【感想】
今では知らない人はいないレベルの大企業と化した「リクルート」。
この会社のツールを使用したことがない人間なんて、中学生以下の児童を除けば日本に殆どいないのではないか?
そう言い切れるくらい、ロングテールで充実したサービスを今もなお展開し、進化し続けている企業の1つ。
その創業者である「江副
...続きを読む浩正」の出生から死没に至るまでの経緯を描いた長編。
江副浩正が書いた名作「リクルートのDNA」。
そこに書かれていた江副の人物像として、謙虚な姿勢ゆえ、凡庸な人間かのように思っていたが、決してそうではない。
常に世の流れを観察し、不満やニーズを模索した上でそれを解消するサービスを展開する。
当時ニッチな教科を選択して東大合格を果たしたあたりからも、その敏感な感覚と先見の明は、やはりあの「リクルート」を創設した江副ならではの偉大さを感じた。
また本著は決して順風満帆ではない江副の生涯についても触れられている。
コンプレックスに満ちた幼少期。
挑戦と苦悩に満ちたリクルート創成期。
時代と共に拡大し続けた成長期、そしてそれと共に変容していく江副の内部。
リクルート事件とその闘争。
そして、、、意外に世間には知られていない、穢れたといっていいような江副の晩年まで。
大河ドラマのようなボリュームのある江副の一生に、つい読んでいてのめり込んでしまった。
決して幸福とはいえない生涯だったのかもしれないが、没後にも尚成長を続ける「リクルート」を日々目にすると、それだけでも彼は本当に偉業を成し遂げたんだろうと心から思う。
同時に、日本の閉塞性が彼を狂わせてしまったのだろうとも・・・
本当に読み応えのある、素晴らしい1冊でした。
【内容まとめ】
0.江副の残した功績
①情報誌を創り出したこと
②成長する企業の思想と仕組みを作ったこと
中でも1番の功績は、経営者が変わっても発展し続ける企業を創ったことだ。
偉大な創業者が退いた後も発展を続ける企業は意外に多くない。
「優秀な人材を採用し、その能力を全開させること。」
リクルートの根幹にこの思想を植え付け、浸透させた。
1.リクルートはかもめだ。
この会社は若者が学校を出て、社会に一歩足を踏み出す時に必要な会社だ。
この会社は若い。社員も、社長も若い。
すべてが真っ白な状態のかもめだ。
事業という青空を舞い上がり、滑走し、飛翔するのだ。
その領域はどこまでも広い。どこまでも自由だ。
2.内田クレペリン検査
「もっと応募者の適性が見抜ける検査がないだろうか?」
これは企業からのニーズでもあり、江副の学生時代からの野望でもあった。
3.経営とは実践である
「わからないことはお客様に聞け」「取引先こそ最大の教師」
素人になること、相手に学ぶ態度こそが、機会をさらに拡大する。
謙虚に得意先の声に耳を澄ませば、きっと機会は訪れる!
4.リクルートの経営三原則
①社会への貢献
②商業的合理性の追求
③個人の尊重
5.人が成長できるか否かは、自己管理できるか否かにかかって大きい。
人は恵まれていない、チャンスに恵まれていないと思いがちである。
だが、自らの業績は上司の指示によるものではないし、チャンスもまた自ら掴むべきものである。
業績への機会はすべての人に平等である。
達成への能力は、上司に育ててもらうのではなく、自らの努力、つまり読書やお客様・周囲の人から聞く話などによって自らを育てていくものである。
6.ほとんど心を通わせる事なく過ごした親子だったが、父の最後の数日を共にできたことに江副は感謝した。
幾つになっても父は父だったので、葉隠の精神を説く父が生きている間、江副は自らの思いを封印して生きてきた。
やっと父の束縛が解け、江副は変容していった。
投機性の高い株式投資の世界に傾斜していった。同時に江副の中から少しずつ謙虚さが薄れていくのを、旧知の人たちは見過ごさなかった。
7.「江副2号」
不動産やノンバンク事業に傾斜し、ニューメディア事業で疾走する江副のなりふり構わないワンマンぶりに対し、社内では密かに「江副二号」と言い交わされ始めていた。
