吉田茂のレビュー一覧

  • 回想十年(下)

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     「負けっぷりを立派に」。痛快ではあっても作りもののTVドラマ「半沢直樹」と、この言葉をもとにした現実のドラマ「吉田茂」とでは違うという論評を読み、原典にあたってみました。

     「負けっぷりを立派にするということは、何もかもイエス・マンで通すということではない。また表面だけはイエスといっておいて、帰ってから別の態度をとるという、いわゆる面従腹背などは、私の最も忌むところであった。要は出来るだけ占領政策に協力するにある。しかし時に先方に思い違いがあったり、またわが国情に副(そ)わないようなことがあったりした場合には、出来るだけわが方の事情を解明して、先方の説得に努めたものである。そしてそれでもなお先方の言い分通りに事が決定してしまった以上は、これに順応し、時来って、その誤りや行き過ぎを是正しうるのを待つという態度だったのである。」

     初めて首班指名を受けた吉田茂が、鈴木貫太郎大将を訪れ、「戦争は、勝ちっぷりもよくなくてはいけないが、負けっぷりもよくないといけない」と言われ、これを指針にしたそうです。占領期間が短期に終了したことについて、米国人の寛容も一方でありとしながらも、「日本側のいわゆる負けっぷりがよく、帰国した進駐米軍将兵が、日本および日本人について好意的報告をしたことなども大なる貢献をなしたことと思う」と述懐しています。また、同じ土俵での「倍返し」ではなく、「戦争で負けて外交で勝った歴史もある」と、戦いの場を別にしたのも、TVドラマと現実のドラマとでは異なるものと思います。

     出典の「上」巻だけを読む予定が、引き込まれて全巻読んでしまいました。時間軸での「回想」録ではなく、憲法改正、安保、皇室、財政、外交などの項目ごとに、経緯とその時の事情・考え方が書かれています。ソ連の介入で危うく北海道が分離・東独化しかけたこと(マッカーサー元帥が察知してこれを排除)、憲法改正もソ連介入排除のため急ぎ作らざるを得なかったこと、天皇・マ元帥の存在がさまざまに良い影響を及ぼしたこと、などや、そのほかにも現在に至る戦後体制を作った背景や思想が記述されています。

     「外交は権謀術数に非ず」と言い切り、大局的にものごとを捉え、洞察力と胆力に優れながらも、ちょっとお茶目なこうした人物は、いまや見出すのは難しいのではないでしょうか。現代の体制の原点がここに書かれており、「これを読まずして、戦後史を語るなかれ」と言いたくなるほど、素晴らしい出来の一冊(三冊)です。

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    2021年07月12日
  • 大磯随想・世界と日本

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    「戦争に負けて外交に勝った歴史がある」吉田は首相を引き受ける覚悟を決めた時こう語ったという。ニューディーラーの牛耳るGHQ民政局が理念先行で日本の実情を顧みない過激な民主化を断行しようとしたのに対し、ウィロビーら参謀部の理解を取り付け、時にマッカーサーとの直談判を通じて軌道修正を図るなど、 敗戦国の首相としては、吉田は実にしたたかに立ち回り、また言うべきを言う指導者であったのは事実であろう。東アジアでの冷戦構造が鮮明になる中で出てきたダレスの再軍備要求に対し、あくまで経済再建を優先し、平和憲法を盾に断固拒否したというのも語り草になっている。本書においても吉田の弁舌が最も冴える箇所である。

    吉田への肯定的評価を決定的にしたのは若き高坂正堯の『宰相吉田茂』(1968)であるが、高坂は手放しで吉田を礼賛していたわけではない。吉田のとった軽武装経済優先主義は、敗戦直後の日本の国力と冷戦という特異な国際環境のもとでのやむを得ざる選択であって、それが結果的に成功した。だが多極化が進み国際環境が複雑化する中でその賞味期限が切れ始めていることを、既に同書の中で高坂は明確に指摘していた。

    では吉田自身はどう考えていただろうか。「世界と日本」は吉田晩年の回想録であり、防衛政策についてかなり率直な自己批判を行っている。「今日、一流先進国として列国に伍し且つ尊重されるためには・・・危険なる侵略戦争の加害から、人類の自由を守る努力に貢献するのでなければならぬ」と言い、自衛隊について「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、・・・(戦力を放棄した)憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者として・・・痛切に責任を感じ・・・国策の方向を改める必要を痛感する」と吉田は語る。吉田のこの言葉から半世紀近く経た今日もなお、事態は本質的には何も変わっていない。吉田の敷いた外交・防衛路線を「吉田ドクトリン」なる言葉で崇め立てるのは決して吉田の本意ではないだろう。

