読み始めようと手にして驚いた。
なんと凝った装丁を施した本なのだろう。普段、文庫本ばかり購入している僕には、とても興味深い“本”の造作。モノとしての本の魅力、物欲の対象としての本の、新たな魅力に目の覚める思いがした。
巻末にある“『いろいろ』ができるまで”の頁が興味深い。
筆者の、こだわりが詰まった本なんだな。
こだわりが詰まって収まりきらずに、迸る。
そりゃそうだ。
本を好きな人が“作った”本なのだから。
本好きな人に、こだわりがないなんて、きっとないから。
彼女が紡いだ文章は言うなれば、そう、たとえば昨日買ってきた米粉のように粒子が微細で、ぎっしりと充実した密度の高さと、その割に拍子抜けするほどの軽やかさ。一冊の『いろいろ』という本の中に詰め込まれた文章の数々は、今日はどこで何をしているかも知れない彼女の、存在感への縁(よすが)、根拠であり裏付けだった。なにしろ執筆したのは彼女自身なのだから、その一事をもって納得に至ることが本来なのだろう。しかし腑に落ちない。彼女の描いた文章からは、距離が感じられなかったから。あって然るべき距離感。執筆者と読者の、というよりは、執筆者である彼女と、それら文章との間(あわい)、時空すら存在しないほどの親密感、身体感というか。彼女自身が気の済むまで書き直し続けたであろう文章に、不確定な時間差をして今日、このとき初めて読者である僕の、この目に触れたのだ。現実の、疑わざる事実としての時間と空間の存在など感じさせない、彼女の文章の、いわば新鮮さに驚き、ページを開く度に、僕の胸は躍り続けた。
めっちゃいい文章だなあ、って。
なんだろう。彼女は俳優だから、いろいろなところで見聞きする機会があるけれど、いつもどこか親近感のようなものを感じている。これは単純に僕自身の“バグ”なのかもしれない。むしろそういうことなのだ、と自白してもいい。なにしろ僕は、いま彼女に夢中なのだから。
上白石萌音さんのことを意識して見続けるきっかけになったのは、TV番組での、彼女のコンサートの生中継を観たこと。コンサートの生中継ということ自体に興味を持ち、たまたま見始めただけなのに、数分後にはもう、彼女の歌声に魅了されていた。彼女の、伸びやかで豊かに響く歌声は、ストレートに僕の胸の奥にある、感情をつかさどる何かを叩いた。あの夜以来、自分でも可笑しいほど僕は彼女に惹かれている。
扉を開く。目次を眺めると『撮る』とある。僕は写真を撮るので“撮る”の文字には敏感だ。文字通りカメラと写真の“お話”。いや、あえて“お話し”と書こうか。彼女の文章には独特の起伏があるようだ。まるで話しているような。文章のそれは、少し気取った話し方だから、ちょっとした客観性を含みながらも、まさに“話して”いる気がする。声が聞こえてきそうだった。
文章を読みながら聞こえてくる声は、想像には違いがないけれど、その手がかりになるのは、紛れもなく彼女の手による文章なのだ。
たとえば『撮る』を読み終えた僕がカメラを手にしたら、きっと彼女の声が聞こえてくる…具体的にすら思える距離感、親密感には、そんな裏付けがあったのだな。
そう思えば納得できる。
50篇の書き下ろし。
タイトルにつられて読み始める。
それもいいと思う。
読んでみなけりゃわからない。
創作。ノンフィクション。
想像も実感も。
扉を閉じて、ふたたび装丁を撫でまわす。
天アンカットのギザギザを指で擦る。
360度ぐるりと観察する。
スピンの色味。
紙の質感や扉の硬さ。
流通の合間に付いたであろう“背”に残る打痕すら、僕が手にするまでの経緯の表れだった。
それら細部に宿るもの。
見落とさないように。
注意深く。
隅々まで噛み締めるように。
文章だけではない、本を持つ手の感触からも伝わるもの。それは筆者の、濃厚な存在感。
届きましたよ。あなたの思いが。
いま、僕のもとに。
ああ。歌声だけじゃなかったんだ。
もうひとつ。
彼女への愛しさを見つけました。
これからまた時を経て、もう一度この本の扉を開くとき、彼女は、どんな“話し”をしてくれるだろうか。