「己自身のごとく、汝の隣を愛すべし」
隣人愛として有名なこの一節がメインに据えられた上で、
キリスト教における愛とは何か、
隣人とは何か、
己自身のごとくという言葉の意味、
愛「すべし」という命令に含まれる意味
など、深く考察していきその困難さを語る本です。
キリスト教とキルケゴールを浴びれます。
テーマが分かりやすいのでかなり読みやすい!
隣人愛についての前提知識があるとさらにわかりやすい気がします。
あとこれ調べても偽名出てこなかったから、この本の内容部分は本名名義で書いたんだと信じます。
そういう意味でもキルケゴールっぽさを浴びたい人に最初に勧めたさがあります。
代表作「死に至る病」は前半の難所があるのと、執筆名義が違うので……。
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以下、読書中に書いていた私のメモ書きのターン。
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『愛さねばならぬ』
『平等』
神の下に平等のため、『平等でなければならぬ』と命じることもない。隣人は全てである。個人はキリスト教において存在しない?(そのため差別の撤廃も起きない)
地上の不平等の上に平等に降り注ぐ。
不滅者の視点からすれば、高貴なものに対しても下賤なものに対しても『より高みに』と言うのは変わらないから。
→個人識別できない?
(哲学人行動学に昇華する用メモ)
隣人
→相手が誰という区別のない、すべての他人を指す。
目を瞑って話しかけるのと同じ。
敵味方や身内の区別がないので、相手を識別するために見る必要はない。
現実→演技
死後に人間に戻る
現実のあれそれは本来の姿ではなく、本来の人間ではないのだからその姿に価値や意味はない
平等。個性の無意味さ
キリスト教を広める的な意図が少なからずあると思っていたけれど、キルケゴールのキリスト教の認識が「教えを信じ支え合う人々の集い」ではなく「己が神とどう向き合うか」なため、仲間が想定されてなくてそこでやや破綻している気がする。
話としては破綻してないんですが
「こう思いなさい」と人に言っておいて「周りの人間がそれに従い同じ思想と行動をとった場合」が想定されておらず、
常に周りは敵である想定なため
「周りからはこのような扱いを受けるだろうがそれでも己自身は――」と繋がる。
同士を増やすための呼びかけではないのか!?
良いものは決して徒党を組まないとまで言いやがった!?
何!?
何!?!?
……更に読み終盤の感想↓
『世間』の扱いが気になる。
本書における『世間』は『キリスト教的な愛』を受け入れることがない、むしろそれを嘲笑うものであるとしている。
その上で世間に対して『キリスト教的な愛』を主流とした存在になってほしいとは言わない。
むしろ『キリスト教的な愛は拒絶されるものです(断言)でもその中でも貴方は神の前に立ちただ一人愛と神の関係を結び続けなさい』という、
『周りから拒絶という苦難ありきのキリスト教的な愛』みたいに感じられるのが違和感すごい。
なぜなら
・ではこの書籍はなんの為に世間に公表されているのか。
・貴方が愛する『隣人』とは世間ではないのか
→世間を構成するのは人間であり、『隣人』である視点が抜けていないか
・『苦難ありき』なのであれば、それは『死に至る病』の悪魔的絶望において書かれていた『自分が神を憎む理由を得るために、自ら苦痛を望むこと』にかなり近くないか?
キルケゴールの単独者概念と本という媒体が相性悪い気もしてきたな。じゃあなんでそれこっちに言うの? になるため。世間を変える意思がないなら誰にも言うことなく淡々と一人で自分の信じる信仰を貫いてりゃいいのに。神の前で無力な一個体なのだから。
何がしたいんだ?
更に読む
神を忘れてしまえば神を忘れる不安もなくなるから人間的愛において不安は無くなるのではありませんか?????
幸福の中にも常に不安で目覚めてなければならない。神を忘れる不安に。と言ってますけども。
神の秩序を乱しうるとき、人間的愛は危機とするので、人間的愛の中では神のことを忘れないように努力し続けなければいけないから大変。はじめから神を愛しとこうみたいな話。
でも神の秩序が乱されるとか、
無いと思うんだ(宗教観の致命的違いにより思考の出発点が違う)
乱されることがあったらその時点で『不完全』なので神の定義から外れるんだ私の中では。
神を全ての可能性でありあらゆる完全と言ったのは死に至る病のキルケゴール(アンティ・クリマクス)ですが名義違うということは別人なので多分ここの思想が違う。
(哲学人行動学で死に至る病とバトらせる理由がまた増えたな)
あー……
神の前で人は無価値であることを説きながら、
神に従い愛すると周りからの評価が下がり嘲弄される、ということを何度も何度も繰り返して語るから、
それを認識してる時点で貴方の評価基準『周りの目』じゃん。
神を見てないじゃん。
そもそもその世俗的な価値観から脱却しましょうねって話なのにその結果世俗的な価値観による苦痛を受けますよ(苦痛を受ける時点で世俗的な価値観の中に居ている)になってるように感じて、
私はもやもやしている。
大したことじゃないですよ、と主張したいなら一回でいいんだよ。何度も言われる上に『気にしなくていいですよ』というフレーズが無いまま毎回『貴方は愚弄されますよ(断言)』で終わってる、ときには『キリスト教的な愛は困難なものである』とその難しさを強調する内容を入れるから、
貴方はそんなに世間の目が気になる? と読んでて気になる。
まあメリットを求めてキリスト教的な愛を行う、ということは既に愛ではない。というのを言っているから、
キリスト教的な愛をしましょうね、
無価値でも大丈夫ですからね、
という呼びかけができず、全包囲の苦痛しかアピールできないんだろうな。
『何故キリスト教的な愛を賞賛しているのか』の理由は『愛するメリット』になってしまうので、何も言えず、ただ『そう仰られたので』という一点のみになる。
よって既にキリスト教徒である人にしか通じない呼びかけになる。それでもその人が『なにか理由やメリットを感じて』入信してたら意味を成さない。生まれたときから理由なく理屈なくその他の世界を何も知らないために(他の道が存在してたなんて知らなかったくらいの経歴から)入信してるくらいじゃないと、真の意味では通じないのではないか。
なんか、何故こう書かなかったんだろう、を振り返ると、『書けなかった』が見えてくる。
自分で自分の首絞めてんな。とも思う。
だったら尚更なんで本に?
これはキルケゴール自身向けの本では。
■最後に
読みながらキレッキレになって思考がフル回転し、
「どうにかしてこれを反駁したい」と必死になってるのがよくわかるメモでしたね。
はい。
そうです。