伝統的に西洋の宗教では遺体は死後の復活のために土葬されるが、東洋の宗教では輪廻転生を果たすため火葬する。しかし復活と輪廻転生のどちらも科学的に証明されたわけではなく、ただの信仰だ。時々前世の記憶を語る人が出てきて驚かされるが、残念ながら、復活も転生も一般的なものではない。前世の話も大抵疑わしい。
ユダヤ教やキリスト教やイスラム教など一神教では、永遠の生は主に復活によって成し遂げられる。一方で、東洋の宗教と呼ばれるヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教などの宗教では、不死は輪廻転生を経て実現される。
つまり「不死」に憧れている。
しかし、それが不可能だと思いこみ、人間の創るドラマでは生命に限りがあるから儚く美しい、というような刷り込みが行われ、普遍的な価値観となっているようだ。
死の終わり。死は病であり、本来なら避けられるもの。本書はそのための論理や倫理、技術、不死の可能性への挑戦が紹介される。
ー 何が正常で何が病気であるとみなすかは、歴史的な流れに大きく影響される。かつて病気だとみなされていたものが、そうとは分類されなくなることがある。たとえば黒人の奴隷がプランテーションから逃げ出すと、ドラペトマニア(逃亡奴隷精神病)と診断され、それを“治す”ために医学的な治療が行われていた。同様に、マスターベーションも病気であるとされ、クリトリスの切除や焼為などという処置が行われていた。さらに同性愛は、一九七四年という最近まで病気とみなされていた。病気の定義に対する社会的、文化的な影響に加えて、科学的、医学的な新発見により、何が病気で何が病気でないのかが見直された。たとえば発熱はかつてそのもの自体が病気だとされていたが、様々な原因で発熱が起こることがわかり、病気から症状へとステータスが変えられた。その反対に、骨粗鬆症や収縮期高血圧や老年期のアルツハイマー病は現在は病気とされているが、かつては通常の老化現象と分類されていた。
例示されるものが良くない気もするが、我々の捉え方次第だという話だ。不死が可能になった社会やその時の人間の価値観は、非常に興味深い。