水谷俊樹のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
■きっかけ
悪党・楠木正成って足利高氏と後醍醐天皇とどうゆう関係か気になった。ジャンプで連載している逃げ上手の若君の北条時行との関係も気になる
■本の内容
- 全般的に何が起こってるかわかりずらい。No69/131で北条高時が足利高氏に後醍醐天皇を討つように命じるが。楠木正成の配下が「高氏は京都に向かって進軍している」と伝えると、なぜか「高氏どのがこちらについたか」と楠木が言う。どうゆうこと??
- 最後に解説があるが、むしろこれだけでよくわかる。
■鎌倉幕府滅亡
- 1331年。最初は「北条高時・足利高氏・新田義貞」VS「後醍醐天皇・楠木正成」の構図
- 吉野の大塔宮護良親王(おおとうのもりよししんのう)と、千早城の楠木正成に別れた。
- 難攻不落の千早城の情報と、そこに隠岐から戻ってきた後醍醐天皇の綸旨があり、新田義貞と足利高氏が謀反。
- 1333年。「北条高時」VS「足利高氏・新田義貞・後醍醐天皇・楠木正成」の構図。足利高氏は六波羅探題を攻め、上野国(こうずけのくに)に戻ってきた新田義貞は北条高時を追い詰めた(高時は自殺)
- この褒美で高氏は、天皇の字をもらい、尊氏となった。
■建武の新政
- 1335年「足利尊氏」VS「新田義貞・(後醍醐天皇の命)」。新田は敗北、京都に逃げ帰る。
- 1335年「足利尊氏」VS「楠木正成」。尊氏は九州まで逃げるが、九州の武士をまとめる
- 1336年湊川の戦いで足利尊氏にやぶれる。
■感想
- 楠木正成の本当の所が知りたい。太平記や戦後教育の影響を受けていない楠木正成が知りたい
- 北条時行の活躍もっとみたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ秀吉がもっとも信頼した天才軍師!
美濃の斎藤家に仕える竹中半兵衛は、態度の悪い主君をいさめるために、わずか16人で稲葉山城を奪取する。それは、稲葉山城を長年落とすことができなかった
織田信長をも驚愕させる事件だった! のちに織田信長に登用され、羽柴秀吉の軍師として活躍する半兵衛の、短くも波乱の生涯を描く!!
織田信長の跡を継いで天下人となった羽柴秀吉には優れた参謀が2人居た。
後の世で「二兵衛」と呼ばれた
・竹中半兵衛
・黒田官兵衛
である。
この両名が打ち立てた作戦が秀吉軍の天下取りに貢献した度合いは計り知れないものがあった。
両名共に信長ではなく秀吉の直属となった背景には、人間的な魅力で秀吉のほうが信長よりも温和で敵に対して過酷な処置をしなかったことだろう。
秀吉が天下人となる前半戦では竹中半兵衛が、そして毛利家との戦いの最中に半兵衛が病死した後は官兵衛が参謀としての地位を担った。
竹中半兵衛は元は美濃の斎藤家の家臣であり、父親は「美濃のマムシ」と呼ばれた下剋上の申し子・斎藤道三に仕えていた。
しかし、道三は息子の斎藤義龍との戦いに敗れて死に、ほどなく義龍も病死して、その息子の龍興が当主となっていた。
やがて半兵衛の父親も死に、半兵衛が家督を相続したが、主君の龍興は暗愚と評判で美濃国はまとまらなかった。
半兵衛がその名を世に知られるようになったのは手勢僅か16名で主君の居城の稲葉山城を奪取してそれをすぐに龍興に返還。
自らは弟に家督を譲って隠居した。自らが下剋上の世の潮流に乗る気など毛頭無く、あくまでも主家を想ってのことだったとのこと。
けれど、これは後の世に彼の息子である竹中重門が著した「豊鑑」のよる伝承のようだ。
実際は「龍興派」と「反龍興派」との対立によるもので、城乗っ取りは一時的には成功したものの、巻き返しに出た龍興によって奪い返されたというのが本当のところであるようだ。
本来なら「謀反」を起こした半兵衛は抹殺されるはずだが、幸いにも龍興の求心力は低下しており、美濃攻略を目指して進軍してきた織田軍を抑えられなかった。
