吉田禎吾のレビュー一覧
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贈与論
人やモノを全て含んだ円環状の贈与体系をトロブリアントの民族からの実地調査をもとに検証している。また、贈与をするための霊的な感覚による根拠(ハウなど)を同時に示し、人類の経済の基層に贈与・交換があることを明らかにした。
ハウとは、何か物を与えられたら、人に与えなければならない。そうしないと、落ち着かないという気持ちを霊的存在に見立てて解説したものである。モノをもらっても人にあげなければ、ハウという悪い神が持ち主をどんどん蝕んで最後には殺してしまうというのである。これは、ものではわかりにくいが情報ならどうだろう。噂話を聞いたら人に語りたくなってしまう気持ちは、ハウによるものではないかと思う -
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[メモ(暫定)]一連の研究の問題意識は「未開あるいはアルカイックといわれる社会において、受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られたものに潜むどんな力が受け取った人にその返礼をさせるのか」であり、モースが分析の対象としたポトラッチやクラは以下の特徴をもっている。①交換し契約を交わす義務を相互に追うのは個人ではなく集団である、②彼らが交換するものは、専ら財産や富、動産や不動産といった経済的に役に立つものだけでなく、何よりもまず礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、婦人、子供、舞踊、祭礼、市といった社会の全領域にわたる資源であり (全体的給付)、経済的取引はその一部にす
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特に一部の地域コミュニティでは、人間の活動は贈与で成り立っている。そこには、霊とのつながりから導き出される現所有者との
過去所有者とのつながりがある。それが、恐らく地域コミュニティにおいての不和をなくさせてきたのかもしれない(もしかしたら、逆なのかもしれないが)。
では、なぜ現代社会では不和がすぐ近い人間同士でも起こるのか?それは、現代社会がつながりを見えなくしているからかもしれない。
人間、やはり視覚でとらえられないものに対しては非常に弱い(ラ・ポール効果の目隠しした人の誘導でも分かるが…)。それが人とのつながりを
希薄にさせているのか…。考えさせられる逸品である。 -
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今春ころから気になっていた、モースの『贈与論』を読みました。
モース(1872-1950)は社会学者であり、民俗学者であり、
当時の彼の学生や交友のあった学者からは、「彼は何でも知っている」と言われたり、
思われたりしていたそうです。そういう博識の大学者タイプの人だったようです。
さてさて、ずっと頭に引っかかっていて、
きっと現代の生きにくさをやわらげる一つのヒントになるんじゃないかと思えていたこの『贈与論』。
その贈与についてですが、まず原始的な社会において、「物々交換」とされるような、
その文字通りの意味での淡泊な交換は存在しなかったみたいです。
霊とか魂、そう書くとオカルト的に思えちゃ -
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本書は、経済は市場経済だけではないという論証になっていると思うので、市場経済に苦しめられている私としては救われる書物であった。
贈与経済を実践するためには、贈与を義務としてとらえるというマインドや贈与先の無数のリストを保持するという条件が必要だが、未開社会や原始的な社会においては、神話や呪術や宗教や法や倫理が様々に入り組んで構造化されることで、その二つが人間に与えられている。
そういうものをこれから組み立てようとするのは至難の業のようにも思えるが、やはり必要な気がする。最終的には、人類共同体が生き残るためのきまり(=倫理)の追求の問題になるのかな? -
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ほぼ世界の全域にわたる地域に関する資料を渉猟し、古代の法に関する文献を蒐集することによって、贈与、受領、返礼を義務とする文化が、太古から人類のあいだに、しかも地域を横断する仕方で息づいていることを、比較文化的に浮かび上がらせる文化人類学の古典的研究であるが、そのアクチュアリティは、発表から85年以上を経た今も色褪せない。本書の議論において何よりも重要なのは、人類が太古から、場所によっては「ポトラッチ」と呼ばれる蕩尽の祝祭に極まる歓待と贈与の文化を発展させてきたことであり、またそこに生まれる鷹揚な交換を可能にする関係こそが、文化そのものを育んできたという洞察であろう。それとともに、英語のinte
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業務の中で存在を知り、読んでみました。
前半は、「贈与『論』」というほど一般化された内容ではなく、贈与の原始的な形態にまつわる事例の紹介ばっかりだな、と思って読みました。
後半に入り、贈与に関する一般化についての話が始まるのか、と思ったのですが、強引な推論や飛躍が多い印象を受けました。
結果として、自分にとって、とっても読みにくい本でした。
その原因が、著者のせいなのか、翻訳者のせいなのか、己の無知(著者と自分の時代背景や育った環境の違いも大きいかも)のせいなのか、はわかりませんが。
そもそも、この本における「贈与」という言葉の使い方が適切なのかどうかも疑問ですが(モノを贈る、という意味で -
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現代では人の法と物の法とが区別される。
アルカイックな社会では区別がない。物に人格が宿る。
破壊を伴うようなポトラッチとて利益に無関心なわけではない。
富とはまず何よりも他者を支配する手段なのではないか。
いろいろ考えさせられる。。。
全体的給付と、貨幣による交換との前提条件の違いは
ネットワークの開放具合、密度の差じゃないのかな。
全体的給付では、
・全ての取引が人格を帯びる
・意味合いが常に集団内で確認される。
貨幣の性質・・・富の保存、尺度
これが取引の形や、富への態度に影響しているはずと思う。
後続の研究とか色々あるんだろが、どうなっているのかな?
しかし訳はこれでいいの -
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アメリカなどの先住民のポトラッチなどから贈与が社会の基板であることを説いたモースの視点は感嘆の声を上げてしまう。
贈与の本質は3つの義務で
1.贈与する義務、2.受け取る義務、3.お返しをする義務
で、正のフィードバック構造を持つために、時には人を死に追いやったり争いに発展するという苛烈さからも、贈与という規範が社会の中枢に根付いているのが理解できる。
ただ、先住民の生活の基板が贈与で、資本主義社会に批判点が山のようにあるから、贈与社会に逆行しろという説は、あまりにも急進的であり論理が飛躍していると言わざるおえない。
いわゆる古典というのは、発想の斬新さと論理の跳躍の2つを兼ね備えているこ