カール・シュミットのレビュー一覧
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シュミット没後30年を迎えた昨年『 現代議会主義の精神史的状況 他一篇 (岩波文庫) 」』が文庫化されたのは、それが岩波文庫!ということも含めて画期的な出来事だったが、近年とみに高まるシュミットへの関心に比して、晦渋を極めるその諸著作について、専門書はともかく気の利いた一般向け解説書は少ないし、手軽に読める文庫本も限られているのが現状である。その中にあって本書はいち早く(1995年シュミット没後10年にあわせて)文庫化された。シュミットの他の著作に比して、立論はオーソドクスで奇をてらったところが殆どないのがその理由だろう。かつてクラウゼヴィッツが定義した外交の延長としての戦争から、ナポレオン戦争以降、二度の世界大戦を経て戦争の性質が根本的に変容した。一言で言えば「正しい戦争」としての「正戦」の一般化だが、その重大な帰結に警鐘を鳴らすのが本書の狙いである。レトリックとしてならともかく、かつて戦争に正しい戦争も邪悪な戦争もなかった。戦争とはあくまで利害に導かれ、一定のルールのもとに勝敗を決するゲームのようなもので、自ずとある範囲に限定されていた。これに対して近代の「正戦」は思想戦であり、世界観の衝突である。それは敵に打撃を与えるだけでは済まず、徹底的な殲滅戦に至ることも稀ではない。「悪」を正し、戦争を「根絶」するための戦争が、逆説的なことに、いかに凄惨で壊滅的な帰結をもたらすか、ある意味で、9.11以降の袋小路を予見した書と言えるかも知れない。シュミットと言えば鋭利な刃物のような初期の理論的諸著作が注目されがちだが、本書も含め後期の著作には地に足の着いた穏健なものも少なくない。その〈可能性の中心〉を読み解く作業は緒に着いたばかりだ。
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ネタバレ18世紀ドイツにおいては強い枠づけがなされることでの戦争の正規性が発展したため、敵はあくまでも慣習的な敵として深刻さを欠いた遊戯的な戦争であったのに対し、シュミットはナポレオンに対するスペインのゲリラ戦(パルチザン闘争)の非正規性、土着性に着目し、それが古典的な国家間による慣習的な戦争形態を変容させ、新しいラウム(空間)が開かれたとし、それを国家に代わる政治的なものの担い手として期待するのである。『パルチザンの理論』が「政治的なものの概念への中間所見」という副題をとっているのは、『政治的なものの概念』で示した、ヨーロッパ公法下での「慣習的な敵」と「絶対的な敵」という2種類の敵に加え、その間に「現実的な敵」という概念を持ち出すことで、「絶対的な敵」に移行することなく政治的な終焉に抵抗するカテコーンとして、またその「土地的性格」ゆえに敵対関係のエスカレートを回避できるということで肯定的に評価することで『政治的なものの概念』を補足しているからである。ただスペイン・ゲリラ戦争にはパルチザンの理論が、さらにプロイセン解放戦争にはその実践が伴わなかったとしている。20世紀にはいると国家の代わりに世界革命的な政党が主役に躍り出て、そのパルチザン的な闘争を不可避として重要視していたのがレーニンであった。レーニンにあっては友と敵を峻別として、常に革命の目標として絶対的な敵を規定することを重視したが、シュミットは郷土愛に根差したパルチザンの土着性に注目し、それを実践した点で毛をレーニンよりも評価するのである。しかし第二次世界大戦後になるとパルチザンが利害関係のある第三者からの援助を受けるために、その理念に沿って正当化を付与されイデオロギー化される必要が生じ、徐々に土地的な性格を失い、世界内戦に巻き込まれさらにそれは闘争技術の高まりによって加速されることとなる。しかし第三者からの政治的な承認を求めることなく、自らその正統性を打ち立てようとして失敗したのがラウル・サランであった。サランは自国では非合法的な存在として犯罪者として扱われ、世界政治的には第三者の援助を受けることなく反植民地主義という敵と対決しなければならなかった。ここに今日においてパルチザンが合法性の名のもとにその非正規性を非合法性に変えられて弾圧され、場所喪失を引き起こすという困難な状況が表されている。