    近年吉田外交について、高坂以来の肯定的評価の根本的見直しを迫る見解が豊下楢彦氏から出されているのを付け加えておこう。ダレスが吉田との交渉で最優先したのは再軍備ではなく基地の提供であり、かつそれが極めて法外な要求であると考えていたという。更に驚くべきことに、沖縄を切り捨てて基地の提供をあっさり認めたのは、自らの地位保全に固執した昭和天皇の介入があったからだという。つまり今日に至る対米従属のレールを敷いたのは昭和天皇であり、吉田は天皇の介入に翻弄されて「外交に勝つ」チャンスを逸し、半永久的な基地貸与を受け入れてしまったというのだ。天皇評価として一面的に過ぎるし、実証的にも疑問が多いが、自らを臣茂と称した天皇崇拝者吉田の外交を再考する上で興味深い仮説ではある。『 安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書) 』参照。

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    2023年12月29日
  • 大磯随想・世界と日本

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    戦後12-17年程経った中で吉田茂が語った話。まだ日本に民主主義が根付くのか不明な中、日本人よもっと自信を持てと鼓舞している。この人は共産主義嫌いだったようで、自壊すると言っている。また知識人は共産主義こそ資本主義が昇華した形だと言っていて、そう言う時代の空気が分からないと理解出来ないのだろう。戦後76年も経つと当時がどうだったのか、戦争の記憶もないし、民主主義が当たり前と思って生活しているが、それこそ吉田茂なんかは敗戦後の日本を如何に立て直すかに尽力してくれたのであり、まだ不安定なはずの新しい仕組みを根付かせる苦労も多かったのだろう。外遊に行っても日本を嫌う国も多かった時代。もう少しこの時代の本を読んでも良いなと思った。

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    2021年11月29日
  • 回想十年(下)

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    下巻は、ドッジライン、朝鮮戦争特需、一兆円予算、三度の行政整理など。読み物として一番面白かった。上記のほかに、教科書に登場する歴史上の人物の思い出話が並んでいるからである。

    「予算閣議で色々な議論をきいていると、全く問題の複雑さと困難さに、どう片付けていいやらと思うときさえある。講和、独立、それは待望に待望を重ねて、やっと実現する。誠に結構なことだが、さて自らの責任と努力で国際社会に乗り出し乗り切っていくということは如何に難しいことであるか。賠償、対外債務の支払、安全保障、治安の確保、こういったことは、独立国として過去を清算し、将来に生きてゆく上に、どうしても考えなくてはならない。一方国内経済の開発、発展のために産業投資や、公共事業も必要だ。これも多いに越したことはないが、他方社会保障や遺家族援護などの民生関係の経費も多いに越したことはない。勿論財源としての税金は、軽いに越したことはない。こういったそれぞれの主張を皆立てるわけにはいかない。どう按配して纏めるか、それは結局、大蔵大臣の裁量に任せるより外はない。そういうわけで、私は池田君を信頼し、同君を支持した。閣僚の不満は、私が代わって説得し、抑えた。」

    「外交は小手先の芸でもなければ、権謀術数でもない。国力を土台として最新の経営、不断の努力を以て、国運を開く外に正しい外交の道はない。小手先の芸や権謀術数によって国の利益を図ることは、一時は成功するやに思われても、長い目で見れば、その間おのずから失うところが、得るところを相殺し、却って永く不信の念を残すに至るもので、その事例は殊に近代の歴史に少くない。むしろ大局に着眼して、人類の平和、自由、繁栄に貢献するの覚悟を以て、主張すべきは主張し、妥協すべきは妥協する。そして列国の間に相互的信頼と理解とを深めてゆかねばならぬ、いささかも面従後言の挙に出て、信を外に失うべきではない。これが真の意味の外交である。」

    「国家群の結合において、一国が他国を隷属せしめ、いわゆる衛星国的存在たらしめるごとき形をとることは、古来から幾多の例がある。しかしそれは必ず永続きせず、遠からず崩壊するというのが、東西の歴史の教えるところである。」