やがて隠遁する半兵衛の下へ秀吉が訪ねてきて織田家へ仕えるように勧めてくる。
斎藤家への忠節からかそれを断る半兵衛であったが、秀吉は何度も半兵衛を訪問して軍略の手ほどきなどを受け、師弟関係が徐々に構築されていった。そのうち信長の調略によって美濃の国人たちは織田家に寝返り、事ここに至り半兵衛もようやく折れて織田家に出仕するようになった。けれど、立場的には信長の直属ではなく「秀吉傘下」であった。時に半兵衛27歳の再デビューである。
中国攻めの陣中で没したのが36歳の時なので、半兵衛の表舞台での活躍は僅か10年弱の短い期間である。
けれどそれは織田信長の「天下布武」の戦いの軌跡にそのまま参戦することを意味した。
浅井・朝倉氏との「姉川の戦い」「小谷城攻め」等でも秀吉傘下で功を上げ、浅井長政の裏切りで信長が危機に陥った際は秀吉と共に「金ヶ崎の退却戦」で殿を務めている。
彼の編み出す作戦・用兵は「孫子」の軍略に基づいたものであり、「戦わずして勝つ」を基本とした。
決して犠牲を出すような力攻めは好まず、極力犠牲を避け勝利を得ることに集中した。
「秀吉は城攻め、家康は野戦が得意」という後世の評価も、秀吉が半兵衛から教えられたものが大きかった故であろう。
自らは病身であり、決して戦国の世に向いてはいなかったはずであるが、秀吉の、或いは信長の「軍勢をその知略によって使役する」ことで、大いに力を発揮して周囲の人間、特に秀吉には一目も二目も置かれていた。
やがて城持ち武将となった秀吉の下で中国地方の毛利氏攻めに参加。ここで自身の後継者ともなる「黒田官兵衛」と出会う。
後に秀吉に「油断ならない男」として警戒されることになる官兵衛も半兵衛の実力を認め、敬った。
半兵衛は病弱故か自身が長生き出来ないことを悟っていたフシがあり、それが無欲かつ清廉なイメージを作り出した。
禄高や褒賞などには頓着せず、織田家の勝利が「乱世の終結」へ繋がることを信じていたのだろう。
その中国攻めの陣中で結核の病状が悪化。遂に帰らぬ人となる。
「人生五十年」と称された戦国の世で36年の短い生涯であった。
その精神は「黒田官兵衛」「秀吉」に受け継がれ、間接的ながら天下統一に大きく貢献したといえる。
存命ならば秀吉によって数十万国の大大名となり、五大老に列せられていたかもしれない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ聖徳太子の死後の話です。
聖徳太子生存中から権力を振るっていた蘇我氏の横暴は酷く、
聖徳太子の息子の山背大兄王も帝位に就けないまま、
蘇我入鹿に攻められ自刃した。
蘇我蝦夷・入鹿親子の横暴を苦々しく思っていたのが
舒明天皇と皇極天皇の息子・中大兄皇子。
秀才と名高い中臣鎌足と共に蘇我氏打倒の策略を練る。
見事、蘇我入鹿を天皇の御前で打ち倒すことができた。
だが、
皇極天皇に代わって即位した孝徳天皇は軽んじられ、
周囲も中大兄皇子を天皇扱い。
孝謙天皇は失意のうちに病没する。
そして孝謙天皇の息子の有間皇子も謀反の疑いを掛けられて処刑された。
中大兄皇子はまるで蘇我入鹿のようになってしまう。
蘇我氏の帝を軽んじる振る舞いに激怒して兵を挙げたのに、
今度は自らが帝を軽んじだす矛盾。
違いは中大兄皇子は皇族だったというだけ。
その違いで蘇我氏のようには討たれなかった。
即位して独裁者となった中大兄皇子改め天智天皇は、
大化の改新で自身に協力してくれたものたちを攻め滅ぼしていく。
同じ蘇我氏でありながら入鹿に反旗を翻した
蘇我石川麻呂は乱の後に「右大臣」の地位を得て、
娘を中大兄皇子の正妻としていたのに讒言の末に自害してしまう。
しかも朝鮮半島では日本寄りの百済を支援するが、
白村江の戦いで大敗北を喫して、百済は滅亡。
唐の支援を受けた新羅は朝鮮半島統一後に日本に攻め込んでくるのでは?
