。
映画も観てみようと思うけど、「ぼくら」はどんなふうに描かれるんだろう。 -
Posted by ブクログ
1970年代、デトロイト。リスボン家五人姉妹の末っ子セシリアが、パーティー中に二階の窓から飛び降りて死んだ。町の人びとの好奇と憐憫の目に晒され、のこされた一家は少しずつ壊れていく。遂に五人姉妹の全員が死にゆくまでを執拗に見つめていた〈ぼくら〉は、中年になり青春の思い出として彼女たちを語りだす。回顧録を模して書かれた、歪んだ青春小説。
とにかく〈ぼくら〉の語り口と行動原理がキッツい!最初から最後まで「キッツ……いやキッッッツいわ……」と思いながら読み終えたのに、解説の巽孝之が語り手のヤバさに一切触れていなかったのでびっくりしてしまった。だが、「〈ぼくら〉の目を通して見たリスボン家事件の顛末」だということこそ、本作の肝じゃないのか。自殺した少女たちの心理に迫ることが目的の小説ではなく、ストーキングの加害者心理を描いた秀逸な小説として私は読んだ。
〈ぼくら〉の仲間は異常である。リスボン家に招き入れられるや否や姉妹の部屋を覗き見、トイレを物色し使用済み生理ナプキンを持ち帰ろうとするヤツ。下水道からリズボン家の地下室に潜入し、奇しくも風呂場で1回目の自殺を図ったセシリアの発見者になったヤツ。〈ぼくら〉はいつも双眼鏡で、あるいはこっそり窓の下に潜んでリスボン家を覗き込んでいる。終盤にはなんと、もっと幼い頃からリズボン家を監視するための秘密基地を木の上に作っていたと明かされる。〈ぼくら〉と一人称複数を名乗るのもセシリアの日記に基づくのだが、その日記をはじめとして姉妹にまつわるあらゆるものを蒐集し、「資料」と称して見せびらかそうとする。
五人姉妹を執拗に見つめていた〈ぼくら〉だが、当然姉妹からも見返されていたとのちにわかる。それでもなお自分たちの窃視症を棚に上げて駆け落ちの相手に選ばれたのかと勘違いする救いようのない能天気さ。彼らに対する姉妹たちの復讐は強烈だ。そして復讐の相手は〈ぼくら〉だけにとどまらないだろう。関係者のインタビューから片鱗が見ているにもかかわらず〈ぼくら〉が直視しようとしないところにこそ事の本質がある。
姉妹たちの死亡報告書を書いたホーニッカー医師は、さらりと「家族に対するいじめ」という言葉を使っている。これはセシリアの自殺のあと、野次馬たちに囲まれた日々を指しているとも考えられるが、リスボン一家がこの町に移住してきた新参者だったことを考慮するとまた異なる角度の景色が見えてくる。越してきたのは11年前、既に末のセシリアも生まれ、五人の女の子がいる家は目立ったろう。しかも父親は地元の学校の新任教師として子どもたちとその親の噂の的だったはずだ。幼い〈ぼくら〉が基地を作ってまでリスボン家を覗こうとした好奇心はそこに端を発すると思われる。
〈ぼくら〉の町デトロイトが移住者にどう接するかは、黒人やヨーロッパからの移民の扱いを通して間接的に描写している。こういう情報の出し方がとても上手い。ある意味では、リスボン夫妻はわざわざ越してきて11年かけて町に全てを奪われ、デトロイトに棄てられたのだとも言える。かつてラックスの恋人だったトリップの落ちぶれた中年の姿からしても、これはホワイト・トラッシュ的なものの考え方が醸造されていく町の空気感を書き写した小説なのだと思う。
とにかく、自分たちに責任の一端があるなどとは微塵も思わず、けれども姉妹の心理を"分析"する資格はあると考えている人間の視点を貫いて書かれている。姉妹の一挙手一投足を凝視していたことの免罪符のように自分たちがまだ童貞だったこと、そして自分たちの思いを姉妹が"わかろうとしなかった"ことを強調して怒りだす〈ぼくら〉は、今で言えば完全にインセルの仲間ということになるだろう。公民権運動後のデトロイトという舞台設定を最大限に活かしながら、現代でも変わらぬ搾取構造の強烈な痛みが体に突き刺さる、完成度の高い作品だった。 -
Posted by ブクログ
末娘セシリアの自殺から始まる5人姉妹の集団自殺が描かれている。預言的と書かれてあるがそこに現実批判(吟味)による倫理を読み解かなければならない。