    牧野伸顕
    「…義父の牧野全権について思い出すことは、平和会議における人権平等に関する提案である。これは平和条約と当時に新たに生まれる国際連盟の規約の中に、人種平等の原則を謳うべしと要求して問題となったことであるが、これは牧野全権の発意に基くものだと私は解している。…この提案に対しては、英、米、仏など主要国代表は賛意を表したにも拘らず、白濠主義を唱えて有色人種排斥をやっていたオーストラリアの猛然たる反対を蒙り、それがさらに米国の世論に飛火した形で米国代表の態度も一変して、一時は険悪な空気まで醸したものであるが、南阿連邦のスマッツ将軍などの斡旋によって妥協がつき、日本はこの案の不採決を忍ぶ代わりに、膠州湾の問題においいては、その主張が大部分支持されることとなったのである。」

    田中義一
    「私の官界生活中、これほど仕えるに楽な上役に出会ったことがない。鷹揚というのか、太っ腹というのか、小事に拘泥しない、おおらかな気質であった。事務的な仕事はほとんど次官任せで、第一、外務省に顔を出すのは、時たまのことである。顔を出した時を目がけて、大臣の判をもらいに行くと、田中さんは右手に印判を握ったまま、書類の内容などには眼もくれず、ただ『大丈夫か』と聞く。私が『大丈夫です』というと、ポンと判をつく。大丈夫か、大丈夫です、ポン、この段取りをくり返すだけで、山と積まれた書類も忽ちのうちに片づけてしまう。誠に事務簡捷である。」

    幣原喜重郎
    「田中さんと幣原さんとは、およそその気質、人柄を異にし、全く対照的であった。田中さんの方は極めて大雑把で、事務は他人任せであったのに対し、幣原さんはあくまで緻密で、慎重な事務家である。それにもともと外務省育ちであるだけに、省内のことなら如何なることでも掌を指すごとく知っておられる。…次官は何もしない、というよりする仕事がない。省内の口さがなき連中は”幣原次官、吉田大臣”などと失礼なことをいうことさえあった。」

    斎藤博、白鳥敏夫
    「もちろんアメリカ、イギリス側にも、それぞれ記録係がいて、各国ともそれぞれ記録をつくるわけである。ところが会議の期間中、いつとはなしに、日本側の作った記録が、英米のそれらに較べて、一層正確で、よく出来ているということが、英米の全権団に伝わり、後にはわざわざ日本側の記録をもらいに来るというまでになってしまった。…
     両君はともに日本に生れ、東京の大学を卒業したので、外国生れとか、外国で教育を受けたとか、いうわけではない。従って両君の英語は飽くまで独力で勉強したものである。それを思うと、勉強の仕方、心の持ちようでは、外国語に不得手だと一般に思われている日本人でも、英米人の間に伍して、決して彼らに負けないほどの仕事振りを、英語を以て示すことができるという実例になると思う。」

    寺内正毅、山本権兵衛
    「思うに、前の寺内元帥といい、またこの山本伯といい、当時一般には癇癪持ちで頑固親爺として恐れられていたもので、なるほどその容貌なり語調なりは一見誠に激しいものが感じられたのは事実であるが、これらの明治、大正の先輩政治家の多くに共通した特色は、人を叱ったり、怒鳴ったりする場合には、必ず後輩を扶掖指導するという温い思いやりが込められていたことであって、自己保身と名利に汲々たるもの多き今日の政治家の態度と想い合わせて、感慨に催さざるを得ない。」

    チャーチル
    「…私が感銘深く受取った一つは、”グッドウィルとペイシェンス(善意と忍耐)”という言葉を挙げ、『これあるによって、これまで幾多の戦争が回避され、またこれなきのために、多くの不幸な事変が国際間に起こったことは、歴史の証するところである。』」

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    2021年08月08日
  • 回想十年(上)

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    楠木先生の読書履歴に載っていて、気になったので読んでみた。
    吉田茂の回顧録。現行の日本の基盤は当時つくられたものがほとんどであり、できた経緯などをつくった当人の言葉で振り返るのは価値があるように感じる。
    上巻で興味深かったのは、総司令部について(特にマッカーサー)、新憲法ができるまで、文教改革をめぐって、民主警察の完成まで。

