安堂信也のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
<翻訳文学試食会>課題本のために読みました。ページを開いて戯曲だと知りました。私は戯曲は苦手なので自分では手に取らなかった本ですが、なんだこりゃ、なんか無茶苦茶で面白かった。
しかし演劇で見るには不気味そうで苦手かもしれない(-_-;)
読むのは自分でペースを決められるので、戯曲だけど読むことで楽しんだってことで。
『禿の女歌手』(諏訪正訳)
ロンドンに住むスミス夫妻は、マンチェスターに住むマーチン夫妻を食事に招いていた。スミス家には女中のメアリがいる。消防署長も来る。彼らの間でナンセンス会話が繰り広げられる。
開幕場面はスミス夫妻の家なのだが「私たち英国に住んで英国のサラダを食べて英国のお水を飲んで」と始める。マーチン夫妻は二人で登場すると「どこかでお会いしましたか」「まあ、私もそう思いましたわ」「わたしは8時のマンチェスター発の列車でロンドンに来ました」「まあ、私も同じ列車ですわ」「わたしは◯番地の◯マンション◯号室に住んでいます」「まあ、私も同じマンションに住んでいますわ」「ではあなたはわたしの妻ですね」「まあ、ではあなたは私の夫ですわね」という会話を始める。
その間、時計の音は9回→12回、まではいいけれど「10回鳴ってから、3回鳴る」とか「22回鳴る」とかなんか無茶苦茶笑
そこへ誰が鳴らしたのか分からない玄関ベルが鳴って、押したんだか押してないんだか分からない消防署長がいる。
そこへ女中のメアリが「詩を朗読させて」と乱入する。
それぞれが勝手に喋り、時計やベルは勝手に鳴り、人物の言葉がただの音になっていく。演劇で脈絡のない言葉のやりとりっていうと「言葉遊び」かと思うとそれですらない、ただただ脈絡がない。題名の『禿の女歌手』というのもただの脈絡のない言葉だけ。それも脚本では「金髪の女歌手」だったのを練習で俳優が間違えて言ったのをそのまま採用したらしい。
なんか無茶苦茶でむしろ面白くなってきた・笑
私は、もしこれを劇場で見たら面白くなかったと思う。脚本を読むのは自分のペースなので楽しんだけど、演じるのは演者のペースなのでついていけなかっただろうなあ。
『授業』(安堂信也・木村光一共訳)
これまた無茶苦茶笑な・笑。言葉は無茶苦茶だが、物語としての粗筋は通っている、のか?
自宅で個人授業を行う老教授の元に女学生が新しい生徒として訪ねてくる。女学生は明るく「すべての博士号を取ります☆」と将来への希望に満ちている。老教授は陰鬱な感じで声も小さい。この個人授業が「1+1は?」「2です」「2+1は?」「3です」「素晴らしい、足し算は完璧だな。では4ー1は?」「…えっと、5?」のような感じで読んでいてちょっと悪乗りし過ぎじゃないか?と思った(-_-;) 女学生はあらゆる足し算を丸暗記している!ってことらしいので、理論なき暗記と暴力的理論を揶揄してるんですかね。
そして教授が言語学に進もうとすると中年家政婦が乱入して「教授!言語学は教えちゃいけません!あれは災いのもとです!」などと言ってくる。言語学が始まると教授は女学生に意味のない言葉を投げつけ意味のわからない理論で支配して、女学生は精神的に萎縮して肉体的苦痛を訴えるように。そしてついに…。
…ええ?これ終幕後も続ける気なの?全くもって正気じゃないな・笑
『椅子』(安堂信也訳)
舞台は老夫婦の家。複数の扉が見えて、多くの椅子が置かれている。どうやら老人がこれまでの自分の人生を語るために弁士を呼び多くの客に招待状を送った、ということらしい。
ベルが鳴り客がやってくるが、客役の俳優いなくて老夫婦がそれぞれ「相手をしている」という一人芝居で表現する。玄関ベルが鳴るたびに老夫婦はあちらこちらのドアを開け、椅子を運び、客の相手をする。次第にそれが目まぐるしくなっていく。
これは舞台で見ても面白そう!
