【本書のまとめ】
1 天皇制の維持
占領軍は、軍部と天皇の間に「くさびをうちこむ」ことで、日本帝国の様々な国策から天皇を切り離し、天皇の新しいイメージ(天皇を再び民の手に)を作り出す作業に加担しようとした。終戦間近の状況においては、天皇の無事が日本の無条件降伏に寄与するし、かつ戦後においては、天皇の責任を問わずに、敗戦後の日本で象徴として機能し続けるほうが有用だと判断したからである。
「くさびを打ち込め」「軍部を悪役にしろ」「天皇を平和主義者にして、天皇制民主主義を建設せよ」というキャンペーンは、公然と大々的に行われた。マッカーサーは、天皇の名においておこなわれた戦争について、裕仁が実際に果たした役割を本気で調査する意思は無く、日本側もそれを望んでいなかった。お互いの利害が一致した形になった。
一方、国民の意識レベルでは、連合国が懸念していたこと、すなわち「天皇廃止は国民の紐帯を失わせ酷い混乱を生む」ほどのことは起こらなかった。聖なる戦争が終わると「現人神」への崇拝も同様に終わり、ほとんどの日本人は天皇制の運命については見物人を決め込むようになったのである。
1946年1月1日に公布された天皇の人間宣言は、草案作りに連合軍が関わっていた。大本の狙いは「天皇の神格の否定」であり、日本人および天皇が他国の人間に優越するという意識を無くし、もって民主主義、平和主義、合理主義に徹せる新国家を建設すべく宣言するものであった。人間宣言の内容にこれについては、当初案で目指していたほどの強い神聖の否定はややマイルドな表現になったものの、長ったらしく難しい言い回しと、古風と伝統を想起させ日本人が納得できるような言葉遣いによって、国内外から好意的に受け取られた。
1946年1月19日、SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)によって極東国際軍事法廷が正式に開設されると、戦争責任を取るための天皇の退位に関してさまざまな意見が起こった。
日本国民の意見に対し占領当局の意見はシンプルであり、「天皇を支えることが民主的な日本を建設するうえで絶対的に必要であるため、退位は強いない」というものであり、同時に東條英機に、「開戦前の御前会議において天皇が対米戦争に反対しても、自分は強引に戦争まで持って行く腹を決めていた」との旨を証言させ、法廷で犠牲になることを求めていた。
国民統合の象徴が消えることで日本国民がバラバラになり、共産主義が勃興するのを恐れたうえでの処置である。また、A級戦犯として起訴された戦犯者たちにも、天皇の責任を証言しないように占領当局との口裏合わせが行われていた。
天皇の退位を巡った駆け引きが展開しているなか、保守派エリートはGHQと協働し、天皇を「人間」へと変身させるコマーシャルキャンペーンを打ち出した。地方巡幸である。
1954年8月に終了するまで165日を巡幸に費やし、全行程は3万3000キロに及んだ。天皇の新しいイメージ(民に近い存在)を定着させ、天皇を「民と同じ目線まで降ろす」ことに大成功したのだった。
2 明治憲法改訂
松本委員会で占領軍に示された新憲法は、あまりに保守的で現状維持的であった。マッカーサーの指示で民政局が憲法改正チームに任じられ、GHQ草案が作られ始める。彼らは強烈な目的意識を共有して仕事に取り組んだ。既存の憲法に修正を加えるというよりも打ち壊して一から作り直していった。
占領軍側は、天皇主権からの急激な転換を示すGHQ草案を受け入れることこそが、天皇に反対している人から天皇の「身柄を守る」唯一の方法であると主張している。
新憲法は主権が国民にあることを明文化していたが、それは実際には天皇自身からの贈り物として国民に与えられたのだ。「上からの革命」と「天皇民主主義」は、この儀礼を通じて融合したのである。
新憲法採択で揺れたのは交戦権規定だ。芦田均は「新憲法の解釈」という本の中で、日本の武力放棄は自衛権までも放棄するものではないと語っているが、吉田茂は自衛権までも放棄の対象に入るという見解を述べている。吉田は、占領終結さえすれば、憲法は修正可能であり、ひいてはアメリカの改革全体も見直しができるという考えを有していたが、一度決まってしまったものを変えるのはそうたやすいことではなかった。
新憲法の神髄は「国民の政府と国際平和」。その単純さゆえに、国民の琴線に触れ、すんなりと受け入れる土壌が整っていたのである。
3 新たなタブー
この国に新たにもたらされた自由は、公の表現活動の隅々にいたるまで、検閲官僚組織によって取り締まられていた。検閲は、1945年9月から日本が主権を回復するまで継続的に実施された。
検閲の対象は複雑で多岐に渡る。大まかには、戦勝国の価値観を否定するようなものはNGであった。また、検閲と同時に、日本の様々な侵略行為を国民に教育することを求められていた。そのため、連合国側から見た戦争が「真実」であり、メディアはそれを、不作為によってだけでなく、すべき行為としても積極的に裏書きして見せなければならなかった。
