ちょうど哲学の本を読み始めたところだったので、ニーチェの時代背景も理解した上で読んだので、内容が分かり易く入ってきた。
「道徳」という言葉に縛られて、無条件に善悪を判断してしまうことに警鐘を鳴らしている。
全ての価値観を一旦捨てて、自分と向き合うことで自分にとっての善悪を見極めて、自分の人生を選択していくべきという考えには共感する。一方で、性欲などに対しても正直であるべきとする考えには、やや違和感も感じてしまう。哲学とは難しい。
・知識、経験、生活といった自分なりの事情から世界を見て、重要と感じるものは大きく扱い、そうでないと感じるものは小さく扱う、という判断を日々重ねているわけだ。従って一つのことについての人々の解釈や評価は、すべて異なってくる。その結果「これこそ公平で正しい」と呼べる解釈や評価はどこにもない。「客観的な正しさ」などなく、誰もが主観的に判断しているに過ぎない。
・常識や道徳でも同じことかいえる。日本では正しいとされる常識や道徳が、外国では理解できない非常識や悪習と見なされる場合もあるのは、生活・歴史・文化が異なるからだ。
・考えることをサボりたい人ほど、常識を持ち出して物事を決めつけようとする。
・道徳は、人間の自然性に反する考えや命令を多く含んでいる。
・同情は自分と対等と認めている相手、あるいは自分ょりも格段に上だと感じる相手に対しては芽生えない感情だからだ。同情の相手は必ず、自分ょりも弱く見える人なのだ。ー人は同情することによって相手より上に立ち、自分の力の強さを実感し、何か有用なことをしてやれるという事実に、ひそかな快感を覚えているというのである。
・同情は軽蔑に等しい。誇り高い人は同情する相手を憎み、復讐心すら抱く。
・弱者は自分の弱さを肯定するために、報復できない無力さを「善良さ」、臆病で卑怯なことを「謙虚」などと言い換えて賛美してきた。そういう立場を進んで選択したものを「強者」として称える。こうした弱い群れの価値観に無意識に従う本能を「畜群本能」と呼ぶ。
・畜群本能を持つ人々の間では、「持たないこと、貧しいこと」こそが正義となり、禁欲主義こそが理想の生き方となる。しかし、禁欲主義は人間の自然な欲望に逆行するため、禁欲的な生活は神への信仰の厚さの表れという図式が定着する。
・二ヒリズムとは簡単に言えば、既存の価値を否定すること」をいう。「絶対に正しいことなどこの世に存在しない」という哲学的な立場。
・弱い人はニヒリズムに耐えられず、「他人(メディア、有識者、親、友達、上司等)の価値観」にすがり、「他人の人生」を生きるだけで、自分の人生を生きられない。
・強い人はニヒリズムを受け止めて、自分の内面を徹底的に見つめ直し、本当に心身がはんのうするものに気づき、自分にとって価値ある人生を生きる。
・昔から善悪は決まっているとして疑わず、伝統や因習に唯々諾々と従うとき、自由からは遠い場所で主体性を失っている。
・人々がいつの間にか設定している別次元の理想的世界が「背後世界(天国など)」である。背後世界を設定すぃて物事を見れば、現実の仮の姿(仮象)であり、それは必ず否定する結論が導かれる。到達できない理想を求める限り、人は自分の生を受け入れ、謳歌することができなくなる。
・ニヒリズムに甘んじている人は、いつも他人に認めてもらいたいと思う気持ちを抱いている。人の価値観にすがっており、自分で自分の価値を十分に見出していない。だから、他人からハンコを押してもらいたがる。自分らしい人生を生きることを考えるとき、この状態は危険だといえる。自分の価値を自分で見出していないということは、自分がすべき仕事に専念していないことをも意味する。「自分がやるべき仕事じゃない」などと疑い、よそ見しているようでは、自分の価値と向き合っているとはいえない。
・「今の自分はこれまでの自分から生まれできたものだ」と現実的に考える。辛いことや耐えがたいことに遭遇するのが人生というものだし、それらもまた今の自分を形成する要素の一つ。過去の自分という全体が、今の自分という全体につながっている。見たくない部分から目を背けるのではなく、しんどいことをも自分のものとして受け入れたとき、新しい強い自分が生まれてくる。