ガブリエルの「新実存主義」という論文が中心になっていて、それに対する同業者(?)の序論やコメントがあって、最後にコメントに対するガブリエルによる回答がおさめられているという構成。
新書なので、わかりやすいのかな?と思って、買ってみたのだが、わりと専門的というか、学術的な本でした。
より一般向きと思われる(文章とか例示はわかりやすそうなのだが内容的にはそんなにわかりやすいわけではない)「なぜ世界は存在しないのか」「私は脳ではない」をまず読まないと、ここでの議論にはついていけないんじゃないかな、と思う。(私は、2つとも読んだけど、この本の議論にあまりついていけなかったが、、、)
さて、ガブリエルは、サルトルなどの名前をだしながら、自分の立場を「新実存主義」と位置付けている。サルトルは、戦後〜60年代(日本では70年代くらいまで?)の一種のヒーローだったわけなのだが、批判も多く、ブームの反動で、急速に評価がさがった哲学者。今では、批判されることもなく、スルーされてしまう感じ。
というなかで、ガブリエルが、「私は脳ではない」で、サルトルや実存主義にかなり好意的に言及しているのに驚いたわけだが、この本は、まさにタイトルが「新実存主義」で、しかも自分の立ち位置を「新実存主義」とはっきり位置付けている。
とはいえ、この本を読んでも、「新実存主義」がどんなものかは、よくわからない。
というのは、議論されていることの中心は、いわゆる心脳問題なのだ。ここで、批判されているのは、決定論的、還元論的な唯物論的な「自然主義」と呼ばれるもの。
そもそものところで、「唯物論」は、ある種の形而上学というか、実証することのできない仮定に依存しているということに始まり、「自然主義」「ニューロン中心主義」への批判、そしてガブリエルが提示する「条件主義」は、私にとっては納得性があるものに思える。
一方、その話が、実存主義にどう接続するのか?
ガブリエルは、実存主義に連なる思想家として、カント、ヘーゲル、ニーチェ、キルケゴール、ハイデカー、サルトルをあげる。これらの思想家が共有する前提として、「精神、つまり人間の心に制度をつくる能力があるという信念である、人とのまじわりのなかで、行為やそれについてのそれについての説明が大きな文脈のなかにどう収まるかをイメージし、そのイメージに照らし合わせて制度を構築する能力だ。人間は、いかなる状況においてもいまいる位置を超えて、ものごとの連関という、より大きな地図のなかに自分を絶えず置き直す。われわれは、ほかの人々がべつの前提のもとに生きていることを踏まえて、自分の人生を生きている。だからこそわれわれは、同類であるほかの人間がわれわれをどう見つめ、現実をどうとらえているかに関心を寄せるのである」とする。
たしかに、カントからサルトルにいたる思想家の共有するものとして、そういう前提のようなものがあるかもしれないし、わたしもその前提については共感できる。
が、ここに挙げられている思想家は、通常、「実存主義」とは位置付けられない人もいるわけで、この共通の前提をもって、「新実存主義」といわれても、なんだかわからないわけである。
と思うのは、私だけではないみたいで、序論を書いているマクリュールや他のコメンターも「新実存主義」というネーミングについては、モヤモヤしたものを感じているようだ。
第5章では、そうした批判に応えて、サルトルの「人間的現実」に関するものとして、実存主義から取り入れた考えは、
・人間は本質なき存在であるという主張
・人間とは、自己理解に照らしてみずからのあり方を変えることで、自己を決するものであるという思想
と整理している。
しかし、たとえば、フランス哲学の世界で、「実存主義」の批判のもとにでてきた「構造主義」や「ポスト構造主義」の論者でも、この2つのポイントにはそんなに違和感を持たない人も多いのではないかと思う。
哲学というマイナーな世界ではあるが、ガブリエルはもっとも注目されている人で、その議論には共感できるところが多い。
が、哲学のプロではない私には、本当のところ、どこが新しいのか、すごいのかは、よくわからない。
分かるのは、今、ガブリエル的な立ち位置が求められているのだということ。
「自然主義」「科学主義」が生み出しがちな唯物論的で、決定論的な人間観。
「構造主義」、「ポスト構造主義」、「社会構成主義」などが生み出しがち言語決定論的で、相対主義的な人間観。
いずれも、非人間的で、ニヒリズムの危険性を内包する。
そうしたなかで、自然科学や文化の多様性との関係性を健全に取り戻し、なんらかの「実在」性を認知し、そしてなにより「ヒューマニズム」を復権させようというニーズにガブリエルは応えているのだ。
そのチャレンジがどこまで成功しているのかはわたしにはわからないのだが。。。。