戦死者を悲劇の犠牲者として扱い、戦争の災禍に涙を流すような表現すら不許可の憂き目に合った。それどころか、日本人が占領国との友好的態度を示そうとする表現ですら、ときには過去の軍国主義を彷彿させるという理由で差し止めにあったのだ。
「占領軍」としてのアメリカは存在しないものとして扱わなければならなかった。この取扱い(特に映画撮影)は非常に困難であり、発禁による経済的打撃を逃れるために自主規制を行う者が後を絶たなかった。
次第に、検閲の主たる標的が「軍国主義」「愛国主義」といった右翼思想ではなく、「社会主義」「共産主義」といった左翼思想にシフトしていった。
4 東京裁判
A級戦犯を裁く裁判は基本的に復讐の営みだった。それは法ではなく政治によるジャッジであり、ゲームが終わってからルールを作る行為である。多くの裁判官がこの裁判を「完全な茶番」とみなし、その意義に疑問を呈するものも少なくなかった。
なにより、いんちきなルールで裁くことに反対だった者たちの真の理由は、自国の闘いを指示した者はすべて戦勝国によって戦争犯罪人として訴追されうる、という前例を作ってしまうことにあった。
特に主要判事であるベルナール判事は、この裁判に天皇が不在であることは甚だしく不公平だと述べ、天皇を「違った基準」で測ることは、被告への訴追の阻害と国際司法の意義の喪失を招くと批判し、天皇を守ろうとするマッカーサーとは逆の立場に立った。
「平和への罪は概念として曖昧である」「戦争は国家の行為であり、国際法上で個人的責任はない」「東京憲章の規定は事後法であり、したがって不法である」という様々に真っ当な批判がなされた。
同時に、誰を裁くかについても政治的恣意性が働いていた。裁かれるべきか疑問である官僚が裁かれたのに対し、侵略国の国民を慰安婦として働かせたことや、捕虜を実験台に生物兵器を開発していたことは見逃され、計画に加担していた将校や科学者たちは訴追を免れた。
5 成長と再建
占領から3年も経つと、外国に統治されることに嫌気がさしてきた日本人が多くなってきたのは明らかだった。それにアメリカも、世界各地で起こる冷戦を見越して、「日本の非軍事化と民主化」にある程度の見切りをつけ始めたのだ。
戦犯容疑で逮捕されていた有力者たちの起訴を取り下げ、経済が巨大資本化や中央官僚の手中に戻っていった。同時に、急進的な左翼が「レッドパージ」の対象となった。
世界では連合国が仲間割れしていた。東南アジアの植民地支配を再現しようとするヨーロッパ、東ヨーロッパの弾圧を行うソ連、共産党との闘いにのぞむアメリカ。勝者と敗者の双方があれほど念入りに培ってきた平和という夢は、数年もしないうちに机上の空論に変わっていった。
朝鮮戦争がはじまると、アメリカは日本の経済再生促進に関心を移していく。
とはいっても、アメリカ側と日本政府側の経済復興の認識にはずれがあった。アメリカ側は、日本は復興してもせいぜい二流経済国止まりであり、安物雑貨と労働集約型製品を輸出する軽工業国というイメージを持っていたのに対し、日本政府側は、戦時に伸びた重化学工業を活用し、化学と先進技術に結びついた付加価値の高い産業の創出を目指していた。軍需生産によって培った技術を民需生産に振り分ける戦略である。
そして、朝鮮戦争を皮切りに、世界経済の変化が起こる。貿易パターンが混乱し、外国による戦争受容がさまざまな日本製品の購買を刺激し、猛烈な成長をもたらした。当時の日本は、工業技術能力に余剰のある唯一の工業国だったのだ。
この新興重商主義国にアメリカは、そんなつもりなどほとんどないまま、実に著しい貢献を果たした。占領軍は民主主義を推進する任務をおびていたのに、実際には、「一部に官僚主義を推進する」結果を生み、その官僚主義的遺産は主として経済に残り続けることになったのだ。
6 再軍備と解放、そして経済復興
冷戦が激化すると、アメリカは完全非武装方針を放棄し、日本政府に「警察予備隊」の創設を命じる。
そこにあるのは一つの分裂した国であった。特に政治的考え方に対して、占領が元来目指した「非軍事化と民主化」の理想を追求するべきなのか、パックス・アメリカーナに組み込まれた「小アメリカ」として軍事化を是とするのかに割れていた。
1952年4月28日に日本国の主権は回復されたが、その瞬間の街はとても静かであった。「日本は独立国家になったか」との問いに「はい」と答えた者は41%しかいなかった。
果たして、日本は変わったのだろうか。祐仁とマッカーサーという二人の天皇が目指したのは、全く異なる道筋であった。裕仁はその存在自体が証明するように、戦中戦後において日本人の価値観に変化はなかったと言った。しかし、マッカーサーは、――例え日本を見る目が植民地支配者の感覚であり、12歳の未成人がやっと自分の足で立つまで成長できたという、発展途上国への見下した意識が根底にあったとしても――日本人が遂げた革命的な変貌を賞賛してやまなかったのだ。
その後、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として知られるように、経済大国として一定の地位を獲得する。戦後「日本モデル」の出現は、何が原因として見られるべきだろうか?