集団自殺だからといってタブーにすることは当然意味がない。ただ未来に向かって現実を批判する時この集団自殺を突き放して見る視点があればいいのだろうと思いました。そういう視点を得ることがこの本の良さだろうと思います。坂口安吾で言えば故郷(ふるさと)かなって、没落していく雰囲気は一瞬フォークナーっぽく感じたけど、男の子の視点というところが自己批判の甘さがあると思う。そういう設定だから別にかまわないけど。お互いに循環論証になっていて止揚できないというか批判できない部分があると思います。そこが世界文学になれるかどうかの瀬戸際のような気がします。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ昔購読していたファッション誌のモデルさんがおすすめしていたのを見て以来、ずっと読みたかった作品。姉妹の部屋に吊り下げられた十二宮のモビール、ブラジャーの引っ掛けられた十字架といった印象的なモチーフが次々登場し、読んでいるこちらも段々と幻惑されられていく。最初の自殺の日から放置されたままのパーティー会場で、ピニャータのように吊り下がった死体を発見するシーンは鳥肌。ぜひ映画でその映像映えを堪能したいところ。70年代アメリカのティーンエイジャーの鬱屈した生活の中で、ひたすら死に引き寄せられる姉妹と彼女らに性欲を抱きつつ助け出したいと望む「ぼくら」の対比が美しい。
-
Posted by ブクログ
雲霞に似た昆虫、蛇蜻蛉が湖から湧き上がって町を埋め尽くす初夏に自殺した
リズボン家の五人姉妹について、後年、大人になった「ぼく」たちが回想し、
それぞれが知るエピソードを繋ぎ合わせて彼女らの死の謎に迫ろうとする。
舞台は明示されていないが、作者の故郷ミシガン州の町で、
彼が思春期の真っ只中にいた1970年代半ば頃の設定と思われる。
金銭トラブルや痴情の縺れによる殺人はどんな場所でも起こり得るが、
犯人が語る動機が他人には釈然としない、不条理かつ凄惨な事件は
ゴミゴミした場所より整然とした小ぎれいなベッドタウンで発生しやすい
……と述べたのは誰だったろうか。
この小説の中では他者への暴力は描かれないが、そんな、
岡崎京子「GIRL OF THE YEAR」(角川書店『チワワちゃん』収録)の
主人公のモノローグで
> そこにはショートケーキのようなウソくさい家がラブリーに建ち並んでいる
と称されたような郊外の住宅地で、
十代にして人生に行き詰まりを感じた少女たちが自殺していく暗澹たる物語。
「ぼく」らは彼女らを救いたいと思い、不器用ながら手を差し伸べようとしたが、
彼女らはそれを恐らく理解しつつ、
「ぼく」らの手を握り返すことなく旅立ってしまった。
「ぼく」らも彼女らと同年代の、まだ子供で、
彼女らの苦悩を受け止めきれないことを承知していたからだろう。
少年たちでもなく、きれいごとや理想論しか言わない大人でもなく、
彼女らと同じ「生きづらさ」を感じながら抜け道を見つけて生き延びた、
若干知恵をつけた少し年上の「おにいさん」「おねえさん」が近くにいて
支えてくれていたら、こんな悲惨な事態にならずに済んだかもしれない。
「死」以外に脱出口が見出せないほど現状が辛いなら、
死なずにその場から逃げ出すのがベストな選択だと思うが、
少女たちには逃亡を図ることもできなかった。
痛ましい。
ところで、長い時間が経って、すっかりおじさんになった「ぼく」らだが、
思い出の中の、
性衝動をどうにか抑えて日々を過ごしていた青臭かった時代の行動は
なかなか気持ちが悪い(笑)。
リズボン姉妹が使っていたバスソープの銘柄を知るや、
同じものを買ってきて香りを確かめた(p.66)だとか、
女の立場で言わせてもらうと「豆腐の角に頭をぶつけて××!」
といったところ。
五人姉妹それぞれに独立した美点を認めて好きだと思っている、というより、
彼女らを一塊の「女(になろうとする生き物)」なるオブジェと捉えている風で、
「十三歳の女の子だった」ことがある身として生理的に許し難い。
現実には、こうした男子のバカさ加減と女子の頑なさが、
ある時点で互いに軟化し、折り合って、自然な恋愛感情として発酵していくのだが。
原題は The Virgin Suiside で、ソフィア・コッポラによって映画化された。
機会があったら観てみたい。
しかし、この邦題は長いが見事。 -
Posted by ブクログ
バージンスーサイズとしてコッポラの映画を見たのが先だった。
素晴らしく幻想的でガーリーでその自殺さえもフリルにある刺繍のひとつであるかのように描かれていて、小説はどうだったんだろうかと。
コッポラは女性で、この小説を書いたのジェフリーは男性だった。
アプローチとしてもそのようになっていた。
つまるところ、これには近くとも深い断絶があり
そのひとつが女の子と男の子のあいだにあるものだった。
ただそれに仮託されたのが社会の断絶でもあったので
コッポラとジェフリーが対岸から書いてもいまだ同じ作品であった。
自殺と対極にあるのはカトリックなんだが、これはやや日本人としては捉え損なうかもしれない。
ただ、心性として僕らも一神教的な世界に近づいているとすればこの世界における自殺と同じようにそのおぞましい求心力を感じることだろう。ただそれ自体としては潔癖であるにもかかわらず。