本書は2004年に出版された、フランス哲学者によるウィトゲンシュタイン(以下LW)評論の翻訳本。著者は既に鬼籍に入っているが、フランスにLWを紹介した最初の人物だという(ということは、それまでの現代フランス哲学はLWを何ら参照することがなかったのだろうか?)。専門である神学や古代ギリシア哲学、新プラトン主義の文脈からLWを論じているが、本文と解説で丁寧な解説がなされているためそれらの知識がなくとも読み進めることは可能。むしろ最近の哲学書のような重厚長大さがなく、本文も150頁程度とコンパクトであり読み易い。古田徹也氏による解説も充実しており理解を助けてくれる。
内容に関しては古田氏も指摘している通り、徹頭徹尾LWを「論理実証主義者」と称したり(命題が論理的形式を満たすかどうかは事実との照合/検証により行うべき、というLWの主張からだと思われるが、LWは端的には「論理は事実や対象ではない(よって観察もされない)」と言っているのであり、観察可能性を重視する実証主義者とは立場が異なるのでは。「実践主義者」とでもしたほうが実態に即していると思う)、哲学的言語を「言語の悪用」と断じたり(のちに「青色本」解説文で論じられるように、哲学は日常言語と論理形式/ルールが異なるだけで悪用とは言えないのでは?)するなどやや違和感も感じたが、後者の論点からは例えば『論考』が自らを「最終的に無意味と見做されるべきもの(6.54)」とする理由が、「言語をその根本に求める哲学が、まさにその言語によっては自らを表現できないため」だということが明快に導かれており、わかりやすさという意味ではかなりいい線を行っているのではないかと思う。
もちろん、本書の白眉はこれまでのLW論とは全く異なる視座からLW哲学に光を当てていることだ。『論考』終盤では神秘的なものに対する驚きの感情が述べられているのだが、僕にはこれがそれまで冷徹なまでにストイックに論理形式の語りえなさを記述していたLW像とは相容れないものののように思えて仕方がなかった。本書ではそのLWの感情こそが「事実に対する科学的記述とは疎遠な何か、実存的もしくは倫理的、美的秩序に位置付けられる何か」であり、まさに世界の外にあって「語りえない」ものだということを「示している」のだという。「言語の限界が世界の限界(言語の乗り越え不可能性)」、つまり「言語ー世界並行論」から逸脱した部分にLWは神秘さを見出しているのだということなのだが、これは少なくとも今まで僕が読んだLW論でははっきりと示されてこなかった視点であり、これにより『論考』をより一貫性ある形で読むことができるのではと思う(ただ、これをストア派のアパティア(超然さ)に引きつけて論じる部分はやや強引に思えたが…)。
後半は、『哲学探求』における「語の意義とは、言語におけるその語の使用である(43節)」からくる言語ゲーム、なかんずく「日常言語中心主義」をめぐる考察が主。ここから外れた語の使用を実践する哲学を断罪しているが、上記の通り「青色本」解説によればLWが攻撃するのは「属するゲーム、及びルールを示さないままの語の使用」であり、必ずしも哲学のみを対象とするものではないように思える。が、いずれにせよ「語の使用」を意味の場とするLWの主張が、変化球を用いることなく多くの第一次資料からの引用をもって論じられており、前半に比べるとストレスなく読むことができる。
ただ、『論考』『探求』の考察を通じて著者が抱いた大きな疑問「LWによって示された「論理形式」「言語ゲーム」などという表現は、どのような言語ゲームに属しているのか」についてはそのまま留め置かれたままである。これをラッセル流にメタ的に処理してよしとするのか、ゲーデル流に自己言及の連環として扱うのかというのは、考えるだに強烈に困難な問題であるように思える。