阿部真理子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
読書という言葉から想像しがちな「真面目な読書」とは違うけれども、確かにそれも読書だし、あれも読書なんだよと納得してしまう、人それぞれの読書についてのエッセイ。積読だって読書だし、拾い読みも読み違いも、精読も速読も、1人でする黙読も数日かけてみんなで難読本を音読する読破会(!)も、それぞれ違ってそれぞれに味のある読書なのである。
分厚くて難しい本を最初から最後まで、文章を正確に読んで情報を記憶する。そして読んだ冊数で人間の偉さが決まる。それだけが正しい読書であるというような、うっすらとした暗黙の了解が今の世の中にはあるように思うが、それは読書ではなくて労働なんじゃなかろうか。と、個人的に思っている。資本主義においてのお金を情報に置き換えただけだから、多くの人にとって読書という行為が「労働」と同じ退屈で耐え難い苦行になってしまう。
本書に並べられた読書はまったく違う。すべての「なんとか儲け」から自由だ。気ままで気楽で、散漫で、意味不明で、時に非効率なくらい集中してやる。やり方はバラバラでも読書という体験を人生のなかで味わっているのはみな同じで、それはAIに情報を食わせるような事では決してない。タイトルにあるように読書とは本来体験だったのではないかと読みながら思った。せっかく手軽に本に触れられる恵まれた社会に生きているのに、読書を苦行にするなんてもったいない。
本以外なら何でも読みたいという活字中毒のお母さんの話と、なぜか炎天下の海辺やプールでサングラスをしてペーパーバックを読むアメリカ人たちが面白かった。なんで西欧人は海辺で本を読もうとするのか。自分も昔から分からなかった。本は傷むし、紫外線で肌も目も傷むのではないか。日焼けを待つ退屈しのぎに意味もなく活字を目で追うのだろうか。サングラスやサンオイルみたいな立ち位置に本が滑りこんでいるのが新鮮だ。普段折り目もつけられないくらい本を大事にする習慣があるから逆にその気楽さが羨ましい気もする。他にも、いつも「エマニュエル」さんと共に音読を楽しむジットの話や、屋外ライブで音読されて毒気を抜かれるピンチョン『重力の虹』の話など良かった。
どこまでも広がる読書の世界を感じた。読書という体験が本来もたらす気軽で自由で楽しい時間を思い出させてくれる良い読書本だった。銭勘定に汚染されがちな脳みそを洗濯するため、長田弘の詩集『幸いなるかな本を読む人』と合わせて定期的に読み返したい。 -
Posted by ブクログ
すっごく面白かった。
90年代の初めに書かれたエッセイ。
読んだ本の内容について話すことはあっても、読む感覚や本への認識について話すことはほぼない。だから、「それ、自分だけじゃなかった!」「こういう感じわかる…」みたいな感想がどんどん湧いてきた。
本って自由に好きなように楽しんでいいんだ、と思えた。
本を読むってどういうことなのか。きっと、本好きにも、いろんな人がいていろんな読み方がある、そのことを改めて実感。
挿絵がとっても素敵。
エッセイを読んだり、挿絵だけぱらぱら眺めたり、好きな文章に付箋をつけて再読したり。
この本を読んだことは、わたしの中に残っていくと思う。 -
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仕事中のことである。どうしてだったか、読まない本を買っても仕方がないじゃなあかという話になった。私が本屋に行っていたという話をしたためだったろうか、本文中でも触れられている通り本は勝手に増えるものであるから私が本屋に行こうが行くまいが無関係なのだが、普段読書という習慣のない人は本屋と読書を直線的に結びつけたがるものだ。そんなことがあったからか、いつの間にかこの本が手元にあった。これはいい、と思いながら読むこと数分。執筆した記憶はないのに、考えていることをドンピシャに書いてあるではないか。読書に関するエッセイであるから、無論本に関するエピソードが、様々な角度からとにかく大量に載せられている。本を読みながら感想やら考察やらを書き連ねるのが私の趣味の1つなのだが、冒頭数ページでキャンパスノートが見る見る文字で埋まっていく。ある意味、読書に関する専門書と言ってもよかろう、遅読家を自認する作者には皮肉に取られようが、ここまですらすらと読み切れた書も稀である。こいつは読み返すのが楽しみだな、なんてウキウキで付箋を貼る様なぞはさぞかし滑稽に見られようが、これに勝る喜びを未だ私は見つけられずにいるのだから仕方ない。本は数ではない本は数ではない本は数ではない、事あるごとに唱えながら、また次なる書物の旅先を探しに出かけようではないか。
