朴沙羅のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
社会学者がヘルシンキで子育てした際のエッセイ。
フィンランド、ヘルシンキ、北欧って何となく丁寧な暮らしをしていそうで、子育てもしやすいようなイメージがある。
ただ、実際は、考え方が違うだけなんだと改めて思った。
筆者曰く、日本の保育園は保護者のための施設だが、フィンランドは子どもが教育を受ける施設。子供のできること、できないことを人格、性格で考えるのでなく、単に技術の問題と考え、練習が足りていること、足りていないこと、で考えている。育児相談も同じ。フィンランドの育児相談は、母親としての心構えより、いま抱えている問題を解決する提案がなされる。ドライに「お互いに相手に悪意があるわけではない」という前提に立っていないと提案できない解決策を提案する。
ただ自分としては、それは、単にそれが「仕事」だからと割り切れているだけなのかもしれないとも思った。日本でも、そうした育児の相談が、完全な「仕事」として外注されるのであれば、そしてユーザーもそれで納得できるのであれば、フィンランドと同じことができると思う。ただ、家庭・育児に踏み込むことは、あまりにも個人的な感情に踏み込まざるを得ないのが日本の雰囲気だと思う。そうした中で、育児相談をサービスとして提供するのは、あまりにも個々人の感情に配慮しながら業務を完遂せざるを得ず、かなり難しい綱渡りを要求されると思う。単純に、外注サービスとして、成果物がはっきりとできる文化ならまだしも、この日本でそんな無料サービスを提供するのは末恐ろしいと思う。
あくまで感覚に過ぎないが、家事・育児・介護などのケア労働に対して、日本はあまりにも個々人の努力が要求され過ぎているような気もする。もっとドライであればいいのに、個々人あるいはサービス提供者に対して「いい親」「いい子」「いい保育者」「いい介護者」としての振る舞いを求められているような感覚に陥る。自分自身、育児も介護もまだな、中途半端な人間だが、だからこそ、ケアに踏み込むのが怖いのが正直なところ。
この本でも同じようなこと述べられているが、フィンランドの保育園の方がサービスは低く、日本の方が手厚い。ただ、それは善良で優秀な個人が現場で頑張ることによって公的な制度が不備のままに置かれているだけではないかと筆者も述べている。
まあでも、隣の芝生は青く見えるというか、単純に考え方が違うだけで、それがその人に合うかどうかは結局その人次第なんだろうなと思う。
そして、筆者は自らが日本でマイノリティとして暮らさざるを得ない状況で暮らしてきた感覚を書いているので、この本を読んだあと、自分が日本でマジョリティ側としてぼーっと暮らしていたことを暗に批判されているようで、説教されているみたいで申し訳なくなってしまった。
あと、心に残ったフレーズがもう一つある。
「私はたくさんの人との関係のなかでのみ、まともな人間でいられる。私は、私を恐れさせ、緊張させ、恥入らせる人々のなかでのみ、なんとかまともに振る舞うことができる。そうでなければ、私は自分の持つ力に酔い、傲慢に振る舞い、誰かを傷つけてもなんとも思わないだろう。子どもと親だけの関係は、危険だ。社会が、つまり制度と規範と多様な人間関係が、介入してくれなければ、私は子どもたちにとって危険な存在になる。」
親としての権力性。これは本当に気をつけなきゃいけないんだろうなと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ『どこでどんなふうに生きていようと、困った、しんどい、助けて、と素直に言えばいい』
―――身にしみることがたくさんありました。
私しては珍しく、本から抜粋をしようと思います。
大事だと思う部分、落とし込みたい部分、意識を変えたい部分など、本の文章丸々同じではないけれど、そのエッセンスを身につけたいと思っています。後ろからさかのぼって記入します。
『たくさん友達を作って、粘り強く、できる範囲で、みんなで力を合わせる』
『運動はみんなでやるものだ』
『多様な幸福を緩やかにサポートする仕組み』
『幼いうちに強制されて、これ嫌だと思うのは悲しいこと』
『自分の被害すら認識出来ないやつに、加害なんかわかるわけねぇ』
『淡々とした戦争の肯定、否定の欠如に―恐怖を覚える』
『一番大切なのは何をやるかで、誰とやるかは二番目に大事』
『その子供を主に育てる人の他に、どれだけ多くの人が関われるかによって、きっと子育ての内容は変わる』
『トウンネプヘ、感情を言語化し、自分へのタイムアウト、セルヴィッテリュ、ときほぐし、謝罪』
『母親は人間でいられるし、人間であるべき』
『準備、実践、定着』
『友達だから一緒に遊ぶのではなく、一緒に遊ぶ人を友達と呼ぶ』