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ネタバレ人間は陸に暮らす動物であり、大地の上で活動をする。古くからある大地、水、火、空気というエレメントの中でも、大地は人間の基盤、ものの見方、自己の観点といったものを最も強く規定するエレメントである。なぜなら、人間は海に住む魚でもなければ、空を飛ぶ鳥でもなく、ましてや火で構成される生物などではないからである。だが、人間は大地にのみ関連づけられた動物ではない。もし人間がその4つのエレメントによってあますところなく完全に規定されているのであれば、人間は魚であったり、鳥であったり、またはこれらのエレメントの規定から生まれた奇妙な混合物であるはずだからだ。当然人間はそんなことはなく、人間はその四囲の世界に解消されてしまう存在ではない。人間は困難や危機に際しても、その精神と確固たる観察と推論によって自己を新しい存在へと救い上げていくことのできる存在なのである。
航海技術が発達した16-17世紀に、海のエレメントが噴出し「空間革命」なるものが起きる。空間の見方は個々の人間によって異なる。大都会の人間は農夫とは違うふうに世界を考え、捕鯨者はオペラ歌手とは異なる生活空間を持っている。いろいろな民族全般、人間歴史のいろいろな時代についていえば、空間観念の相違はもっと深く、そして大きくなる。空間革命のなかでも、最も根本的で影響力の大きい変革となったのがアメリカの発見と最初の世界一周航海である。世界一周によって、人間の全体意識にとって地球の全体像と、全宇宙の天文学的な全体的観念が変わったのだ。これが、空間革命の決定的な要因である宇宙への拡張、そして無限の空虚な空間という観念につながるのである。ガリレイの科学的な諸実験の結果、空間の無限性が数学的に証明できる真理となった。これによって人類は「空虚な空間」を表象することができるようになるのである。我々は、地球が太陽の周りを回っている、宇宙に無数のようにあるただ一つの星に過ぎないということが学問的真理として広く認知されている世界に生を受けたため真空に対する恐怖を忘れているが、これらの事実はこの空間革命の時代に生きた人間には身の毛のよだつほど恐怖を与えた。
16世紀以来、ヨーロッパ大陸の諸国は陸地戦に関して一定の形式を作り出していた。戦争は国家と国家の一つの関係であるという考えが根底にあったのである。戦争は一種の外交手段であり、敵として相対するのは戦闘を行う軍隊だけで、戦いに参加しない一般市民は敵対関係の外側にある。だが、それに対して海戦の根底には敵の貿易、経済に打撃を与えなければならないという意図がある。海戦における主な戦闘手段は敵国海岸の砲撃と封鎖である。つまり、海戦の構造としては敵国に加えその国と貿易を営み経済関係を結んでいる中立国も敵となるのである。これは、まったく異なった二つの世界である。一つの陸国が地球全体を包含するような世界権力を行使できるなどという考え方は陸国の世界観からすれば途方もないことだが、海上の存在にとって世界支配の手段を見出すことは陸国のそれと比べさほど難しくはないようである。海と陸という二つのエレメントの分離がひとたび地球上の根本原則となったあとで、この分裂を基礎に色々な教義、証明事項、学問体系などの骨組が打ち立てられた。
そして19世紀に人類は新たな空間革命を起こした。電気工学と電気力学の時代へと突入したのである。電気工学・電気力学は飛行機や電波技術を発明する。この空間革命は人間存在の新しいエレメント領域に第三のエレメントとして空気が加わったとする考え方を生んだ。だが、どのような技術的・機械的な手段とエネルギーをもって人間の力が空気中で発揮されるかを考えると本当に新しい人間活動のエレメントとしては火が現れてくるのである。そして、我々は次の二つのことを確実な事実として認めることができる。一つ目は、空間革命の新しい段階とともに始まった空間概念の変化に関係する。16-17世紀の人間は世界を空虚な空間の中に見出したが、今日我々が空間という場合、それはもはや考えられるすべての実質を欠いたたんなる空虚の真相次元のことではない。空間はわれわれにとって人間のエネルギーであるとか、活動とか業績とかのちからの場となったのである。二つ目は陸と海のエレメントとしての根源的な関係に関連する。海は、捕鯨者や海賊たちの時代におけるようなエレメントではなく、交通・伝達手段の空間となったのである。海と陸の分割ということがなくなったのだ。こうしてまた新たなエレメントが生まれた。古いエレメント、新しいエレメントに対する人間の新たな関係が地球の新しい習慣や法律を成長させる。古い力と新しい力との苛酷なたたかいの中にもまた正しい尺度が生まれ、意義深い調和が形成されるのである。 -
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「主権者とは、例外状態について決定を下す者のことである。」
非常に印象的な一文から本書は始まる。「例外状況とは、現行の法律では規定されていない状況であり、極端な緊急状況とか、国家の存立が危ぶまれる状況などとして示すことができるだけであ」る(14頁)として、正にそのような例外状況に国家の本質が示されるとして、以下、主権の問題について、これまでの主要学説を紹介しながら論じていく。
