田川建三のレビュー一覧
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ネタバレ[聖書を読む人を読む]名前はもちろん知っていても、実際にはその膨大な量からなかなか手が出ない人も多いであろう旧約・新約聖書。ユダヤ文化論等で知られる内田樹、新約聖書の個人全訳を手がける田川建三といった聖書のエキスパートたちが、今日においてもなお多大な影響力を様々に与えているこの両書について語った作品です。
聖書そのものの解説となると、それ自体が自身から遠いものであったり難しいものと感じられるのですが、本書は聖書を読む人の関心や問題意識が主に記されているため、とっつきづらさがまったくない一冊でした。さらに関心を深めるためのブックリストも充実しており、題名にあるとおり、聖書が「はじめて」の人にぜひオススメです。
〜二千年たっているんだから、いろいろあって当然なんです。そのことを知っていただきたいんです。単に崇めたてまつりたい人にとっては、いろいろあっては聖典ではなくなるから困るでしょう。しかしそういう人には、御自分で御勝手に一つお決めになって崇めてください、と申し上げるしかない。しかし私は崇めたてまつる行為につきあうつもりはない、ということです。〜
これはめっけもんでした☆5つ -
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ネタバレ新約聖書学者が生の「イエスという男」について迫れるかぎり迫ろうとした名著。「イエスはキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である。」という言葉から始まって、おそろしく切れ味の鋭い分析が続く。他の学者の著書をばっさり切り、キリスト教会の護教的解釈をばっさり切り、柔和で知的なイエスのイメージをばっさり切っていくのだ。そのうえで、ユダヤ教の支配者層による抑圧に対する反発や権威への皮肉めいた冷めた態度を基本線としながら、痛快なたとえ話や奇跡で民衆の熱狂を誘ったイエスを聖書の記述から浮かび上がらせる。遠藤周作を読んでからのこの本は温度差で風邪というか熱が出そうだ。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という有名な聖句は政治と宗教の分離を言っているのではなく、十分の一税をはじめ莫大な税収入を絞り上げている祭司たち、その支配への批判が込められている、というのは全く頭にない解釈で面白く、驚いた。
しかし、他人の分析を根拠のない空想などと言って大量に切り捨てる割には、自己の主張の裏付けの部分の記述が少ない。新約聖書から脚色や創作を選り分け、イエスの素の発言や行動をすくい出してくるという難行をやっているだけに気になる。たぶん一般向け書籍なので削っているのだろうと思うが(荒井氏への精緻な批判を読むとそんな感じがする)、そういうところも思いっきり読みたかったなあと思ってしまう。決して不満ではない。もっと読ませてほしいのだ。 -
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ネタバレ聖書をどう読むか、作家や批評家が語る。
作家の池澤夏樹は文学によく引用される箇所を中心に紹介する。クリスチャンでない者には「イエス・キリストというのはたいへん優れたスピーチライターであり、コピーライター」(p.33)と見ることもできるという。
旧約聖書研究者の秋吉輝雄は、「清く正しい」新約聖書に対して旧約聖書は矛盾の塊であると指摘する。それは、旧約聖書が時制のないヘブライ語で書かれているからであり、過去に起きたことを記述したというよりも「いままさに眼前で行われている」(p.56)ことを文書に重ねているからだという。「まだ結末が確定していない現在の話」(p.56)である以上、矛盾が内包されていても気にしない。これは、時制を区別するギリシャ語で書かれた新約聖書との大きな違いであるという。
哲学研究者の内田樹は、レヴィナス研究から聖書を読むようになったと語る。ホロコーストを生きのびたレヴィナスは、神の不在を説くようになる。これは単にユダヤ教を否定し無神論に走ったというわけではなく、彼はユダヤ教とはそのようなものだと解釈したのであった。つまり、「人が困っている時には助け、善行すれば報奨を与え、邪な行いをすれば罰を与える」というような神が存在するのだとすれば、それはもはや人が神をコントロールしていることになる。そうではなく、「神は地上の出来事には介入してこない」(p.76)のだと説いた。