絶対君主のように振る舞う江副に戸惑い、その変容ぶりを嘆くかのようにそう呼んだのである。
変容の契機は、父・良之の死にあったと言えるだろう。
「社会の事を考えず、自らの利益だけを追求してはいけない」
そんな葉隠精神を江副自身が忘れ、言動から少しずつ謙虚さが消えて傲慢さが顔を出し始めた。
8.2001年12月20日、318回続いた裁判はようやく終わった。
主文「被告人を懲役三年に処する。この裁判の確定した日から五年間刑の執行を猶予する。」
9.生母に会い、今治から帰った頃から、江副の認知症は急速に進行した。
秘書やスタッフは江副が初期の認知症に侵されていることにしばらく気付けず、江副に振り回され困惑しながらも、「わがまま社長」と「爽やか江副さん」の二面性に対応するしかない毎日だった。
10.2013年2月8日15時20分
享年76歳で息を引き取った。
「ありがとう、ご苦労さま。また明日も頼みます。それでは。」
これが生涯最後の言葉となった。
【引用】
2013年2月8日15時20分
享年76歳で息を引き取った。
「ありがとう、ご苦労さま。また明日も頼みます。それでは。」
これが生涯最後の言葉となった。
戦時中を佐賀で暮らし、中高を神戸の私立学校 甲南で過ごす。
他の家と比べて貧しい事もあり、お金面で級友たちとの付き合いについていけない事も多く、「おじいちゃん」というあだ名だった。
コンプレックスから勉強も殆どしていなかったが、ニッチな教科であるドイツ語の授業や試験を受けることで東大にストレート合格する。
東大の同じ学部にはそういった点に目をつけて入学した級友も多く、同期では名だたる人物になった人も多い。
p102
・内田クレペリン検査
ドイツのエミール・クレペリンが1920年代に開発し、日本の内田勇三郎が30年代に改良した、戦前から続く適性検査。
一桁の足し算を15分間ずつ二回に分けて行い、1分ごとの計算作業量の変化パターンから人の性格や適性を割り出すといったもの。
「もっと応募者の適性が見抜ける検査がないだろうか?」
これは企業からのニーズでもあり、江副の学生時代からの野望でもあった。
p117
博報堂の森村稔、日立の大沢武志、IBMの位田尚隆と、日本の一流企業の社員を引き抜くことで、リクルートの取締役の陣容は厚くなった。
さらに位田の入社でIBMとのパイプは一層太くなった。
この事がリクルートのコンピュータ化を加速させ、新たな果実を実らせることとなる。
p128
・経営とは実践である
「わからないことはお客様に聞け」
「取引先こそ最大の教師」
素人になること、相手に学ぶ態度こそが、機会をさらに拡大する。
謙虚に得意先の声に耳を澄ませば、きっと機会は訪れる!
p132
・リクルートの経営三原則
1.社会への貢献
2.商業的合理性の追求
3.個人の尊重
p140
・人が成長できるか否かは、自己管理できるか否かにかかって大きい。
人は恵まれていない、チャンスに恵まれていないと思いがちである。
だが、自らの業績は上司の指示によるものではないし、チャンスもまた自ら掴むべきものである。
業績への機会はすべての人に平等である。
達成への能力は、上司に育ててもらうのではなく、自らの努力、つまり読書やお客様・周囲の人から聞く話などによって自らを育てていくものである。
p151
リクルートはかもめだ。
この会社は若者が学校を出て、社会に一歩足を踏み出す時に必要な会社だ。
この会社は若い。社員も、社長も若い。
すべてが真っ白な状態のかもめだ。
事業という青空を舞い上がり、滑走し、飛翔するのだ。
その領域はどこまでも広い。どこまでも自由だ。
p160
甲南の同級生、合田の言葉
経営は経常利益を生み出すだけではダメなんだ。資産運用で内部留保を高めていくことが必要さ。
だけど、株は安全とは言えない。特に江副のやり方ではね。
対して土地の運用は絶対の安全だ。
p186
1970年
レジャー事業?
「日本株式会社の人事部」を目指すリクルートが、レジャー事業を手掛ける?
