〈長い前振り〉です。本の書評を読みたい方は〈さて、本題です〉からお読みください。
何故、この本を読もうとしたか、そこから始める。
私の住む〈ムラ〉では、〈ムラ〉を遠くまで見渡すことの出来る一画に大木があり、その下に神様を祀っている。村の鎮守ではない。言わば氏族鎮守である。この〈ムラ〉には、同じ苗字を持つ家が二十数軒存在する(親戚関係ではない)。それを数グループに分けて、お盆前と秋祭りの後に幟を立て、境内の掃除をし、お供えをする係りを数年交代ごとに回している。ということを、私は父親が亡くなって初めて知った。お供えものは、信心も無い私が適当に前日にスーパーで買って揃えたのだが、海のモノ(イカの燻製)、山のモノ(ピーナツ)、お米、お神酒(お酒缶)である。この公でない祭は果たしていつまで続くか。しかし、止めればこの祠一帯は、あっという間に荒れ果てるのは目に見えてはいる。おそらく世の中の小さな祭はそうやって、二千年近く続いて来たのではないか。だとすれば、お供えの中味はともかく、構成要素は二千年前の形を遺しているのかもしれない。
岡山県倉敷市には、楯築遺跡という弥生墳丘墓がある。弥生時代最大級の墳丘墓であり、この墓の周りに立てていた特殊器台が後に箸墓古墳にも使われ、やがて埴輪になったという意味で、日本古代史上もっとも重要な遺跡のひとつである。言いたいのは、この特殊器台が、「神様ごはん」のもとになったと本書で解説している「直会(なおらい)儀式」の、王墓祭祀での最古形式で最大の器物だということだ。特殊器台とは何か。単に液体を入れる大きな壺を置く器台のことなのであるが、それが、弥生中期から晩期にかけて巨大化されて儀式化されて行き、模様と大きさ共に非常に特殊な器台になった。遂には弥生の王の中でも、もっとも影響力のある楯築の王の時に、その器台を使った儀式が完成されたとみなされている。儀式は直会(神人共食)儀式だったのか?液体は酒だったのか?どんな儀式だったのか?全てはナゾではあるが、全て明らかになれば、当時の祭とは政治とイコールだったのだから、大和王朝の祭に直結する古代統一の秘密が知れるということである。何かヒントがあればいいな、と愚考したわけだ。
〈さて、本題です〉著者の吉野りり花さんは学者ではなく、旅ライターだった。よって、不足している部分(神饌の作り方、細かい儀式等々)はあるが、綺麗なカラー写真と、それを担う人々の生の声と写真があり、堅苦しくなく、まぁ面白い本でした。
神饌(お供え)は、基本的にやはり海の幸、山の幸、お神酒、米(または餅)で構成されていて、しかも基本的に直会儀式が伴うものであった。そういう意味で、日本の神撰は、わが〈ムラ〉のお供えから、日本最古の神社と言われるような所のお供えまで、二千年近く依然統一されている気がする。
しかし、「ものすごい発見」はなかった。とても残念である。
マイメモ。
・平安中期「延喜式」の神饌は、既に農産物から海産物まで多種多様。少なくとも6世紀の記述あり。
・明治「神社祭式」で神饌品目を「和稲、荒稲、酒、餅、海魚、川魚、野鳥、水鳥、海菜、野菜、菓、塩、水等」と決めている。これ以降「熟饌(調理済)」から「生饌」に変わった。
・京都貴船神社の若菜神事「若菜がゆ、酒、水、ごはん、塩鯛、トビウオ、アジ、椎葉餅、ぶと団子」
・岡山吉備津神社75膳据神事「桧の葉を敷き詰め、御物相のごはん、海のもの(鯛、アジ、昆布、海苔)と山のもの(春は筍、エンドウ、秋は大根、生姜、キノコ、栗)菓子、鏡餅、御神酒、熨斗」運ぶのは、天狗面、獅子頭、お幣、鳥籠持ち、盾、鉾、弓、大太刀、小太刀、五色旗、御幣物、剣、等々続き、神饌担当はみんな紙製マスクをつける(←これは出雲神事にもある。決して言葉を発してはいけないと云うことだろう)。←楯築遺跡に最も近い神饌。参考になるとすれば、マスク。神事は元は夜中だった可能性がある。
・奈良県奈良パークホテルで古代料理ランチあり。「蘇、すわやり、古代米粥、唐菓子、麦縄、まがり餅、ぶと」平安時代からの変更はほぼ無し←いつか食したい。
・福岡県宗像神社の古式祭(12.15に近い日曜日、午前6時、千円で誰でも参加可能)