危機に際して皇子は北九州の防備を固めた。
母親の斉明天皇が没した後に
ようやく即位できた中大兄皇子は「天智天皇」となるも、
豪族たちの不満をかわすために妥協を強いられ、
律令国家の成立には天皇の死後半世紀の時間を必要とした。
この頃の天皇はまだ「自らが武力を用いて戦う存在」。
「国家の象徴」ではない。
次代の「天武天皇」がその最後の時代。
以後は武士たちの登場で天皇は主役から脇役へと追いやられていくのであった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ色白でひよわなために「姫若子」とよばれた不遇な少年時代。
その姫若子が、初陣で手柄をあげるや、土佐を平定し、さらには四国を統一する!
しかし秀吉がよこした、四国攻めの圧倒的な大軍にはなすすべもなく、
結局、その軍門にくだることになる――。
自由奔放かつ破竹の勢いで動乱の世を疾走した四国の雄、長宗我部元親。
夢半ばに終わった、その波乱の人生を描く。
戦国時代、全国的な騒乱は四国にも当然に及んでおり、土佐の国でも八家が入り乱れる群雄割拠の状態。
長宗我部氏はそのうちの一家でしたが、勢力としては最弱。
それを一躍躍進させたのが、元親の父・長宗我部国親になります。
元親はその国親の嫡子として生を享けますが、幼少の頃から「姫若子」とあだ名されるほど本ばかりを好み武芸をしないことで有名でした。
それ故か初陣も22歳と遅く、長宗我部家の将来を懸念されておりました。
ですが、その初陣で敵を次々と打ち破る大活躍。初陣の数か月後に病で父の国親が死去すると家督を相続して四国統一を目指す戦いに明け暮れます。
土佐は全土でも太閤検地で24万石とされるほどしか石高がなく、そういった意味で兵員動員能力には欠けるはずでした。
しかしそれを補ったのが「一領具足」という半農半兵制度です。
これは平時には農民として田畑を耕作していた者が戦の際には兵士として駆け付けるわけで、これにより領土の狭さの割には長宗我部家は大量の兵力を動員できたのです。
元親が家督を継いだ頃、中央では尾張の織田信長が桶狭間に今川義元を打ち破っており、元親はこの信長に妻の縁をつてに接近。
信長に嫡男の烏帽子親となってもらい、四国平定のお墨付きを得ます。
ですが、元親が四国平定を進め勢力を増すと信長はこれを危険視して約束を反故にし、四国一国のみで我慢するようにと申し渡して織田・長宗我部の両家の対立は深まります。
四国征伐の兵が準備できていた矢先、「本能寺の変」が起こり、信長は横死。織田家との対決は回避されました。
その隙を付いて元親は四国平定を急ぎますが、信長の後継者争いに名乗りを上げた羽柴秀吉と徳川家康との戦いにおいては家康に味方。
四国平定後に援軍を送るつもりだったのですが・・・・その前に家康と秀吉が政治的な和解をしてしまい、今度は単独で羽柴秀吉と戦わなければならなくなります。
中国の毛利氏もその頃には秀吉の傘下に入っており、四国の征伐軍は10万人にも及んでいました。
各地で打ち破られる長宗我部軍。敵わないと見た元親は降伏し土佐一国のみ安堵されて秀吉傘下に組み込まれます。
ですが、長宗我部家最大の不幸がその後の九州の「島津氏征伐」で発生します。
軍監である「仙石秀久」の無謀な戦略で元親の嫡子・信親が戦死してしまう。
期待されていた嫡男を失った元親の落胆は激しく、これが結果的に長宗我部家滅亡の引き金になってしまいます。
