伊達聖伸のレビュー一覧
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2025年8月2日に東京大学で開催されたシンポジウム「戦後50年+30年としての現在から、世界に言葉を与える」での報告と討議を記録したもの。当日は会場で参加していたが、高橋氏・三牧氏の報告に対して、そのときは何を言いたいのかよくわからなかった須藤氏の報告が活字になって、やっと少し内容を理解できた気がする。
日本社会にとっての「ポスト冷戦」の論壇の画期の一つとなった加藤典洋と高橋哲哉による論争をめぐって、「ポスト冷戦」の終焉を強く意識させられる現在から改めて振り返ろうというコンセプトのイベントだったが、(そこにつながる萌芽はいくつか感じられたものの)1995年の論争で結局は何が問われたのかを掘り下げる時間にはならなかった。おそらくそれは、司会の伊達聖伸の力不足(勉強不足?)によるものだろう。加藤の議論が「ポスト冷戦」期の日本に突きつけられていた戦後補償裁判に冷水をかけるものだったという高橋氏の指摘は成るほどと思ったが、高橋氏が加藤を「ネオ・ナショナリスト」と意味づけてしまったことで、議論の土俵がどう変わってしまったか、そのことでどんな論点が見えなくなってしまったかは改めて検証されるべきと思う。
加藤の議論は「歴史修正主義」でも、「新しいナショナリズム」でもなかった。むしろ彼の議論は「戦後民主主義」主流の国民共同体のイメージを更新するものだった。だから日本社会の右傾化・軍事化の中で、政治的な立ち位置として相対的に左、リベラルの側に見えるようになった、ということなのだろう。彼の議論には「ポストコロニアル」という観点はない。1995年の加藤の議論は、その意味で政治的な議論の場の選択肢を狭めることに貢献したわけだ。 -
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岩波ブックレットNo.1119
バランスをとる時間
というわけで最近めっきりネトウヨと化したひまわりめろんさんですが、左派系の論説もきちんと押さえておきたい
両方の意見にバランスよく向き合うことで、健全な意見形成ができると思うんです
そして本書は2025年8月に行われたシンポジウムを書籍化したもの
内容は戦後の思想家である加藤典洋さんの代表作『敗戦後論(1997年)』とそれにまつわる論争をあらためて「戦後80年」に振り返るというもの
まぁ、『敗戦後論』(右派からも左派からもボコボコにされた)に興味のある方はそれぞれに読んでみればいい
ここではあえてこの問題に触れたい
「いや、いつまで戦後やねん!( ゚д゚ )クワッ!!」
うーん、いや節目節目でっていうのなら分かるんだけど、日本てずーっと「戦後」なんよね
いついかなる時も「戦後」
80年もこんなこと言い続けてんのは日本くらいなんよな
それはやっぱり共通認識として総括してないじゃん!ってのがあるんだと思う
終わらしてないじゃん!っていうね
まぁその総括の形については様々な意見があると思う 謝罪や補償を重視する考え方もあれば、すでに一定の区切りはついていると考える人もいる
問題は「もういいんじゃね?だいぶやったやん」て人と「ぜんぜん足りてないわ!」って人、「いや被害者の人が納得するまで終わりません」って人、さらには「被害者なんていなかった」みたいなことを言い出す人までいて、それは色んな意見の人がいていいんだけど、国としてきちんとした意見がまとまってないことだと思うんよな
決して忘れてはいけないことだとは思うし、二度と戦争なんてしちゃいかん!とも思う
ただ、そのために必要なのは「戦後」を終わらせないことではなく、過去を踏まえたうえで未来志向の平和を築いていくことなんやと思うんよな〜 -
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2章まではかなりよい.ヴォルテールなどを含む歴史的な宗教に関する論争,現代フランスの宗教問題が手際よくまとまっている.その箇所は現代フランスに興味がある方だけでなく,政治哲学や社会科学徒にも.
ただ,3章は,扱う立場がフランスにおいてどれほど影響力のある立場かをはっきりさせてから話を進めないせいでわかりにくい.また一応客観的にいろいろな立場を語ろうと努力しているが,おそらく筆者の立場であるライシテ擁護派からの視点が見え隠れしていて,冷静な分析になっていないように感じられた.まず各々の立場の位置づけをはっきりさせ,その後筆者自身の評価をはっきりと打ち出した方が見通しがよかっただろう.最後に終章のカナダの事例はもっと詳しく知りたかった.わかりにくい3章のところで,比較としてカナダの話をした方がよかったのでは? -
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ライシテ(laïcité)とはフランス独特の世俗主義(俗権主義)・政教分離の原則・政策のことらしい。ローマカトリック教会が国教会だった大革命前の時代からフランスの宗教政策は大きく変貌してきている。プロテスタント迫害のカラス事件(1761年)、ユダヤ人迫害のドレフュス事件(1894年)、そして現代ではムスリムとの間で(迫害ではなく!)発生しているスカーフ着用禁止事件はフランスがライシテをルールとして確立してきたことから逆に摩擦を呼んでいる!カラス事件に対してはヴォルテールが、ドレフュス事件に対してはゾラが弁護に立ち上がったという。これらの歴史を経て、ライシテを確立してきたフランスがそれゆえに、イスラムから目の敵にされているように感じるのは気の毒。ライシテ大国・日本はイスラムが身近になってきた場合には他所事ではなくなるように思う。ヴォルテールの言葉「謙遜と平和のうちに生き、侮辱の赦しを説いた申請にして甘美な宗教は、我々の欲望と熱狂によって、あらゆる宗教のなかで最も不寛容で野蛮な宗教になった」とキリスト教を批判している言葉は皮肉で重い警告だ。サルトルのユダヤ人定義の言葉がこれまた皮肉で、含蓄深い。「ユダヤ人とは。他の人々がユダヤ人と考えている人間である。これが単純な真理であり、ここから出発すべき。反ユダヤ主義者が、ユダヤ人を作るのである。…一口に言えば、近代国家のうちに、完全に同化され得るにも関わらず、国家が同化することを望まない人間として定義される。」クリスマスの飾り付けがライシテ違反として裁判になるフランスに対し、クリスマスは勿論のこと神道・仏教的な行事が慣習として抵抗なく受け入れられる日本とは何なのだ!と思う。最後に引用している憲法学者・宮沢俊義氏の指摘の通りである。今まさに日本の現状を示している。「日本国憲法は徹底したライシテを採用した。…思想の自由や宗教の価値に対する強い信頼がなければ、そのライシテの基礎は極めて弱い」