著者は言う;
「偶然にも私は、崩壊間際のソ連を体験した、恐らく最後の日本人のひとりとなったのだ。」
それなら、私は、
「偶然にも、崩壊直後のソ連を体験した、恐らく最初の日本人のひとりとなったのだ。」
と言える。
1991年8月のソ連邦崩壊のクーデター。
その時、自分は、いよいよ9月からのレニングラード入りに向けて、荷物の発送も終えスタンバッテいた時だった。なにもかもが懐かしい感じがする。
当時(1991年)、メディアの企画でゴルバチョフ時代のソ連を体験した少女(当時11歳)が、改めて2016年11月にロシアを訪問するレポルタージュだ。現在と過去(25年以上前)の想い出との対比を点景に、第二次世界大戦中のナチによる市街包囲戦の史実と、その時代を生きたショスタコービッチの生き様を、レニングラードという街を舞台に描いている。
著者にとっての2度目のロシア訪問。出発した日はアメリカ大統領選の投票日。誰が当選するかで為替相場の乱高下が予想される。
「私はヒラリーに賭けて、空港の両替所で円をドルに替えた。両替所の記入用紙は、さながら投票用紙である。私のアメリカ大統領選は、成田空港の片隅の両替所で行われたのだ。」
訪問先でも何かが起こりそうな、そこはかとなくドラマチックな書き出しにワクワクさせられる。
ナチによるレニングラード包囲戦がレポのひとつの主題。このエピソードは当時レニングラードに暮らした時には、とんと耳にした覚えがなかった。もちろん自分がまだまだロシアに造詣深くなく、また当時は辛い歴史を振り返っていられぬほど国として混乱し人々の生活が疲弊していた時期だったのだと思う。
”命の道” (Дорога жизни)。 史実を後世に伝える為に開催されている、その道(の一部)を使ったマラソン大会が開かれていて、2013年1月には実際にその道を走ってみた。そんな自分の想い出とも重なる、この道にまつわるエピソードは、改めてズシリとした重みを以って心に響いてくる。
900日間の包囲、100万人以上とも言われる市民・軍人の死者数。東京大空襲、広島・長崎を足してもまだ及ばない数の犠牲者だという。
そんな時代から、ソ連邦崩壊まで、この街、この国に起こった出来事を、平易な目線と、著者自身が知る当時のソ連と今のロシアを見比べながら描く。
もうひとつの軸が、ドミートリイ・ショスタコーヴィチだ。包囲網の中、レニングラードで作曲に着手した交響曲第7番、『レニングラード交響曲』が生まれる背景と、彼が辿った浮き沈みの人生を俯瞰し、この国の右へ左の揺れ動きの大きさを、読者もかの地で体感できるかのような、肌感覚での描写で綴る。
「ショスタコービッチ記念第235番中学校内 民間博物館」に付随する「女神(ミューズ)は黙らなかった」という言葉の意味、ロシア人なら誰もが知る女流詩人オリガ・ベルゴリッツの言葉「誰一人忘れまい、何1つ忘れまい」、ガガーリンの逸話に禁酒法時代の密造酒の作り方 etc.,etc.・・・。
時代は前後するが、全てのあの国で、あの時代、ソ連時代に起きた様々な出来事が、玉石混交で次々と語られてゆく。
まとまりないと言えばまとまりないのだが、あの街で暮し、あの時代を知る者にとっては、様々な想い出とリンクして、あとからあとからと、当時の風景が思い出されるようで、非常に懐かしいのだ。
著者は、
「たった数日の滞在でなにが分かるかと言われてしまいそうだが、私のなかのソビエト連邦はこれでようやく「成仏」させてあげらた気がしている。」
と、今回の訪問で、ひと区切りつけたようだ。
さて、自分は? ソ連からロシアへの移行も現地で体験し、その後もロシアにところどころで携わる。ソ連とロシア、別ものとして考えたことも、そういえばあまりなかったなと思った。自分のなかでは、地続きなイメージなんだろうか。 いつの日か、振り返って考えてみよう。