ケルゼンくらいは主要著作を何冊か読んだことはあるのだが、ケルゼンのほか、クラッベ、ヴォルツェンドルフ、カウフマン、メルクルなどの説とそれに対する著者の考えが説かれている第二章「法の形式および決定の問題としての主権の問題」のところは、一読したくらいでは十分理解ができなかった。
第三章「政治神学」は、「現代の国家論の重要な概念は、すべて世俗化された神学概念である」という、これまた印象的な文章で始まり、神の概念と君主の概念、さらに主権者の概念の関係について論じられ、第四章「反革命の国家哲学について」に続いていく。
各章の叙述は何とか追いかけていったのだが、本書の構成、展開の意味合いが良く分からなかったので、消化不良の状態で終わってしまったのが残念。
付録の「中性化と脱政治化の時代」では、次のような考察がなされる。我々の精神生活において、中心領域の交替が起こってきたこと、すなわち神学(16世紀)→形而上学(17世紀)→道徳(18世紀)→経済(19世紀)という段階を経て、様々な領域の中性化が進んできた。そして現在はさらに、もっと中性度の高い技術(20世紀)の段階になってきているが、果たしてそれにより脱政治化(対立がなく、協調が進み平和となること)となるのか、とシュミットは問う。
シュミットはナチとの関係により毀誉褒貶が激しいが、危機の時代について真剣に考えた人間であったことは、本書を読んでも感得できた。 -
Posted by ブクログ
カール・シュミットといえば、ごく短い時期とはいえ、ナチス側の第一の論客として活動したことがあり、戦後は危うく戦犯として処罰されかねなかった。もともと代議制の欠陥を強く指摘したシュミットは、あるいはニーチェと同様、いやそれ以上に、ヒトラー政権を生み出す機運に加担したと言えるかも知れない。
それでもとりわけ近年はカール・シュミットに注目が集まっているように思える。それはやはり、緻密な社会・政治学思想として、そう簡単には看過できない独創的で秀逸な着想がそこに見られるからだろう。
この本は1963年の刊行で、ナチズムとも代議制民主主義とも関係がない。
ナポレオン軍が攻め入ったとき、スペインの民が、正規の国の軍隊とは全く別個に、自発的に団結・蜂起して独自の抵抗戦争を繰り広げた。とりあえずこれが、この本に描かれる「パルチザン」の最初の姿だ。
トルストイ『戦争と平和』で描かれた、ナポレオン軍に抵抗し勝利したロシア農民も「パルチザン」ということになる。日本軍に占領された中国の民衆にも、随所にパルチザン的な抵抗の姿があった。
パルチザンは、正規軍ではなく、場所(土地)に根ざした一群の民衆の蜂起であり、その動きは俊敏で隠密的である。そしてその「抵抗」的な運動は必ず政治的な行動としての意味を持つ。パルチザンは国家の外部にあり、国家間の戦争の外部にすらある。
私はアンジェイ・ワイダが映画でえがいた、ナチス占領下のポーランドで地下に組織されたレジスタンスの戦いを思い出した。イタリアでも、ムッソリーニのファシズム政権に対し、国内民衆の抵抗勢力が暗躍して、これは最終的にパルチザン側が勝利してムッソリーニを退却させた。
カール・シュミットは、そうしたパルチザンなるものの抗争を独特な視点で強調し、時代と共にパルチザンの行動が重要性を持つようになってきたとする。
たとえばベトナム戦争では、ベトナム兵とベトナムの民衆のパルチザンとが見分けがたいまでに入り乱れ、あの「戦争」を泥沼化したのだった。
もちろんパルチザンが正義とか悪とか、そういう単純な問題ではない。ときに残虐行為を行うパルチザンは恐ろしい連中でもある。
しかしややアナーキー寄りな私の心性としては、「お国のために」身を犠牲にする「国家」の兵よりも、自らの「土地」に根ざして動くパルチザンの方が、どちらかというと自然に見える。いや、人殺しは良いわけがないのだが。
そういえば、アルカイダや「イスラム国」などのイスラム過激派、いわゆる「テロリスト」も、もともと「パルチザン」の系譜から来ているのではないだろうか。発端は、合衆国が石油利権を求めて中東に余計なちょっかいをかけすぎたことにあり、アメリカという「帝国」の「支配」に対する、ナチュラルな抵抗が原因だったのではないだろうか。
無論暴虐きわまりない「テロリスト」を賞賛はしないが、アメリカ的「帝国主義」も誉められたものではない。
イスラム「テロリスト」がパルチザンだとすると、米国は国家として、「国家の外部にある」存在と「戦争」をしていることになる。なるほどこれは奇妙だ。
もっともこの本にはそうしたイスラム「テロリスト」については記述がない。この本より後に起こっていることが、興味深いのである。