最後に現実の俳優でもある「弁士」がやってくる。老夫婦は「あとは任せましたー」と飛び降りて退場する。しかし弁士は言葉を発せず、状況もわかっていないようで、身振りとうめき声で終幕する。
『犀』(加藤新吉訳)
町角に人々がいる。その中に洒落者のジャンとだらしない格好のベランジェがいる。突然犀が走り去っていく。町なかに犀!?そしてまた一頭。人々は「最初の犀と次のは同じか?」「アジア犀は角が一本でアフリカ犀は角が二本だ、いや逆だったか」「もしかしたら二本あった角の一本が折れたのかもしれないじゃないか」という議論ばっかり。ベランジュは、片思いの相手で同じ職場のデイジィを見かけて慌てて隠れる。こんなだらしない格好を見られたくないのだ。
しかしその後は町の人間が次々と犀に変わっていく。いままで人間としての現実の生活を最優先にしていた人々も人間を辞めて犀になっていく。洒落者のジャンも、ベランジュの上司たちも犀に変わる。そんななかでデイジィとベランジュだけが残り、高嶺の花だった彼女愛を誓う。…しかし街中の犀の鳴き声や物音にデイジィも「やっぱりみんなと同じように犀になったほうが良いかしら」と、史上最短の夫婦別離となった。たった一人の人間となったベランジュは部屋から犀の群れを見下ろして「自分は負けない、最後まで人間でいるぞ!」と叫ぶのだった。
ベランジュは前半では「きみは考えてないんだから存在してないよ。考えろよ」なんて言われていた。犀を見ても他の人達は「角は何本だ?なんの種類の犀だ?」ち議論を和しているけれど、ベランジュだけは「なんかいけ好かないんだよなあ」っていう。その彼が最後まで「人間であり続ける、戦う」と言っている。犀になることは集団に流されて「個人」から「集団の一人」になるってこと?残ったのがだらしなく理論より感覚のベランジュだった。
『アルマ即興』(大久保輝臣訳)
劇作家のイヨネスコが新作を書いている。そこへ古代の服装をした学者バルトロメウス①がやってきて「進捗はどうだね?」とか聞く。そこへバルトロメウス②とバルトロメウス③もやってきて、三人で演劇論を戦わせたり、イヨネスコに「きみ、演劇とはなにか分かっているのか?」などとふっかけたりする。イヨネスコが「シェイクスピアは詩的で…」とかいうと「なんだって!?きみは何も分かっていない!正しい道を教えてやろう!!」と詰め寄って、自分たちの「演劇論」に当てはめさせようとする。
イヨネスコ自身の「演劇を議論で型にはめるんじゃねえ!」という皮肉でしょうか?
『歩行訓練 バレーへの着想』(末木利文訳)
どうやら舞踊振付らしい。人々の動きの説明のようなもの。演劇とか舞踊やる人たちならこのような形式をなんというか分かるのかな。
若い男が出てきて、倒れる。麻痺患者の看護婦(この時代なのでそのまま「看護婦」と書きます)はこの麻痺の若者に動きの再教育をしていくなかで、力を得て軽やかに踊りだす。やがて若い男も踊りだす。若い男は踊りながら階段を昇って、消える。
飛びたかったの?飛翔して消えた? -
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今も色褪せない差別論の古典。差別は加差別側が生み出す。加差別と被差別の双方の人間を精緻に描出している。最後の社会主義革命によるユダヤ人問題解決の十分性への言及が唐突で、実効性に疑問が残るがそれ以外はどのくだりも傾聴に値する。
・反ユダヤ主義者は恐怖にとらわれ、それもユダヤ人に対してではなく、自分自身に対して、自覚に対して、自分の自由に対して、自分の本能に対して、自分の責任に対して、変化に対して、社会に対して、世界に対して、恐怖を抱いているのである。しかもかれは殺すときには群衆に紛れて、集団的処刑に加わるに過ぎない。
・反ユダヤ主義者は、ユダヤ人がユダヤ人であることを非難するのだが、民主主義者はユダヤ人が、自分をユダヤ人と考えることを非難しがちなのである。
・ところが家庭では、ユダヤ人であることに誇りを持てと言われる。恥辱と苦悩と傲慢の間をさまよう他はない。
・ユダヤ人の野心が根本的に、安全性への欲求だからである。
・人種という観念そのものが、不平等の観念を含んでいる以上、その観念の機構の深い部分には、既に価値判断が含まれているのではあるまいか。
・ユダヤ人がなによりもその所有形態(金銭)を好むのは、それが普遍的だからである。
・形而上的不安が、今日、ユダヤ人や労働者には、許されていない贅沢品であると言いたい。世界における人間の位置とその運命について、反省しうるためには、自分の権利を確信し、世界に深く根を下ろしていなければならない。
・ユダヤ人の関心の普通の対象は、まだ、世界における人間の位置ではなく、社会における彼の位置なのである。
・ユダヤ人の性格が反ユダヤ主義を引き越しているのではなく、反対に反ユダヤ主義者がユダヤ人を作りあげたのだ。
・宣伝や教育や法的禁止によって、反ユダヤ主義者の自由に呼びかけるだけでは不充分であろう。他の人間同様、彼もまた状況の中における自由体なのであるから、完全に改革しなければならないのはその状況なのである。 -
Posted by ブクログ
フランスの哲学者、サルトルの反ユダヤに対する徹底的な批判。
哲学的な概念を使って記述している部分もあるので、やや難解に思えるところもあるが、論理は実に明快で、認識をベースにした物理学あるいは数学の証明を読んでいるよう。
「ユダヤ人」とか「ユダヤ人的」という見方を作り出したのは私たちであり、集団内の分断を回避するために、敢えて「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」というカテゴリを作り出し、ユダヤ人を敵とみなすことで団結を図っている。
