ハロウィンには仮装し、クリスマスを祝い、新年には神社とお寺詣りのハシゴをする日本人。
そんな私たちも、殆どが亡くなれば仏教のしきたりで弔われお墓に入る。
でその仏教、起こりはどうなの?と聞かれても、あまり知っていない。インドのゴーダマシッタルダが開祖で、中国から朝鮮半島経由で日本に伝わったのが6世紀前半。産まれてすぐ天と地を指し、天上天下唯我独尊と曰われた等断片的なエピソードが少々くらい。
いつかはその辺りを知る本を読みたいとは思っていたのだが、怖いと言うことばに釣られて読んでみた。
もちろん後世の弟子が彼の言動や行いを記述した仏典をベースにした研究結果なので、真実かどうかは分からないとしても、面白い内容だった。
怖いと感じたのは、「地獄絵図」の説明。
幼いころ、嘘をついたり悪事をはたらくと、死後は地獄でこんなことをされると、親から教わって以来、実際に自分にとっては地獄絵図は怖い対象だ。
しかしもっと怖いのは、罪人を臼で生きたまま粉々にしたり、寄ってたかって全身の生皮を剥いだり、ま灰汁で罪人を溶かして骨の鎖にしたり、糞使の沼に沈めて苦しめる刑罰は、実際にすべて古代インドで行われていたと言う。もちろん死後ではなく、生きている状態で。
ただ主にページを割いているのは、当時の修行者たちの性欲に対するはけ口のこと。「律」は仏教の教団で暮らす修行者の生活規則を事細かく記したものだが、その中で性に対しては相当厳しく律している。しかし所詮動物なのである。本能までコントロールするなんて不可能で、あの手この手で修行者はすり抜けようとするが、律も都度具体例で禁止を行う。死体や動物にまで欲情するなんて、それ本当なのかな?と思うけど、禁欲生活を続けると、脳の回路が壊れてしまうのかもしれない。
しかし、以下のようなことは学びになった。
仏教の思想の核心は「無常」にあり、ブッダの教えの最終目的は「死へのとらわれ」の克服をめざすことにある。「四苦」(生老病死)とはまさにそのために観察するべき現象なのだ。
だれもがまぬがれない「無常」の法則、真理。それを知るために修行者はまず「無常」の最たる現場、「死」をありのままにみなければならない。それこそが唯一の解決の道、救済を得る早道だった。そのためにブッダが用意したものこそ、墓場での観察修行、「不浄観」だった。
ブッダの説いた「苦」は肉体的な苦痛ではなく、精神的な苦痛、もっと正確には、「思い通りにならないこと」をさす。人は「思い通りにならない」ままに生まれ、「思い通りにならない」ままに病み、老い、滅びてゆく。それが人生のありのままの姿である。それに逆らえる者はいないし、逆らうことはよけいに「苦」をますだけのこと。まずこの事実を確認するところからはじめよう としている。
二つの「あの世」(極楽と地獄)に対する信仰はインドから中国、そして日本へきて独特の進化をとげることになる。
それを象徴するのが、
「阿弥陀如来」
「地蔵菩薩」
という二つの大キャラクター。
阿弥陀如来はもともと「アミターバ(アミターユス)」という名の「あの世」の神で、インドではめだたない存在たったが、中国で爆発的な人気を得ることになる。阿弥陀如来は極楽浄土という「あの世」にいて、人はかれに祈願すれば極楽往生をとげ、死後の平安を保証される。
神々に懇願し、祈れば死んだあとに平安な世界にゆけるなどという話は、根も葉もない作り話にすぎない。というブッダの言葉、教えは完全になくなってしまった。
地蔵菩薩は昔から「お地蔵さん」と呼ばれ、われわれにはなじみ深い。前身は「クサティガルバ」というインドの大地の神で、「菩薩」とは悟りをめざす者を言う。
浄土仏教では「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える。「南無」とは「帰依する」という意味で、この六文字で「わたしは阿弥陀如来に帰依します」という信仰の表明になる。念仏を唱えればどんな悪人であろうが極楽往生を阿弥陀如来が保証してくださるとされ、この聖なる保証、約束を「本願」と言う。