    「東郷君はもとよりのこと、当時私が接した重臣層をはじめ、政治上層部の誰もがこの戦争には賛成していなかった。国民の大多数もまさか戦争になろうとは思っていなかったであろう。しかるにこれらの重臣層の人々は内心戦争に反対しながら、その気持ちをどうもはっきり主張したり、発言したりしなかった。こんな時こそ国民性が顕われるもので、平素とかく大人ぶったり、知ったかぶりするくせに、いうべき時にいうべきことをいわず、しかして事後において、弁解がましきことを言い、不賛成であったとか、自分の意見は別にあったなどというものが多い。」
    笠原和夫氏の戦時中の話とも共通するが、国民の多数の内心は、我々戦後世代が抱いているイメージとずいぶん異なるという印象である。日本人の国民性は、いまだに会社内でありそうな話であり、肝に銘じるべきエピソードである。

    マッカーサーについて。
    「私が実際に接してみて、先ず第一に判ったことは、元帥がもともと古くから可成りよく日本の事情に通じ、日本人を知ることが深かったということである。…わが東郷(平八郎)大将や乃木(希典)大将に面接して、日本の将軍達が武勇の点ばかりでなく、人間としても立派だったことに非常な好印象というか、深い感銘を受けたらしい。以来元帥の日本人観は、私をして率直に言わしめるならば、過当評価といってもいいほどである。それで私はある時元帥に向かって話したことがある。『元帥の日本人観は、昔出会った東郷、乃木その他の将軍連の印象に基くところが多いようだが、東郷、乃木という如き人物は、日本人の中でも何千、何万のうちの一人という特殊の例であるから、これを以て現代の日本人を過大評価されてはたまらぬ』といったところ、元帥は『貴下は自分が日本人のくせに、日本人の素質を過小評価するのは、おかしい』と私をきめつけながら、『爺さん、婆さん、娘にいたるまで、毎日早朝から夜遅くまで、田畑に働きに出ている。こんな勤勉な国民が世界のどこにいるだろうか。日本人は種々の発明などから見たって、決して世界のどの民族にも劣ってはいない』などといったものである。」

    憲法について。
    「…幣原総理が陛下に拝謁して、憲法改正に関する総司令部との折衝顛末を委曲奏上し、陛下の御意向を伺ったところ、陛下自ら、『象徴でいいではないか』と仰せられたとうことで、この方に勇気づけられ、閣僚一同この象徴という字句を諒承することとなった。」
    「…私は戦争放棄には賛成であった。日本は平和に害のある好戦国民であるというのが、当時の連合国の通年であった。従ってここで、日本は全く平和を愛する国民で、世界の平和に貢献こそすれ、決してそれを破るような国民ではないことを、連合国に認めさせなければならぬ。そのためには、戦争放棄の規定を認めるがよいという考えであった。」
    「ところでこの戦争放棄の条項を、誰が言い出したかということについて、幣原総理だという説がある。…私の感じでは、あれはやはりマッカーサー元帥が先きに言い出したことのように思う。もちろん幣原総理と元帥との会談の際、そういう話が出て、二人が大いに意気投合したということは、あったろうと思う。」
    「…然るに、この憲法については、それが占領軍の強権によって日本国民に押しつけられたものだとする批評が近頃強く世の中に行われている。…しかし私はその制定当時の責任者としての経験から、押しつけられたという点に、必ずしも全幅的に同意し難いものを覚えるのである。成るほど、最初の原案作成の際に当たっては、終戦直後の特殊な事情もあって、可成り積極的に、せき立ててきたこと、また内容に関する注文のあったことなどは、前述のとおりであるが、さればといって、その後の交渉経過中、徹頭徹尾”強圧的”もしくは”強制的”というのではなかった。わが方の専門家、担当官の意見に十分耳を傾け、わが方の言分、主張に聴従した場合も少くなかった。」

    文教改革について
    「…しみじみ思うことは、一国の国旗というものが、普通の日本人、殊に戦後の日本人が考えているよりは、遥かに重大な意義を持つものであるということである。…
     どこの国旗にも、それぞれの伝統それに伴うセンチメントとがあるものだ。欧米人は国旗に対し、宗教的と思われるほどの尊敬の念を表するのが一般である。…
     私は、日本の若い人々が赤旗を押し立てて興奮を感ずる前に、先ずへんぽんと飜える日の丸を仰ぎみる気持ちになってもらいたい。また一般の家庭においても、せめていわゆる国民の祝日などには、ぜひ戸毎にに日の丸を飜えさせたいものだ。私どもの若い頃はこれを旗日といったほどである。愛国の心なき国民にして、栄えたためしは、歴史上にないと思う。」