突然の事業多様化の提案に、取締役たちは戸惑った。
「レジャーは福利厚生課の担当であり、それならリクルートが取り組んでもおかしくない。故郷を持たないリクルート社員に、土に触る喜びや大地で眠る幸せを教えたい。毎日深夜まで働く彼らに、帰って行くところを用意したいんだ。」
志布志プロジェクト
→農耕と牧畜、農産物は原価で社内販売。
→自然の中でファーム研修
→敷地面積に限界があった為、88年に土地を地元に譲渡し、撤収。
安比総合開発
デザイナーの亀倉が主導。
欧州のような広大で設備の整ったスキー場を目指す。
無料の駐車場やペンションの販売で収益回収。
東北新幹線や東北自動車道の開通で首都圏からのスキー客の大量動員に成功。
p229
ほとんど心を通わせる事なく過ごした親子だったが、父の最後の数日を共にできたことに江副は感謝した。
幾つになっても父は父だったので、葉隠の精神を説く父が生きている間、江副は自らの思いを封印して生きてきた。
やっと父の束縛が解け、江副は変容していった。
投機性の高い株式投資の世界に傾斜していった。同時に江副の中から少しずつ謙虚さが薄れていくのを、旧知の人たちは見過ごさなかった。
p274
1983年。リクルートは初めて売上一千億円を達成。しかし江副はその感激に酔い創業以来23年の月日を振り返るのではなく、いかにして次は1兆円を目指すかに思いを巡らせていた。
不動産とノンバンクは今後も花を開くが、問題はリクルート本体だ。今の紙媒体ではきっと限界がくる。
体力があるうちに将来の可能性に向けて、何らかの手を打たなければならない。
ただ、未来マーケティングの本を色々読んでみたものの、目指すべき新たな事業のキーワードは見つからない。
「リクルート1兆円の事業基盤はニューメディアだ!」
ニューメディアの旗手になった日本電電・式場。
通信産業への参画を目論むも、稲盛和夫率いる第二電電に阻まれた。
p296
不動産やノンバンク事業に傾斜し、ニューメディア事業で疾走する江副のなりふり構わないワンマンぶりに対し、社内では密かに「江副二号」と言い交わされ始めていた。
絶対君主のように振る舞う江副に戸惑い、その変容ぶりを嘆くかのようにそう呼んだのである。
変容の契機は、父・良之の死にあったと言えるだろう。
「社会の事を考えず、自らの利益だけを追求してはいけない」
そんな葉隠精神を江副自身が忘れ、言動から少しずつ謙虚さが消えて傲慢さが顔を出し始めた。
p335
逮捕前の宗像が、いかに紳士的な検事だったかをようやく悟る。拘置所で取り調べにあたる検事には、品性も礼儀もなかった。
大声で怒鳴られ、人格を無視する発言を次々に投げつけられた。最初はいらつき、反応していた江副の精神が鈍麻していく。
人としての誇りは剥ぎ取られ、虫けら同然の百二十六番に変容していった。
戦おう。
江副は大学ノートを買い、1日が終わるとその日1日の取り調べの内容をノートに克明に記録し始めた。
「早く出たがらない。絶好の勉強の時と思うこと。悲観したり怒ったりしてもどうもならない。ここにいる間を天賦の休憩と考えること。辛い環境は自分で克服しなければならない。今が良い環境なのだと思う勇気を持つこと。」
悔しさは怒りの熱量となり、怨念は生きる力になった。
どんなに孤独であろうと、したたかに、たくましく生き延びてみせる。
p399
2001年12月20日、318回続いた裁判はようやく終わった。
裁判官は江副に対し、懲役4年の刑を求めた。
主文「被告人を懲役三年に処する。この裁判の確定した日から五年間刑の執行を猶予する。」
弁護士の田中克郎
「世間を騒がせたのだから、無罪にするわけにいかない。しかし実質は、どの部分が犯罪なのだろうというような内容。」
しかし、67歳をすぎた江副は、これ以上「私戦」を続けるにはさすがに老い過ぎていた。
p422
2006年1月23日、堀江貴文が逮捕される。
江副の逮捕から17年。マスコミ報道が煽り、検察を動かす劇場型事件の図式は一向に変わらない。
かつての自分を見るような既視感にとらわれながら、江副は見つめ続けた。
江副の中に沸々とした怒りが湧いてきた。
検察はいつも若い芽を潰す。そして日本から先取の精神を奪い去る。
結果、日本の発展にどんなに阻害要因になっているかも知らずに。
p448
生母に会い、今治から帰った頃から、江副の認知症は急速に進行した。
秘書やスタッフは江副が初期の認知症に侵されていることにしばらく気付けず、江副に振り回され困惑しながらも、「わがまま社長」と「爽やか江副さん」の二面性に対応するしかない毎日だった。
p465
江副のもう一つの功績は、経営者が変わっても発展し続ける企業を創ったことだ。
偉大な創業者が退いた後も発展を続ける企業は意外に多くない。
「優秀な人材を採用し、その能力を全開させること。」
リクルートの根幹にこの思想を植え付け、浸透させた。
社員に自由にやらせた。
新人に教える人もいなければ、そんな技法も時間もなかったのが実情だ。
失敗しても咎めなかった。ただ、社員には全力であたることだけを求めた。
目標は常に高く設定された。目標達成は当然で、そのスピードを競った。