そのほか、橋本治や吉本隆明も論考を載せているが、最も面白いのはやはり田川建三のインタヴューであろう。
新約聖書を研究していく上で彼はさまざまな読み方の可能性を提示する。それは、今現在の聖書の文面を絶対視する教会の考えとは相容れないものだ。田川によれば、当時の地中海世界ではギリシャ語が国際語として用いられており、したがって新約聖書もギリシャ語で書かれたが、しかし書いた本人にとってギリシャ語は母語ではなく第二言語であったりするため、ギリシャ語の文法や語法の誤ちが含まれているのだという。また後に西方教会がラテン語訳した際にも誤訳が発生した。こうした文法や語法の誤ちを指摘できるのは、彼がギリシャ語をはじめ様々な言語に長けているからだ。聖書の内容を唯一絶対とせず、古文書として批判的に読み込む彼の姿勢には共感を覚える。
インタビューの中では彼の人生もつづられている。彼の学生時代に始まりフランスやドイツでの研究生活、国際基督教大学(ICU)での学生運動、そしてザイール国立大学での生活など、すべてが興味深い。ザイール(現コンゴ民主共和国)では、白人の宣教師が語ろうとしなかった貧困についてあえて取り組んだという。学生に対して「幸いなるかな、貧しい者」と説いても、実際に貧困に苦しむ黒人の学生にとっては貧しさが幸いであるわけがなく、到底受け入れられるものではない。田川はこうした学生との対話を通じて、この言葉をどう理解して読んでいくべきかを語る。
「神を信じないクリスチャン」と書かれているが、彼は無神論者ではなく不可知論者であるため、正しくは「神を信じるとはいえないクリスチャン」というほうが正確かもしれない。神の存在を積極的に認めることはしない彼の考えが、このインタヴューから明らかになる。そして、それでは「クリスチャンになる」「クリスチャンである」ということはどういうことなのか、についても考えさせられる。 -
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イエス・キリストではなく実在したナザレのイエスがどのような人物であったかを書いた本。この人の書くイエスは律法学者に対して「ゴチャゴチャうるせえ、黙れ」と言いそう。理屈をこね回す人を嫌い、宗教に対して皮肉的な態度をとる人物だ。仲良くなれそう。
タイトルと厚みからもっと固い感じの本かと思っていたが、そうではなかった。なんというかネット記事にありそうな感じ。初版のあとがきが書かれたのは1980年だけれども。
それにしてもこの著者はずいぶんと好戦的であるように思える。わざわざイエスについて語った人を名指ししてはこき下ろすのだから。このような内容を本に書けるのは、そうとう自分に自信が無いとできない。 -
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聖書は新約も旧約読んだことがありませんが。
読む機会があればとおもっていたところに
この本を見つけたので。。
また、書いている人が
池澤夏樹氏・内田樹氏・吉本隆明氏と豪勢な方々
だったので。。。
読んでみた後の感想としては、聖書の内容ではなく
読み方やとらえ方が書かれてある内容でした。
ただ、前述で書いた人よりも、
田川建三氏(新約聖書学者)のインタビューが
とても面白くよかったです。
新たな逸材(本当に失礼ですけど)見つけた感じ
です。
1.聖書ってどんな本? 山形孝夫
2.読み終えることのない本 池澤夏樹
3.旧約聖書は以外に新しかった 秋吉輝雄
4.レヴィナスを通して読む「旧約聖書」 内田樹
5.神を信じないクリスチャン 田川健三
6.聖書学という科学 山我哲雄
7.旧約的なものと新約的なもの 橋本治
8.マタイ伝を読んだ頃 吉本隆明
9.聖書を読むための本 山本貴光 -
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本書を手に取った動機は、教養としての宗教を知りたいという欲求からでした。本書は、季刊誌『考える人』の特集を再編集、改稿したもので構成されています。作家や宗教学者と聖書との出会いやつきあいに焦点をあてている点がユニークだと言えます。その聖書を語る人たちは、山形孝夫(宗教人類学者)、池澤夏樹(作家、翻訳家)、秋吉輝雄(旧約聖書、イスラエル宗教史研究者)、内田樹(作家)、田川健三(新約聖書学者)、山我哲雄(聖書学者)、橋本治(作家)、吉本隆明(作家)、山本貴光(文筆家、ゲーム作家)の9人。この本は決して体系的に聖書やキリスト教について学べる本ではないと思います。あくまで、個人の人生の中での聖書がどのようなものだったかという部分が中心になっています。しかし、それゆえに「聖書」という一見とっつきにくいものへの入り口の役目を果たしてくれそうです。
