実現するのかは分からないが、中学生の子に、古典を家庭教師で教えてほしいと言われて、ずっと積読にしていたのを開いた。というのも、家庭教師の約束をした中学生が、以前、『青葉の笛』という絵本を紹介してくれたのを思い出したからだった。子どもの頃に親に買ってもらって、以来、大好きだったのだという。元のネタは、『平家物語』の「敦盛最期」である。
平家の公達が次々と討たれていくことになる一の谷合戦。先陣を切った源氏方の熊谷直実は、武功をあげようと将軍首を狙っていた。海岸にたどり着くと、身分の高い鎧甲冑を身に纏った武将がおり、直実は名乗ったが、その武将は名乗らない。直実が組み伏せると、相手は自分の息子と同じ年頃の美しい若武者だった。助けたいと思うものの、後ろにはすでに源氏の援軍が迫っており、助けたところで別の人間に討たれてしまう。直実は、泣く泣くその息子と同じ年頃の若武者を討ったのだった。直実は、若武者の首と、その若武者の持っていた横笛「小枝」を持ち帰った。その後、自分が討った武将が平敦盛だったことを知り、世を儚んだ直実は出家する。
この本の解説によると、『平家物語』を「平家びいき」の京都方と、「源氏びいき」の鎌倉方に別れた、様々な語り手が重層的に語る物語だという。「平家びいき」の語り手たちは、平家の物語を「滅ぼされてかわいそうだったね」と語り、「源氏びいき」の語り手たちは、源氏の物語を「頑張って新しい時代を切り開いたね」と語る(p9)。
そう考えたとき、「敦盛最期」は、どんな語り手が語った物語なんだろうと想像してしまう。敦盛の美しい身なりと、潔い死に様は、平氏の貴種性と同時に武家としての生き様を体現しているように見える。敦盛が、戦場にまで持ち込んでいた由緒ある笛「小枝」の存在は、貴族としての平家の象徴で、「平家びいき」の語り手たちに哀惜の念を促すものだったのではないかと思う。
一方で、源氏方の直実の描き方は、どう捉えられるのだろうか。年若い若武者を前に、同じ年頃の息子を思い出し、ためらった直実は、当時の武士の姿として、どのように評価されたものだったのかは分からない。ただ、由緒ある横笛を手に出家する姿は、間違いなく敦盛を討った敵とはいえ、「平家びいき」の人々の目に好感を持って映ったことは、想像に難くない。この章段は、基本線として衰滅していく平家の最期に、読者が同情を持って共感できるように描かれた章段であることは、素人目には間違いがないように見える。
この物語を現代の読者にも共感しやすいものにしているのは、この直実のためらいにあるように思う。先陣争いや武功、出家という決断の重みは、現代の自分たちには、なかなか想像が難しいものかもしれない。けれども、自分の手で殺害しようとしてる目の前の人間が、子どもであることに対するためらいは、現代的な物語に置き換えられるものになる。そうした通路が保証されていることが、大きな戦の中で、若者の命が奪われていくことに対する直実の無力感を描いた物語として、解釈され、現代に書き換えうる可能性につながっているのだと思う。
この本では、『平家物語』を一貫した無常観の物語として読むことの物足りなさについて、都度都度説いている。この物語は、平清盛が因果応報の元に死んでいく物語に、六代が斬られるまでの平家の盛衰を描いた物語、そして、平家の菩提を建礼門院徳子が弔う灌頂巻という位相の異なる物語が重層的に重なっている物語だという。三つの物語は、成立時期も異なっていたのではないかと考えられていて、100年もの長い時間を通して成立した『平家物語』の成り立ちが、そのまま物語の重層性になっている。
物語の中に、一貫した内的な語り手がいないこと。バラバラの物語が、冒頭の祇園精舎の語りの下、ツギハギに繋がっていくところに、「敦盛最期」を置いてみると無常の物語としての『平家物語』とは別の側面が見えてくるような気がする。いずれにせよ、『平家物語』の古典としての面白みは、やっぱり、個別の章段から個別のテーマを抜き出しても見えてこないということを、割と確信した読書だった。