長谷川修一のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
歴史研究はパズルのピースを合わせていくようなものだ。多少の違和感がありながらも、ピースが収まれば、それが通説(教科書に載る歴史)になっていく。聖書にある出来事が事実か否かを探る内容だが、誰もが『歴史』として学んだモーセの出エジプトもいずれ真実としては変わっていくのだろうか。
調査技術が進歩して、年代の特定精度が高まっていく中、今後も新たな歴史として作られていくのだろうか。否、歴史は歴史、過去は変わらないはずだ。
わからない未来への恐怖は拭えないが、判りすぎる過去も自分はあまり望まない。当時に生きた人々に取って真実は一つ。無かった、という事実も一つの答え。真実を知りたい!という、燃え盛る探究心が -
Posted by ブクログ
聖書はそれが史実であるかはともかく、その時代に書かれ人々に共感された事実に価値と面白さがある。
私の日頃の思いもまさにこれである。
この観点を踏まえて考古学と照らし合わせるのが本書のやり方で、聖書を暴くことは意図されていない。
発掘資料から推察されるイスラエル近辺の歴史と聖書の記述に相違があれば、ではなぜそれが書かれたのか、人々の心を打ったのかを追究する。
ただいくら考えても世界中に論者がおり、決定的な発見がない限り真相は闇の中である。
というわけで、これを読んでも何も答えは出ないのだが、単純に紀元前の歴史を追うのが面白かったし、照らし合わせで嵌る深みからは浪漫が溢れかえる。
聖書に出て -
Posted by ブクログ
宗教・信仰という、ある意味最も強固なバイアスから決して逃れられない領域での展開を宿命付けられた「聖書考古学」。宗教的・学問的に"中立である"ということが、これほど困難な分野もないだろう。さらに、イスラエル・パレスチナという複雑な政治情勢の特性上、遺跡の発掘が制約を受ける状況下では、聖書の記述の真偽それ自体を議論することは不可能なばかりか不毛でもある。
本書はそれよりも、聖書に描かれた伝承が「なぜそこに記されなければならなかったのか」に焦点を据え、主にローマ統治時代以前のユダヤ人の歴史を、「聖書」と「遺跡」を縦横の糸として解説してゆく。少々駆け足が過ぎる気もするが、我々日本人 -
Posted by ブクログ
新聞に書評があったので、購入。
ユダヤ教やキリスト教についての本を僅かばかり齧ったが、ある本は一神教はモーゼの発明とあり、別の本はモーゼの実在性に疑問を呈していた。
よく判らない聖書について、何か教えてもらえればと思い読み始める。
考古学の立場で、はっきりした証拠がない限り断定は避けている。出エジプトはエジプト側に資料がないそうである。文献記録のほとんど残されない時代かもしれないが、これも仮説の域を出ないと書かれる。
この後のカナンの征服期では山地に住んでいたユダヤ人と平野部に住んでいたカナン人は民族的にも言語的にもかなり近い民族であったらしいと記される。ユダヤ人が自らをユダヤ人と自己規定