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クリスチャンではありませんが、ずっと聖書に興味があって、いつか腰を据えて読みたいと思いながら馬齢を重ねてきました。
本書は入門書として手に取った次第です。
へー、聖書ってそうだったんだと、膝を打つやら自分の無知を痛感するやら。
本書は新約聖書学の泰斗、田川建三さんはじめ池澤夏樹さん、内田樹さん、橋本治さんらがその魅力を語ったガイドブック。
学者さんばかりだとどうしても硬くて素人にはとっつきづらい内容になりがちですが、執筆陣が実にいいですね。
あの吉本隆明さんの論考(マタイ伝を読んだ頃)も収録されてます。
第1章は宗教人類学者の山形孝夫さんによる「聖書ってどんな本?」。
聖書の基礎について講釈してくれていて、素人には助かります。
そこに日本最古の聖書訳(ヨハネ福音書)が出てきます。
ハジマリニ カシコイモノゴザル。
コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。
コノカシコイモノハゴクラク。
何とも名状しがたい雰囲気がありますね。
山形さんは何度も声に出して読んだそうです。
その体験について、こう語っています。
「すると、不意に、冒頭の一節から不思議な何者かが立ち現われてくる予感がした」
私も何度か声に出して読んでみました。
たしかに、何か胸がざわつくような感覚がありました。
恐らく馴染みのないカナ書きであることと、一読して意味がすんなりとは把握できないこと、一方で訳者が腐心して訳した様が想像できることなどが要因と思われます。
皆様ももし良かったらどうぞ声に出して読んでみてください。
文学者として聖書を読み解いた池澤さんの「読み終えることのない本」も面白かったですが、私はやっぱり内田さんの「レヴィナスを通して読む『旧約聖書』」に惹かれました。
レヴィナスはホロコーストを生き抜いたユダヤ人で、フランスの哲学者です。
ホロコーストのあと、ユダヤ人の多くは信仰の揺らぎを経験したそうです。
「なぜ神は私たちを見棄てたのか。民族の存亡のときに介入しないような神をどうして信じ続けることができるだろうか、と」
なるほど、よく分かります。
私だってそうなります。
これに対してレヴィナスはこう説いたそうです。
長いですが引用します。
「では、いったいあなたたちはどのような単純な神をこれまで想定していたのか、と。人間が善行すれば報奨を与え、邪な行いをすれば罰を与える。神というのはそのような単純な勧善懲悪の機能にすぎないというのか。もし、そうだとしたら、神は人間によってコントロール可能な存在だということになる。人間が自分の意思によって、好きなように左右することができるようなものであるとしたら、どうしてそのようなものを信仰の対象となしえようか。神は地上の出来事には介入してこない。神が真にその威徳にふさわしいものであるのだとすれば、それは神が不在のときでも、神の支援がなくても、それでもなお地上に正義を実現しうるほどの霊的成熟を果たし得る存在を創造したこと以外にありえない。神なしでも神が臨在するときと変わらぬほどに粛々と神の計画を実現できる存在を創造したという事実だけが、神の存在を証しだてる。」
深いですね。
つまり旧約聖書では、神は信者に霊的成熟を求めているということです。
本書刊行のそもそものきっかけとなった、田川さんへのインタビューも読みごたえがあります。
だって、タイトルが「神を信じないクリスチャン」ですぜ。
反骨の新約聖書学者の語るエピソードの数々は本当に飽きさせません。
さあ、聖書を読みましょう。 -
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イエスが語った教説は、歴史的・社会的状況を超越した普遍的・無時間的な真理などではなかった。彼がめざしていたのは、みずからの置かれた歴史的場を意識しつつ、それに自覚的に切り込もうとしていたのだと著者は論じている。