『人格を褒めたりしているわけではなく、その場の状況や問題に焦点を当ててそこを褒めたり変えようとしたりしている』
『スキルを身につける』
『物事を笑うことと、人を笑うことは別』
p102.p103『記憶・交渉・セルフエスティーム・日常的な自分の世話を自分ですること・多少しんどくてもやり切ること・違いを認識しあうこと等、集団生活と修学に必要なスキルを身につけること』
『あらゆるスキルを練習している時期。できない、喧嘩、意地悪、悪いことではなく今練習中のこと』
『自分のことは自分でさせる。あなたを信頼しています。明示的に伝える。』
『遊びを通じてやる。大人に頼ることができる安心館、ここまでならできるという判断力を養う、信頼されている自信を持ち、他人を自分と同じように尊重する』
『個人が頑張らなくても問題がないようにするために公的制度があるはず』
『それほど手厚い訳ではないが、誰でも利用できるサポートがどこにでもある』電車内の子供スペース
『大まかな工夫をすることによって多様なニーズに応えられる』
『自立とは他人を頼ること。迷惑をかけないと頑張ることは、自分は他人を助けないと自慢するのと同じこと』 -
Posted by ブクログ
数年前出た『ヘルシンキ 生活の練習』の続編。前作はフィンランドと日本の差を描くことで多様性を扱った社会学エッセイであり、自分的にも時代的にもビットが立ったバッチリなタイミングで読めて深く刺さった。本作もヘルシンキ在住でワンオペ育児中の著者がエッセイ形式で綴る構成は前作と一緒でありつつ、戦争やデモ、特別支援学級など扱うテーマがより深く、より強く社会学の要素が出てきており、難解なテーマゆえ章ごとにいろいろ考えさせられた。というか読んだ人と語りたくなる作品でした。
デモの章。プレイヤーたちのデモやストライキは国や組織にとって非常に重要であるということが丁寧に書かれており、目から鱗。著書同様自分も、集団で何かを占有したりする行為は「迷惑なこと」という無言のバイアスをこの日本でずっと感じてきたし、今でも上に文句言うくらいやったらまず自分で何とかせなという意識が働く。後者はまだしも前者のバイアスは一体どこで培われたものかは分からんけど、本書では(前作からも)一貫して「言わな分からん」という主張が為される。
言わな、分からんということが分からん。
言わな、不満があるということが分からん。
それは以心伝心が美徳とされがちな日本で足りないスキルで、学ぶべきことは多い。
正しく代表されていない人々は、集団を作らなければ、声を上げても無視される。だから集団を作らないといけない。これも正しい。正しく代表されていないのなら、集団を作って、自分たちが運切に代表されるように活動しないといけない。
あとは特別支援学級の話。ここも凄かった。フィンランド語で "違う、多様な" を「エリライシア」というらしいが、
「エリライシアが当たり前であり、誰でも支援が必要」
という前提に立った場合、マイノリティがマジョリティに合わせるということは無くなるという話。マジョリティがマイノリティになる、或いはそれが出来なかったらシステムや機能そのものを変えるべきという主張やけど、考えてみるとそれはとても難しい。例えば集団に上手くコミュニケーションできない人がいて、エリライシアでない世界であればその人が糾弾される「対ヒト」構図の攻撃になる。一方で著者が書くエリライシアの場合、その人は支援が必要で、そしてシステムを疑うべきなので、例えばコミュニケーションツールを入れて多様な意思疎通を可能とする、といった具合。
けどそれを1人に対応するだけで多くの人間が動くのに、「誰もが支援が必要」なのであればそれが×Nとなり早々に破綻してしまう。人が減り続けて効率化が求められる日本でそんなリッチで悠長なこと言ってられない、と途方もなくなるが、そういう、あるべき姿を知っておくだけでも意識は変わると思いました。
普通の子どもと特殊な子どもがいるなら、「特殊」とみなされることは異なる扱いを受ける根拠となる。それを差別(=排除)だと感じることもあれば、「あいつは得している」「ずるい」(=特権)と感じることもあるだろう。他方で、誰もが特殊で、自分に応じた個別の支援を必要とするなら、特殊であることは当たり前のことになる。(略)その建前は、障害など存在しないとか、支援など必要ないとかいうことの対極にある。誰もが支援を必要とする、だから、支援を必要とする人は特殊ではない。 -
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異国の地、言語の壁、北欧フィンランド・ヘルシンキで移住生活することになった著者・朴沙羅が子供の教育を通して日常を体感する。それは人権のあり方や社会の責務、日本とは異なる観念が自身の出自や国籍というカテゴリに振り戻されていく。グローバルとは、そんな境界を取り払った自由さ、もしくは曖昧さにあるのではないか。私たちはどうか。この島国の民族主義が扇動するような家庭や教育の偏った思想にとらわれない先に多様性や民主制が垣間見えてくる。そうだ、まだ平等や人権の尊重のスタートラインに立っていない。"○○感" と喧伝する為政者の言葉はあまりに空虚であろう。