そして明らかな敵、明らかな悪を設定することで、自らが自らの「善」を積極的に探求することをしないでいられる。
とにかく痛烈。そして、私たちがなんとなく感じている違和感をきちんと言葉に変え、言葉で伝えるサルトルの能力に舌を巻く。すごい。
要するに私たちは、自分が楽をするために、ありもしない敵を作り出し、それを攻撃することで様々な認知的な負荷を解消しようとする。
人間の仕組み上どうしようもない部分でもあり、安全な社会を構築する上での大きな欠点でもある。
これはユダヤ人差別にかかわらず、すべての差別や偏見に当てはまる。
私自身の考え方も、サルトルの指摘に心当たりがある部分があり、恥ずかしくなった。
一方で、これを読んだからと言って、いまの様々な問題がどうとかこうとか言うつもりはない。
ただ、みなも是非これを読んで、私のように恥ずかしくなって欲しい。 -
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ジャン=ポール・サルトルの「ユダヤ人」問題論。欧米社会に根強いユダヤ人差別問題を真正面から捉えた論文である。
「ユダヤ人」という存在について、社会における反ユダヤ主義の構造・心理・思わくなどをベースに分析するとともに、それに対するユダヤ人自身の受け入れの在り方をも考察し、その差別の本質をサルトル的な皮肉を交えた文学的表現にて説明、「ユダヤ人」問題は非ユダヤ人自身の問題であり、われわれ自身の自由の問題でもあるとして、解決の道筋をサルトルならではのアンガージュマンの見地(社会主義革命、連盟結成など)にて指し示す。
率直に言って「ユダヤ人」については日本ではそれほど馴染みのある話ではないと思われるが、差別行為に対する分析は「ユダヤ人」を例えば、いじめや同和問題などといった話に置き換えてもよく、人間社会における負のあり様を鋭く突き付ける内容であると感じた。 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
世界中の人びとがユダヤ人に対して抱いている偏見は、実に古くかつ根強い。
サルトルは、まったく新しい観点から、数々の具体的事実をあげて、この根深い偏見の源をつきとめ、ユダヤ人問題の本質をはじめて明らかにした。
たんにユダヤ人問題のみならず、今日の人種問題に対して正しい解決の方途を示唆した画期的な書。
[ 目次 ]
1 なぜユダヤ人を嫌うのか(ユダヤ人を嫌うのは自由だろうか;嫌う理由があるのだろうか ほか)
2 ユダヤ人と「民主主義」(抽象的民主主義の弱味;抽象的人間と具体的ユダヤ人 ほか)
3 ユダヤ人とはなにか(人間の違いは、その状況と選択による;ユダヤ人の状況、人種、宗教、国家、歴史 ほか)
4 ユダヤ人問題はわれわれの問題だ(真の敵は反ユダヤ主義者;われわれの目標は具体的な自由主義 ほか)
[ POP ]
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☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
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読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
ユダヤ共同体は、国家的でも、国際的でも、宗教的でも、人種的でも、政治的でもない。それは、一つの半ば歴史的な共同体なのである。ユダヤ人をユダヤ人たらしめているものは、その具体的な状況であり、彼を他のユダヤ人達と結びつけているのは、状況の一致なのである。
・・・・・・『ユダヤ人』180頁
反ユダヤ主義、日本では馴染みのない問題かもしれないが、世界中に蔓延り、確実に存在している問題。ユダヤ人というものがいかに造られ、利用されてきたのか。その現実とその原因を知るためにとても役立つと思う。
理性的で批判的な態度は、ユダヤ人の特徴とされているらしい。だが、これも、非理性的な反ユダヤ主義者によって造られた性格といっていい。
彼が相手と推論し、論争するのも、出発点において精神の一致を得るためである。彼は、すべての論争以前に、出発点となる原則について意見の一致を見ることを希望する。・・・・・・人が非難するあの絶え間ない批判行為も実は理性の中で、相手と共感しようという素朴な愛と、人間関係では、暴力は全く無用であるという、更に素朴な信仰とを求めているのである。
・・・・・・『ユダヤ人』143頁
非理性的な人間は、理性的な論争を嫌う。それでも、理性的な人間は、理性的な解決を望む。理性的な人間と非理性的な人間との食い違いは、何もユダヤ人問題に限ったことではない。より身近で、いつでも、いつまでもある問題だ。
何故、理性的な人間がより理性的になろうとするか。
その原因を私はこう想像する。
非理性的な人間によって、非理性的な迫害、理不尽な中傷を浴びせられ生きてきた人間は、理性的にならざるを得ない。理性的に自己の正しさを確立しなければ生きていけないのだ。もしそれができなければ、全てを諦めるしかない。
無知と無理解と無思慮が、人を貶めるのだ。
著者サルトルは、これはわれわれの問題だと言っている。
彼にとってはフランスの問題であり、我々にとっては我々の問題なのだ。黒人作家のリチャード・ライトの言葉、「合衆国には、黒人問題など存在しない。あるのは白人問題だ」本書でも引用されている(187頁)この言葉を使うなら、「ユダヤ人問題は存在しない。あるのは反ユダヤ主義問題だ」ということになるだろう。
非理性的で利己的な人間が齎す過ちを、見つめ直さなければならない。