朴天秀の『加耶と倭』は、倭(日本)と朝鮮半島の交易対象の変遷を考古学的証拠と文献から分析。交易は以下のように推移
(1)3~4世紀:金官加耶(金海)は鉄生産の中心。金海の大成洞墳墓から倭産神獣鏡、倭の古墳から金官加耶産鉄器が出土。
(2)5世紀前半:金官加耶衰退後、新羅との交易強化。大仙古墳の金銅製甲冑に新羅の金工技術が反映。
(3)5世紀後半:大加耶(高霊)が台頭。池山洞墳墓の金銅冠が江田船山古墳で発見、倭産鉄器も大加耶に流入。
(4)6世紀前半:新羅(再)が金官加耶(532年)、大加耶(562年)を併合。藤ノ木古墳の新羅産馬具や仏教文物が交流を示す。
(5)6世紀後半:百済が倭と同盟強化。栄山古墳や法隆寺に百済産仏教文物、538年の仏教伝来が顕著。
朴の従来説と異なる部分の主張は、従来の『日本書紀』依存や任那日本府説と異なり、考古学的データを重視した結果①「百済の役割再評価」が必要で、従来説の「百済は5~6世紀の主要交流国」に再検討を促す、むしろ5世紀は新羅・加耶が優勢で、百済の影響は6世紀後半の短期間に限定(栄山古墳の百済文物)
また②「新羅との関係再検討」で従来説の「新羅は敵対国、交流は」6世紀後半からではなく5世紀前半からであり、丸山古墳の新羅産文物や新羅の装飾物の日本製勾玉などが証拠である
③任那日本府については栄山江流域に固まる前方後円墳が時代的・位置的に一致しないのでむしろ否定される
任那は従来の倭が加耶を支配したという説を否定し、あくまでも加耶は自立しつつ、池山洞の金銅冠や倭産文物から見ても倭と対等な交易と主張。
加耶の文化的独自性を強調していて、大加耶の金銅冠や有刺利器は加耶独自ブランド、飛幡塚古墳など広範な影響があり、従来説の鉄供給地に過ぎないは評価が低すぎ
本書では倭の交易対象が金官加耶、新羅、大加耶、新羅、百済と変遷したと論じ、考古学的証拠で従来の百済偏重や任那日本府説を批判。加耶の自立性と文化的独自性を強調し、新羅の早期交流を再評価していて勉強になった