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仕事を始めてしばらく本を読めていなかった。学生時代あれだけ読んでいたのに、すっかり社会の荒波に揉まれて本を手にすることはなかった。
忙しさ、というのは本当は言い訳なのかもしれない。しばらく本を読んでいないと、私はなぜか本に対して申し訳なくなった。読みたいじゃなくて、読まないとなあ、と考えてしまう癖があった。学生時代はその癖で本当に様々な本と巡り合うことができた。この癖は私にとって本への愛情表現なのだが、読まないとなあ、と思ってしまうのはなんだか、会社から帰ってきて自由な時間ができたとき本を手に取るのを阻んでいるような気もした。
そんなときこの本と出会った。出会い方は覚えていないけど、なんだかこの本は読みたいなと強く惹かれた。そして、衝撃を受けた。いや、正直にいうと目新しいことを書いているわけではない。でも、私が色んな本を読んでいたときに感じていた本への愛情が著者の面白おかしい言葉で紡がれていた。その言葉が懐かしさと同時に、そうか本を読むことだけが本を読むということではないのかと思い出させてくれた。
私にとって本を読むというのは、著書にもあるように、精神世界への門でしかなかったのだ。文字を目で追って、そこに書かれている文から意味を理解し、知識を得たり豊かな情緒を感じたりすることだけが本を読むということだといつのまにか勘違いしていた。違う。私は、本に書かれている文を読み、その文から自分の精神世界に浸るため読んでいたのだった。そう思い出すことができた。
本は本であること自体に意味があって、本は読まれるためだけに存在しているわけではない。色んな楽しみ方があって当たり前であり、読まないとなあ、と思う必要もないのだ。
この本のおかげで、私が感じていた負い目は少しだけ軽くなって、本が好きだと思い出させてくれた。 -
Posted by ブクログ
最近は何かとタイパを求めすぎていて、理解しなければ、身につけなければ、アウトプットしなければ、などという強迫観念に縛られていた中で、本書は、まさに『本は眺めたり触ったりが楽しい』ということを気づかせてくれた。
各章(といっても目次立てて分かれているわけではないが、)の終わりのことばに、その章がよくまとめられていた。なかでも、全章の最後に記されたことばにもっとも惹きつけられた。以下に該当部分を引用する。
「おもうに、これが読書の醍醐味である。読書という、きわめて個人的でひそやかで秘密めいた作業は、あらゆる記憶違い、思い違い、読み違い、を許容する。正しい読み方などない。読書の力とは、エーコがいうように、心を鍛えてくれるところに、思索にはずみをさずけてくれるところにある。 p210」 -
Posted by ブクログ
とても良い本だった。
1997年刊行の『眺めたり触ったり』を文庫化したもの。コラムの内容を集めた本のため、短い文章がポンポン連なる感じが読みやすかった。
1997年は私が生まれた年なのだが、本書の中にはもう電子書籍(電子読書)の話が出て来てちょっと驚いた。
斜め読み、拾い読み、索引読み。速読、積読、黙読、朗読。本を買うこと、本を手放すこと。作者の実体験をはじめ、小説やエッセイに書かれていた内容など、様々な「本との付き合い方」が詰まっている。誰でも1つは絶対に「共感出来る付き合い方」が載っているのではないかと思う。
私は時々、「大どんでん返し!」「衝撃のラスト!」などの宣伝文句の話題書を、本屋で最後の2、3行だけ読んで戻す、ということをする。これも私の付き合い方なんだな〜と思った。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ軽快で読みやすい文体、かつ印象に残るエピソードばかりな読後感です。つまりは面白い。
どこがよかったか?例えば、寺山修司は、アンドレ・ジッドにかなり影響を受けていて、あの「書を捨てよ、町へ出よう」を
書いたこと、例えば、ドイツの作家たちは朗読会で食いつないでいること、例えば、ウンベルト・エーコのいう読書の心髄とは思索の助けになること、といった感じである。
こういう風にただ読書をするだけでなく、「面白かった。特に~の部分が・・・」と書いたり人に話したりすることで、読書はぐっと深まるんですよ、というアドバイスも書いてあったので、さっそく実践してみました(笑)
でもまあ結局、本はどう読んでもいいんです。読まなくてもいいと。それこそ、眺めたり触ったりのことについても書かれていて、とても面白かったです。