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Posted by ブクログ
中学生の頃から、日本でも韓国でもない国に住みたかったという著者が、フィンランドで職を得て幼子2人と生活を始める。
「フィンランドは理想郷でもないし、とんでもなくひどいところでもない。単に違うだけだ。その違いに驚くたびに、私は、自分たちが抱いている思い込みに気がつく。」という淡々としたニュートラルな姿勢が好ましい。
保育園での教育について書かれた「畑の真ん中」「技術の問題」の章が特に印象に残った。
・性格や才能と結びつけてしまいがちな、思いやりや根気や好奇心や感受性も「スキル」と呼ばれる。つまり、練習することが可能な技術だと考えられている。
・保育園は、学校教育や集団生活に必要なスキルを練習するところ。
・ちなみに、その練習は死ぬまでできる。
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Posted by ブクログ
◼️ 朴沙羅「ヘルシンキ 生活の練習」
技術の問題。実質シングルマザー家庭に対する受容と権利。洗練されているな、と。
著者は京都出身の学者さん。仲の良い夫もいる。思い立ち、フィンランドはヘルシンキに職場を得て幼い2人の子とともに転居する。
幸福度の高い国、と言われるフィンランド。転居、転職に伴って見える社会の風潮、仕組みは総じてあまり効率的には見えない。しかし保育園、就学前教育、の部分は考え方から研究され、徹底されているなと感心する。
保育園は親に仕事があるからやむなく預けるところではなく(つまり仕事がないのに預けるのはルール違反として責められることもある)教育を受ける権利があるから行くところであるという根本の発想、職員の数が多い、良いところを見る、問題のようなものがあれば、それは児童が身につける「スキルの問題」と分析して対処する。小学3年生までは遊びの中で学ぶ、など、よく考えられていて、子どもを受け止める方がかなり落ち着いている印象だ。
母親の悩みに対するカウンセリングなどの受け入れ方もしかり。相談窓口やソサエティは整えられていて、親身で理論的、外国人に対しても親切、母親の権利に関しても、考え方が一定に確立されているように思える。
著者は社会学者らしく、フィンランドの政治や歴史、幸福度というものの考え方と比較の方法なども展開する。それぞれの国にいいところとそうでないところがある、のは確か。でもこの本を読む限りはやはり社会のあり方の違いが浮かび上がる。
福祉という言葉がどこまでを含むのかその境界は分からないけども、国民に恩恵を与える分野に国がかなりの投資をしているのは確かだ。ただ、その分税金は高い、というフレーズは何度も出てくる笑。おかんと学者、個人の行き来、混在の筆致。
そういう目線で日本の社会を見るとなんだか古くさく感じたり、理不尽なほど嫌になったりする、という心情は確かにありそうな気かする。
ただどうも、クールなようでいて、漠然と何かに不満を持っているような感覚が散らされていて、どうも掴みにくいところがあるな、とも思った。
私も父が福祉関係の仕事に就いていたので北欧が先進的であるのは聞かされたことがある。その具体、現実を見る良い機会になった。 -
Posted by ブクログ
何かと日本で持ち上げられがちなフィンランドについて、社会学者の著者がフラットに記述した本。
フィンランド最高、と言う本ではないと著者も書いていたと思うが、やはり教育周りは日本より寛容でありつつ、移民へのサポートがしっかりしているのかなと言う印象。
筆者の子供に合わせて、保育園の遊びを変えてくれたりとかかなり柔軟そう。
学校では低学年から4ヶ国語勉強する(現地の人がそうなので、筆者の子供はプラス日本語で5カ国語?)力を入れる部分がそもそも違うなぁと思った。
保育園では「好奇心が強い」「共感力がある」ということがスキル(練習して伸ばせること)とみなされているそう。
あるに越したことはないが、練習でどうにかなるものなのか?というのは疑問に思った。
節々に出てくる著者の生い立ち、そこから発生する面倒なこと(在日韓国人のルーツを持つ)は、何となく共感するところがあった。
ルーツについて、不躾に聞いたり、「日本人だよね」みたいなワードを励ましとして使う人など。
そして、海外に行けばいい意味で「アジア人」としてひとくくりにされ、誰も興味を持たないことに心地よさを感じるのも少しわかる気がした。