家庭医であり、町に出て屋台を引いたりする中で健康を高める“まちけん(谷根千まちばの健康プロジェクト)”という活動を行っている、町に飛び出すお医者さん孫大輔先生の著書。
読んでいて、患者としての自分や、医療者としての自分、地域で生きる一人の人間としての自分など、いろいろな角度の自分に響いた。助産師であ
...続きを読むる前に、自分自身も一人の「生活者」であることを改めて感じた。正岡子規やら黒ひげまで登場する多岐に渡る視点が読んでいて飽きない。
以前、目が痛くて眼科に行った時、医師の話がよく理解できなかったので沢山質問をしたところ「いいから黙って言うことを聞いてください!」と怒鳴られたことがあった。生活者として「主観的」な不安を抱えて病院を訪れた私と、「疾患」を判断する医師との「まなざし」の違いが、あの時私を悲しい気持ちにさせたのだとわかった。医療者としては早くラベリングしてしまった方が楽だしスッキリするけれど、その「不確実性」に耐えてじっくり話を聞かないと一方的なアセスメントをしてしまいがちだ。自分に翻って胸が痛い。
その際に大切なのが「対話」だ。「対話」では、「すべての発話は相手の言葉を受けた応答となる」ことが重要で、白黒つけたりラベリングすることが目的ではなく、「対話すること自体が目的」。不安軽減でさえも副産物であるそうだ。目から鱗だった。議論とも、ディベートとも違う、対話。
孫先生の作られる場に一度参加したことがあるが、えも言われぬ安心感があった。北風と太陽の太陽のように、無理矢理こじ開けるのではなく自分からつい心を開きたくなるような暖かい空気に、ふいに問わず語りで自分のことを話し始めた方がいた。決してぐいぐいほじくり出すのではなく、そこにいることを肯定されているやさしい感覚。判断を自分に委ねられている感。これが私にとっての「対話」体験だった。
こうして対話を重ねていく患者さん一人の後ろには家族の木があり、その人が住む地域がある。地域全体を看る視点は、病院にいるだけでは欠けやすい。公衆浴場の地域コミュニティ機能も、風呂が壊れて一冬温泉に通い続けた身として非常に共感するし、自殺の少ない町、徳島県海部町のゆるいつながりもとても参考になった。監視ではなく、関心を持つ。困ったときは助けてくれるけれど、普段はそっとしておいてくれる鬱陶しくない適度な距離感。これが、コミュニティ作りのキーワードかもしれない。
平田オリザさんの『わかりあえないことから』も大好きな本で、表出されたことば単体ではなく、そのことばの裏に潜むコンテクスト(背景)を慮るということが書いてあり、そこともリンクした。
他者とはわかりあえないことから、はじまる。だから諦めるのではなく、だからこそ、対話する価値があるし、自分では考えつかない発想だったり可能性を示唆してくれる。それをオモシロがれるかどうかは、自分次第なのだと思った。