嫡男を失った元親は二男・三男を差し置いて四男の「盛親」を後継者に指名。反対する家臣団を粛清するなどしたため、長宗我部家の力は弱体化した。
元親自身は秀吉が亡くなった僅か1年後には病を得て亡くなる。享年62歳。奇しくも秀吉と同い年での没年であった。
その1年後、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発し、盛親は西軍に組したため土佐24万石を没収されてしまう。
盛親は当初は家康に組するつもりで使者を送ろうとしていたのだが、その使者が家康の元に辿り着けなかったため、西軍に加わるという態度。
しかも肝心の関ヶ原では毛利氏の後方に布陣していたため、動くことができないまま終戦を迎える。
何もしないで土佐一国を失ってしまったのだ。代わりに土佐24万石を山内一豊が得る。
盛親は大坂に潜伏して寺子屋の師匠などを務めて命を長らえ、大坂の陣で豊臣秀頼の要請に従って大坂城に入場。
そこそこ活躍したものの、落城後に捕えられて斬首され、ここに長宗我部家の嫡流は断絶した。
長宗我部家の勃興はそのまま「乱世の縮図」である。
成り上がることも難しいが、一度成り上がって獲得した領土・地位を守り通すことの難しさ。
嫡子・信親を失った後の長宗我部家のお家騒動が最終的な滅亡に繋がった。
その無念・恨みやいかばかりであっただろうか?土佐の「一領具足」たちも新領主・山内一豊に反抗して弾圧され、郷士という低い身分に落とされる。
郷士は山内家家臣の上士とは徹底的に差別され、憤懣やるかたなかった。
260年後の徳川末期、その蓄積された不満が爆発する形で土佐郷士の中から
・武知半平太
・坂本竜馬
らの英雄が飛び出して来るのである。長宗我部遺臣の無念の結実であろうか -
Posted by ブクログ
ネタバレ鎖国体制が揺らぎ始めた幕末。外国の脅威から日本の未来を守るため、新たな時代を切り開いた勝海舟の生涯をまんがで徹底紹介!!
江戸幕府の幕引き役を務めた勝安房守の生涯を描いた漫画。
海舟が幕府の貧乏御家人の長男として生を受けたのは11代将軍・徳川家斉の御世。
子供が50人を超えたという家斉の世は8代将軍・吉宗の時代の質素倹約・引き締め政策も薄れ、華美華奢な風情が勢いを取り戻していた。
なので幕府の権威も徐々に失墜しており、また海外から盛んに異国の船が日本に通商を求めて来航していたときだった。
海舟は剣術も免許皆伝、勉学も向上心が並ではなく、家が貧乏故にロクに本も買って勉強できなかったが、
オランダ語を学ぶ課程で幕府に意見書を提出するなどして上役に徐々に認められていくようになる。
やがてペリーが来航して日本は攘夷か開国かで騒然となる中、米国に幕府の使節団を派遣することになる。
海舟がその船・咸臨丸の艦長となったことが後の彼の人生を開かせた。
先進国の米国で様々なものを学び帰国した勝に14代将軍・徳川家茂は海軍操練所を作ることを命じる。
日本の未来を背負う多くの若者が集まり学んだ。土佐の坂本竜馬もその一人だった。
だが、時代は急変。御所に攻め込んだ長州の処分を巡って幕府内は二転三転紛糾する。
足並みの揃わない幕府に見切りを付けた海舟だが、謹慎中に起こった鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北。
官軍が江戸に攻め上ってくる中で、とうとう幕府の幕引き役として舞台に担ぎ出される。
官軍の参謀は面識のある西郷隆盛。海舟一世一代の直談判が始まる・・・・・・・・・・。