著者の丹治愛は、1953年生まれのイギリス文学者、東大名誉教授•法政大学教授。
本書はアカデミズムの学者の著作だ。
とはいえ、心配ご無用。
題名はいかめしいが、言い換えると「ドラキュラ•オタク」なのだから。
1.タイトルについて
タイトルは内容を表す。
本タイトルには、「ドラキュラ論」とは書かれていない。
「ドラキュラ•シンドローム(症候群)」と題されていることから、小説の内容そのものよりも、小説のもたらしたもの、もしくは小説をもたらしたものに焦点を当てていることが分かる。
タイトルにある「ドラキュラ•シンドローム(症候群)」とは、一言で言えば、「外国恐怖症(ゼノフォービア)」のこと。
ドラキュラの流行を、ビクトリア朝時代の英国の異常とも言える外国恐怖症にその原因を見る。
ビクトリア朝時代は、シャーロック•ホームズが活躍した時期であり、我が夏目金之助(漱石)がロンドンに留学して神経衰弱に苦しんでいた時期に当たる。
それだけでも、興味をそそられるではないか。
2.本書を読むべき読者
本書を読むべき読者は、以下の問いに興味を持つ者だ。
(1)何故ドラキュラは東欧からロンドンへ侵入しなければならなかったのか。
また、それはいつのことか。
(2)何故ロンドンにおけるドラキュラの住居は貧しいイースト•エンドと富裕なウェスト•エンドでなければならなかったのか。
(3)何故反ドラキュラの旗頭ヴァン•ヘルシングはオランダ人でなければならなかったのか。
(4)ドラキュラに立ち向かうチームの内に二人も医師がいるのは何故か。
(5)何故チームのアメリカ人はテキサス出身でなければならなかったのか。
(6)何故チームメンバーの内、アメリカ人のみが命を落とさなくてはならなかったのか。
—これらの問いを見ても物語の筋には何の関わりもないことが知れるだろう。
こうした問いに多いに惹かれ、これぞ解くべき謎と感ずる者のみが本書を手に取るべきなのだ。
物語は、これらを謎と見做さなくとも、十分に豊かに読むことができる。
だが、物語を超えて物語を読みたい、という欲望は多くの読者が持つ欲望だ。
「シャーロキアン」たちがホームズのトリビアの探究に血道を上げるのは、物語を超えて、ホームズを理解したいと思うからだ。
その意味で、物語を超えて読むとは、物語をより広い世界に解放することだ、と言えるだろう。
物語を歴史の中、社会(構造)の中、他のテキストの中に解放すること。
そうした読み方に興味を感じる人が、本書に手に取ると良い。
興味を持たない人は、本書を読む必要は全くない。それよりも物語を多く読むべきだろう。
3.外国恐怖症
外国恐怖症は、外国からの侵略恐怖が根幹にあるが、それだけではない。
外国からもたらされるパンデミック恐怖も含む。
そして、重要なのは、外国恐怖は容易に、内部恐怖につながる、ということだ。
サリンで日本中枢を麻痺させようとしたオウム真理教が最も恐れたのはサリンであり、最大の敵がオウム真理教内部の敵だったことを思えば、その対比で、当時のイギリスの対外恐怖を類推することができる。
当時のヨーロッパ人の恐れる最大のパンデミックはコレラだった
そして、最も恐れる民族がユダヤ人だった。
その二つが混合され、自国にコレラをもたらす民族としてユダヤ人がインベーダーと目された。
更に、自国に入ったユダヤ人は、自国民と混淆して見分けがつかない。
その姿の見えない死の恐怖を「ドラキュラ」に形象化したのが、ドラキュラ流行の根底にあった、というのが著者の文化史的指摘だ。
こうした視点は、物語そのものからは生まれない。
物語を世界に開くことで初めて手に入れることのできる視点だ。
その意味で、本書は、書物を世界に開くことを実践で示した書と言える。
もっと簡単に言えば、ドラキュラ•オタクの本。
オタクの世界はのめり込むと楽しい。
何ものめり込む対象はドラキュラである必要はない。
ホームズでも白鯨でもビートルズでも角野隼斗でも対象は何でも良い。
だが、世界に開く、という姿勢を持つと精神衛生上良い、というだけ。
4.ドラキュラという名前
ドラキュラという名前は、父親がドラクル(ドラゴンのような)公と呼ばれていたが故に、その息子としてドラキュラ(ドラゴンの子)公と呼ばれたことから命名された。
だから、日本語に変換すると「子龍(こたつ)」ということになる。
『ハリー•ポッター』にはライバル、ドラコ•マルフォイがいるが、この「子龍(こたつ)」もスタイルはクリストファー•リーの「ドラキュラ公爵」のイメージを濃厚に纏っている。
とにかく彼らはドラゴンの眷属とされる。
古来から、ドラゴンは悪の権化だから。
5.年代特定
物語のドラキュラがロンドンに侵入する年代の特定に紙幅が割かれる。
物語には年代は書かれていず、月日と曜日のみが書かれている。
さて、その年代はいつなのか、という問いは、物語時代にとってはどうでも良いことだ。
だが、提示された情報から年代を特定したい、というのは、数学の問題があるのに答えを出さないのと同じだ。
いや、この喩えは良くなかった。
数学の問題は「捨て置く」のが高校時代からの一貫した姿勢ではなかったか。
本書の冒頭の章は、この「物語にとってはどうでも良い」謎の解明に費やされることになる。
これは村上春樹『海辺のカフカ』で、年代の特定に取り組んだことがあるので、大いに膝を叩いて、読んだ。
『海辺のカフカ』年表を作ってみると、そこに新たな発見があって興味が尽きなかった。
そこには、『ドラキュラ」と同様、アナクロニズムが含まれていた。
何故、著者はアナクロニズムをわざわざ挿入したのか、を想像するのも時間を忘れるほど楽しいのだ。
6.コダック
年代特定に情報を与えるのが、コダックだ。
コダック•カメラが素人カメラマンを大量に生み出したのが1890年代、正に世紀末の出来事、ドラキュラのイギリス進出の時だった。
本書とは全く関係ないが、ニューヨーク州ロチェスターにあるコダックの本社に何度か行ったことがある。
ランチは名物バッファーロー•チキン•ウイング。
ナイアガラの滝までもそう遠くはない。
社員はみんな名門企業に勤めるプライドを持ち、名刺は顔写真付き。
その超名門コダックも、時代の変遷に対応できず、2010年代にチャプター11を申請して倒産してしまった。
コダックの歴史は120年で終了した。
一方、コダックの後塵を拝していた富士写真フィルムは果敢に構造転換を成功させ、今も隆々としている。
ひとつの事業での巨大な成功は、構造転換を阻害したのだ。
本書を読みながら、ドラキュラと時を同じくしてイギリスに進出した、あのコダックの人たちは今どうしているだろうと、思いを馳せた。