1970~80年代には、集団の和、縦型の人間関係、個別特殊主義といった「日本人論」が出ては消えて行ったが、それらの「日本モデル」の特徴とされたものの大部分は、じつは日本とアメリカの交配型モデルであった。
日本を貫いていた特徴は、「日本は脆弱である」という絶え間ない恐怖感と、最大の経済成長を遂げるためには国家の上層部による計画と保護が不可欠だという考えが広く存在したことであった。後に日本モデルと呼ばれ、儒教的価値のレトリックで覆い隠されたものの多くは、実は単に先の戦争が産んだ制度的遺産だったのである。
そこに占領軍が加わり、日本の強力な官僚的権威主義をさらに強力にした。占領軍は到着した瞬間から日本の官僚組織を保護し、行政の合理化を進めて、結果的に官僚の権力をさらに少数者の手に集めた。
何より重要なのは、マッカーサー自身が官僚制度の権化であったことだ。司令部が発する命令は絶対であり、透明性は無く、日本の誰に対しても説明責任を負わず、検閲を堂々と行っていた。民主主義を進めるための占領軍は、日本の復興の過程において、一部分を少数者支配に委ねたのであった。
敗北と占領は日本にダブルスタンダードを残した。憲法9条による「非軍事化と民主主義化」と、「国際的責任の遂行」の狭間で、日本はいまだに揺れ続けている。
【感想】
なんという大著。まとめようとしてもなかなかまとめきれず、歴史を簡単になぞる程度の要約になってしまった。
戦後の日本人と旧軍部に起こった思想の変化と、占領軍が、時に日本人よりも情熱を持って日本の復興にまい進していたことが、緻密に記されている。
特に、88ページから97ページの間に綴られている、渡辺清という復員兵を描いた「ある男の砕かれた神」の部分は必見だ。
天皇の戦争責任が消失したことへの困惑。アメリカを敵として憎んでいた人間が、一夜にしてへりくだった態度に変貌したことへの失望。戦争支持者が米国民主主義支持者へとシフトした移り気への嫌悪感。そして、何から何まで嘘と方便によって塗り替わってしまった社会への厭世の気持ちが、一人の男の日記をもってありありと描かれている。
現代に生きる我々は、「原爆を打ち込んだ敵国に、何故こんなにも素早くかつ従順に従うことができるのだろうか?」という疑問を抱くことがあると思う。渡辺はその感情の代弁者だ。
この部分だけでも十二分に読む価値があると言えるだろう。
そして、226~227ページには、「検閲と思想統制が日本人的態度に影響を与えた」という非常に興味深い考えが記されている。
“この検閲民主主義は、イデオロギーを超越した根深い所に遺産を残した。表向き「表現の自由」をうたう中で実施された秘密検閲システムと思想統制は、(略)政治的・社会的権力に対する集団的諦念の強化、ふつうの人にはことの成り行きを左右することなどできないのだという意識の強化である。征服者は、民主主義について立派な建前を並べながら、その陰で合意形成を躍起になって交錯した。そして、きわめて重要なたくさんの問題について、沈黙と大勢順応こそが望ましい政治的知恵だとはっきり示した。それがあまりにもうまくいったために、アメリカ人が去り、時がすぎてから、そのアメリカ人を含む多くの外国人が、これをきわめて日本的な態度とみなすようになったのである”
当時の占領軍の行動は、民主主義を目指しながら言論を統制するという矛盾に満ちたものであった。これが日本人を象徴する矛盾した態度――建前では同意しながら本音では納得しないこと――のルーツである、と考えるのは、さほど荒唐無稽とは思えない。敗戦と占領は間違いなく、国民の意識と国民性までも変えてしまったのだから。