横光利一のレビュー一覧
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購入済み
視点 表現手段は現代でも新鮮
ありふれていて 忌み嫌われる「蠅」に高所から人間社会を見渡す「神の視点」を与えるという意欲作である。切れ切れのトピックスを単に積み重ねただけで という構成も面白い。馬車をストーリーの舞台にしているので古臭さは否めないが、視点 表現手段は現代でも新鮮なままだと思う。
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横光利一さん、縁がないけど気になってたので手に取った乙女の本棚シリーズ。
死の淵にある妻とそれを看病する夫を描写した物語。
美しく柔らかなイラストのおかげで、文章だけだとどんどん暗く重たくなるストーリーが、一定の愛情と美しさを保って捉えられます。
本人ではどうしようもなく、病による不安や理不尽さからくる妻のワガママとそれに振り回されつつも見捨てられない夫の姿、を現代なら上っ面の愛と本音みたいなイヤミス的なものになりそうなのだが、この作品は上っ面は醜いけど底に愛情が横たわっている、と読める。そう読めるのもイラストの影響大きい。
2024.1.28
15 -
Posted by ブクログ
1937(昭和12)年から1946(昭和21)年にかけて断続的に連載・発表された作品。
1936(昭和11)年に横光自身が新聞社の特派員として渡欧しパリを中心に訪れた経験が直接反映されている。この年横光は38歳。
作品はパリを訪れた若者らを描いてゆき、後半に帰国する。主に視点となる中心人物「矢代」はヨーロッパにあっても祖国日本の美質がかえって際立たせられるように思い、日本回帰主義的な考え方をしている。一方でときおり視点となるもう一人の中心人物「久慈」はヨーロッパ流の科学・合理主義の賛美者で、この2人が合うたびに繰り広げられる論戦が、本作の「思想小説」としての骨格となる。
合理主義の是非 -
購入済み
異世界ファンタジー
ストーリー展開は太古の日本を舞台にした話であるが「異世界ファンタジー」を思わせる自由闊達さに満ちている。しかし現在のラノベと違うのはその文体。ふりがなだらけの独特の単語使いで異世界らしい雰囲気を盛り上げている。しかし 当然のことながらやや読みにくく感情移入もしにくい。
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ネタバレ肺病でどんどん弱っていく妻。
妻の家族と4、5年も闘争して、やっと娶ることができて、母と妻との間で苦痛な時間を過ごしたあと、やっと夫婦二人きりになれたのに、妻は病気になってしまった。
もう良くならないと、心の片隅にでも思っているのなら、彼は、毎日もっと優しくしてあげればいいのに。妻が言うように、隣で仕事をして、片時も離れない位に甘えさせてあげればいいのに。
妻が始終不満を伝えていたが、彼はちょっと冷たいと私も思った。
彼女のわがままを檻の中の理論と呼んで、もう死ぬかもしれない妻から逃げるように仕事とお金を言い訳にするのは、本当は鬱陶しいと思っているだけで、余り大切に思っていないんじゃないか -
Posted by ブクログ
1898/3/17〜1947/12/30 利一忌
1926年作
病気で自由にならないその身の悔しさと最期が近づく苦悩。その病気が言わせるワガママを夫に放つ事ができる素敵なカップルだなあと思うのです。
それでも 看病と経済に疲れを感じつつある夫。
医者から、いよいよ現実的な最期を知らされた夫は死について考える。
この作品のいとうあつきさんの夫婦の絵が、美しいなあ、と思う。春がやってくるようなコラボ。
スイトピーが馬車に乗って春をまきながらやってくる。春はやってきて、苦しみは消えて、妻の鎮魂歌。
横光さんの体験から。駆け落ちのように暮らし始め、同居後間も無く結核となり、亡くなった後入籍とした -
Posted by ブクログ
乙女の本棚シリーズから、横光利一さんといとうあつきさんのコラボ作品「春は馬車に乗って」です。なんともきれいな色使いのいとうあつきさんのイラストは、とってもステキです!
内容は、肺の病に侵され余命わずかな妻を看取る夫のお話です。病に苦しみ、夫にあたるしかない妻…夫も妻に振り回されながらも妻に寄り添い続けた結果、妻も自身の病を受け入れられるようになっていく…。最期は、妻に春いっぱい感じられるスイトピーを抱かせ、「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ。」と…。
「キューブラー・ロスの死の受容」というものがあります。「否認 怒り 取引き、抑うつ、受容」…この5段 -
Posted by ブクログ
横光利一、初めて読む作家。病気治療中の妻と、それを支える夫の、静かな日々の話。
締め切りのある仕事を抱えながら、もっと構って欲しがる妻の看病との両立でいっぱいいっぱいになり、時おり衝突しながらも支え合う姿は、第三者である読み手の私たちの目にはそれでも仲睦まじく映る。
部屋から見える庭の松の葉、鈍い亀、ダリヤの球根、野の猫、水平線、遠くの光る岬。それらすべての情景描写が美しかった。
春がくるということが、これほどよろこばしいことのように思えたのはずいぶん久しぶりな気がする。
「まア、じっとしてるんだ。それから、一生の仕事に、松の葉がどんなに美しく光るかっていう形容詞を、たった一つ考え出すのだね -
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初版は鎌倉文庫(1947年11月)。
著者の山形での所懐生活に取材した日記体の長篇。作中では日付は匿名化されている(「―日」と表記される)が、文芸文庫版の巻末資料に掲げられた河上徹太郎の文章によれば、1945年8月15日から12月15日までの4ヶ月間の時間が描かれている。
5月末の東京空襲後、やっとのことで山形の山村に疎開先を見つけた「私」は、自分が「小説家」であることをどうかして知られまいと努めながら、農村の人々のその暮らしを詳しく観察しつづける。描かれるのは、戦時下の「供出」がもたらした村内の対立であり、本家と分家の微妙で複雑な関係であり、濃密な人間関係の中での政治であり、戦争で我 -
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夏目漱石も西欧の近代合理主義と自分のこころとの矛盾に悩む青年を描いたが、横光利一もそのような西欧合理主義の教育を受けながらも実際欧州に行ってみて、反発や適応せざるをえない苦しみをこの長編に描いた。ヨーロッパを賛美出来ず、なお日本に寄り添ってしまうこころを解剖してみせる。
昭和11年(1936年)といえば第二次大戦前の不穏な時だろう。行くにしても何日もかかった時代。そんな時欧州に遊学する青年たちとは特権階級、現代の誰でも(庶民が)行けるヨーロッパではない。東洋と西洋の相克の悩みは、今から考えると隔世の感。
ストーリーは単純。
同じ船で長旅して、欧州を目指した青年二組の男女が繰り広げる愛憎と -
Posted by ブクログ
1920年代の上海。欧州列強に加えてアメリカが中国でのビジネス拡大を狙い、日本もまたそれに対抗する。そしてまた、革命を逃れたロシア貴族が滞留。現地の中国人の多くは、国内外の資本の下で厳しい労働条件に苦しみ、共産党が勢力を伸ばす。その共産党が外国資本に打撃を与えるべく罷業を計画すれば、それを中国の資本家が陰で支援したりもする。街には日々大量の物資が船などで出入りし、それにともなって大量の廃棄物・排泄物がでる。それらがドブとなった運河で発酵し常に泡立つ。著者は、実際にこの時代の上海を訪れ、ほぼ同時代にこの作品を書いている。それだけに当時の「魔都」上海に集まる人びとが生むものすごいパワーとそれらが淀