    民主警察について
    「自治体警察と国家地方警察との両建でゆくその後の警察制度は、日本に押しつけられた占領改革の重要な一つであったが、これが実施されたのは私の在野時代であった。…
     このように極端に分散された警察だったから、おのずから弱体であった。この弱体ということが、或る意味においては総司令部の警察民主化の主な狙いだったのでもあろうが、こうして弱体化の狙いは確かに達成されたけれど、その後共産主義者の組織的活動が甚だしくなって来るにつれて、新しい警察制度のその弱さが、重大な欠陥として目立つようになってきた。」
    「苟くも一国の政府たるものが、市町村という小規模小区域の自治体に警察権を完全に委譲し、これに対しては積極的には口出しできないというような国は、世界のどこにもないのではないかと思う。この珍しい制度は、周知の通り、米本国から日本へ特派された使節団の勧告に基いて、日本に押しつけられたものであるが、恐らく米国自身の警察制度を参考としたのであろう。」

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    2021年08月08日
  • 回想十年(中)

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    中巻で興味深かったのは、自衛隊、農地改革、サンフランシスコ会議。
    「私はいつも思うのであるが、軍人が戦争の専門家に偏することは、戦争そのものには或いは強くなるかも知れぬけれど、一般政治や国際外交の常識に欠けるところが生じて、外交を誤り、国を誤ることになる。大東亜戦争などは誠によい例である。こうした考えは、決して私のみの考えではなく、総じて軍人が政治を支配することを防ぐことは、各国とも大きな内政上の問題である。一方軍人自身もその分を弁えて、政治に深入りをしないようにすることが特に肝要であって、それには広い視野と豊かな常識とが必要である。」
    「一体、私は再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢であると言いたい。」
    「…世界いずれの国も今日独力を以て国を守り得る国はない。米国といえども、共同防衛がその国防の主たる観念である。日米安全保障条約は、この共同防衛の観念を以て作り上げられたものである。」
    「憲法第九条にいうところの戦力の意味については、前に記した如く、当時の法務庁で研究して統一解釈を下していた。それによると、『近代戦争を有効に遂行し得るだけの装備編成を持つものを指す』という。その限界に達しないものは、憲法にいう戦力には該当しない。従って警察予備隊も保安隊も、その規模及び実力からいってこの『戦力』には該当しない。そして、そのように解釈するのが『憲法の各条章を総合判断した結果の合理的解釈だ』というのであった。」

    辰巳栄一元陸軍中将の回想余話より
    (ここ数年の間に陸上兵力を三十二万五千に増強すべきとの米国側の主張があったが)
    「『日本の現状は、軍事上の要求のみで兵力量を決めるわけにはゆかぬ。今は先ず国に経済力をつけて民生の安定をはかることが先決問題だ。日本は敗戦によって国力は消耗し、痩馬のようになっている。このヒョロヒョロの痩馬に過度の重荷を負わせると、馬自体が参ってしまう、とはっきり先方に伝えてくれ』
    とのことである。かくして総司令部側の熱心な要請にも拘らず、吉田政府は二十八年度末まで十一万で押し切ってしまった。私は当時米側の執拗な要請と、吉田さんの頑としてこれを相手にしない強硬な態度に板挟みとなって陰ながら苦労をしたものである。
     その頃一部の世論は吉田首相を向米一辺倒として屡々非難した。私の知る限りにおいて、これほど的を外れた批評はない。恐らく終戦後歴代の総理大臣の中で、吉田さんほど率直、頑強に自己の信念を通し、従って米国側からも煙たがられた人はないと、私は信じている。
     実際、上記の米軍の将軍連との雑談中に、吉田さんの噂になると、”stubborn and obstinate”という形容詞がよく彼等の口に上った。日本語でなら差し詰め”あの頑固親爺”とでもいうところであろう。もちろんその底意には十分な頼母しさと親愛の情とを含めているのだが、『君の国の総理の頑固さにはこまったもんだな』と言いたげな米将軍連の面持ちを、実情を知らない日本の人々に見せたいと思ったことが一再ならずあったのである。」

    「…最後に私の宿願を申せば、やがて一億に達するであろうわが国の人口を養うためには、どうしても農業を大規模に開発せねばならないことは判りきった話である。そのためにはやはり何んとしても、金が欲しい。そしてそれは実際問題として結局外資導入に俟つ外はあるまい。」

