魯迅は死の直前親交のあった上海内山書店の日本人内山完造氏に「支那4億人の民衆は大きな病気に罹っている。そしてその病原は例の「馬々虎々」(マーマーフーフー)ということだね。あのどうでもよいという不真面目な生活態度であると思う。」と語ったという。
もう一つの見過ごせない言葉は「没法子(メイファーズ)
...続きを読む」(仕方がない)だ。どんなにひどい目にあわされても、ただ「没法子」(仕方がない)としか言えなかった。蹴られても没法子、殴られても没法子、と無抵抗にあきらめきった状態で毎日を過ごしていた。「没法子」はいわゆる「奴隷根性」であり、一種の馬々虎々(いい加減)といえる。では馬々虎々とは「まあまあ」というニュアンスで使われることも多いが本書では専ら「虚偽」「欺瞞」をも含む人間的いい加減さの意としている。
本書は魯迅の一大伝記である。その中で魯迅が一貫して主張し続けるのが中国人の中に見るいい加減な生き方、馬々虎々であった。
時は辛亥革命の中にあったが、もともと魯迅は革命を志す者ではないようだった。仙台医専において見せられた幻灯で、日本軍人が中国人の罪人の首を切り落とす場面を周りの中国人は呆けた顔でその処刑を平気で見ている。何の感情もない。どうでも良い。これこそが中国人の根底に存在する馬々虎々だというのだ。この時の出来事がいわゆる「幻灯事件」であった。これを機に魯迅は医学から文学の道へと転向する。
その後魯迅は「狂人日記」を皮切りに「阿Q正伝」などを発表、中国人の「礼教食人」という欺瞞を成立させたのも馬々虎々という大きな病気だと揶揄している。儒教が忠や孝の美名のもと、人が人の肉を食らうことを礼賛しているというのだ。
なかなかうまくいかない辛亥革命の真っただ中にあったのだが、軍閥の割拠や革命派の分裂などもあって、何度かの蜂起も失敗していた。そんな中1925年孫文が病没。1936年革命を夢見ながら魯迅永眠、享年55。せめてもの救いは戦闘ではなく病没したことである。喘息の発作であったようだ。棺は「民族魂」と刺繍された白い絹旗で覆われたそうだ。日中戦争が始まる9カ月前のことだ。筆者である片山氏は上海で魯迅から直接薫陶を受けたことがあったそうで、それでこれだけ詳細に避難先や講義内容を書き記すことができたのだろうと思った。
できれば予備知識として、最低でも「阿Q正伝」「狂人日記」を読んでおきたい。私はこれから読んでみることにする。