    「私が先年外遊の際ドイツに立ち寄り、同国の要人たちに対し、当時何故ドイツには労働争議が少いかという点につき質問を試みたところ、要人達の答は一様に簡単であった。すなわち、ドイツの労働者達の考え方は、『敗戦後のドイツにとっては祖国の再建、経済の復興ということが第一に必要であるから、ストライキなどというそんな贅沢なことはやってられない』ということであった。彼等ドイツの労働者が自分自身や自分等の階級よりも如何に国家、社会の利益の方に重きを置いているかを如実に語るものとして、私は深い感銘を受けたのである。」

    「結局、南樺太、千島列島は、サンフランシスコ条約に関する限り、決してソ連の領有を認めていないのであって、従ってこれら地域の現状は、ソ連の戦時占領のままとなっていると解するのが、本筋だと思う。況んや歴然と北海道の一部である色丹、歯舞両島についてはもちろん、日本の固有の領土として古くから公認されていた南千島に関しては、本来ソ連の占領部隊の撤退をこそ日本は要求すべきであって、今さら『返還』を求むべき性質のものではない。要するに北辺の領土問題は、他日機あらば国際会議によって決せらるべき筋合のものであることは、サンフランシスコ会議の経緯からいっても当然なのである。この点は今後とも官民の念頭に置くべきものであろう。」

    「サンフランシスコ平和条約によって、日本は独立を回復し、その独立は、安全保障条約と行政協定によって保障される。かかる体制を『サンフランシスコ体制』と呼ばれる。呼び名はともかく、この体制について、私の考えをもう一度纏めて、ここに述べておきたい。
     占領六年有余にして、日本は一日も早く独立を獲得せねばならぬ、とする私の考えはいよいよ強くなった。全面講和は理想としてはいいかもしれぬが、当時の国際情勢、殊に米ソ冷戦下においては、それは一場の夢に過ぎない。現実的には、国際情勢の緩和などを待っていては、いつの日に、日本の独立を回復し得るやら、全く見当がつかぬ。占領久しきに亙れば、国民は終にその自主性、独立心を失うに至る恐れなきに非ずである。
     さらにまた将来日本の採るべき途として、自由国家群に伍して行くべきであるというのが、私の堅い信念であった。私は、必ずしも永久に共産主義国との修好を否認するものではないが、現実の要請と自由主義の確信に基いて、サンフランシスコ講和を好機として迎え容れたのである。
     平和条約で独立は一応獲得した。しかしこれは言わば『主権回復』という意味での政治的独立であって、経済的独立には未だ前途尚ほ遠しである。経済的独立が政治的独立につづく至上要請となる。しかも経済的自立に専念するためには、国の内外における安全が保障されねばならぬ。国内の治安維持には、平常の場合警察予備隊の増強の程度で間に合わせ得るとしても、対外的の安全保障には、…それだけでは安心できぬ。
     そこに再軍備の問題も起る。しかし当時のわが国の経済状態は、再軍備の負担には堪え得べくもない。また旧交戦国の間には、いまだ戦争に依る対日憎悪感と復讐警戒心の依然根深いものがあって、この際の日本の再軍備は決して策の得たるものではない。況や日本の新憲法は、厳として再軍備を禁じているにおいてをやである。
     しかし国の独立は飽くまでも守らねばならぬ。幸い米国の対ソ戦略上の要請は、日本防衛と日本の経済的強化の必要と一致する。その上、今や世界は明らかに集団防衛の時代である。国連憲章の名分に添って日米共同防衛体制の生れるのは、自然の数というべきであろう。」
    「…日本が極東の一角に、正しく、強く、厳然として立つは、現実問題として、極東及び世界の平和維持に欠くべからざることである。ただ憾むらくは、日本経済の現状、その他の事情は、日本国の自力防衛を許さない。且つまた今日は集団防衛の時代である。近代軍備の厖大化は、いずれの国と雖も、自国の防衛を独力達成することを不可能とする。とすれば、わが国に駐留するアメリカ軍の将兵を欣んで迎え、これを優遇するは、国際礼儀の上からも、また日本自身の利益の上からも、当然というべきである。しかして他面、日本国民としては、経済復興とともに、国防増強に努め、平和条約、安全保障条約の精神、条項に従い、所定の義務を忠実に遵奉、履行し、国際平和維持に貢献し、国際社会に奉仕せんとする覚悟こそ、また以て自らを護る所以たるを知るべきであろう。」

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    2021年08月08日