神学者たちは、イエスの言葉を彼が生きていた「歴史的場」から切り離し、そこからイエスの教えの「本質」を取り出そうとする。だがそれは、イエスの言葉を現代的な宗教思想の枠組みにはめ込むことにほかならない。著者は歴史的資料を精査することで、イエスの個々の伝承を歴史的な場の中に置き戻して捉えようと試みている。
一例をあげると、「良きサマリア人の譬え」を著者は次のように読み解いている。当時のユダヤ人は、サマリアを「異邦人」が多く入り込んだ堕落した都市と見ていた。イエスは、ユダヤ人のサマリア人に対する差別意識を告発する。だが、イエスはそれを「心優しくサマリア人を受け入れましょう」という説教によって語ることはしない。何より、ガリラヤ人であったイエスや彼の生きていた周囲の民衆の上にも、サマリアと同様の差別がのしかかっていた。イエスは、「隣人」の範囲を拡大したとしても、同じ差別の構造が再生産されることを知っていた。だからイエスは、「隣人」の範囲を定めるのではなく、「誰がこの被害者に対して隣人になったか」という問いを対置したのだと著者は主張する。
「汝の敵を愛せ」という言葉もこの文脈で理解される。「隣人を愛せ」という主張はその裏に「敵を憎め」という主張を伴わざるをえない。この構造を照らすために、イエスは「敵を愛せ」という逆説的な言葉を投げつけたのだった。こうしたことから著者はイエスを「逆説的反抗者」と特徴づけている。
「憎しみを持ってはいけません、敵をも愛するほどの心をお持ちなさい」とにこやかに説教するときには、こうしたイエスの逆説的な意味は失われてしまっている。キリスト教は、イエスが時代状況と自覚的に切り結ぶために選んだ毒をもった言葉を取り込み、骨抜きにしてしまったと著者はいう。確かにイエスの言葉には、こうした説教へと変質してゆく萌芽を含んでいた。だが、批判されるべきはそうした不注意な言葉を語ったイエスではなく、二千年たってもイエス一人を克服できない社会の方ではないのかと、著者は述べている。 -
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聖書について、10人の研究者や作家たちの解説やインタヴュー記事をまとめた本です。
本書の中心になっているのは、新約聖書学者である田川建三へのインタヴューで、やく三分の一のページ数を占めています。インタヴュアーを務めるのは湯川豊で、主に田川の来歴について尋ねながら、彼がどのような経緯で聖書の研究にたずさわり、どのような同時代的な問題関心のもとで聖書を研究する新たな視角を見いだしてきたのかといった話を引き出しています。
田川のインタヴューにくらべると短いものですが、吉本隆明も本書のなかで聖書とのかかわりを語っています。こちらでは、軍国主義少年だった吉本が、敗戦に直面した日本人のすがたと、聖書にえがかれているイエスのことばとの対比によって、どのような問題をつかみ出したのかということが語られ、やがてその問題意識が『マチウ書試論』へとつながっていったことが回想されています。 -
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ネタバレ■『イエスという男』 田川建三著 作品社
【後編 イエス路程】
日本においてのイエス研究の中で、一般にもそれでも受け入れらているといえるものの筆頭は「史的イエス」研究である。「史的イエス」とは何かというと、いわゆる人間イエスに関わることである。信仰の対象として、十字架において人類に赦しを与える、神の子イエスではなくて、我々と同じように歴史の片隅に抗うことができず生まれ、33年の人生を歩んだ、人間としてのイエスはどのようであったのか、その姿に迫っていくのが「史的イエス」研究という分野である。そんな日本の史的イエス研究者の中で、おそらく最も著名で信頼を受けているのがこの田川建三だろうと思われる。同じく日本の新約聖書学者である荒井献も著名であるが、二人の仲が良くないからか、キリスト者らしさが残るからか、荒井においては田川ほど、信頼を勝ち得ていないように思う。
荒井を「キリスト者らしさが残る」と言ったのは、田川はそうではないからである。田川は唯物論者であるとは言えないまでも、不可知論者であることは間違いない。不可知論とは、理性や経験を越えるものは絶対に知りえない、ということを主張する者たちのことである。田川は宗教は信じない。信仰の対象としてのイエスも信じない。しかし人間イエスの虜である。
この著作では、2000年前のパレスチナにおいて、生きて死んだ「イエスという男」の真実に、福音書の批判的研究と、歴史的考察を重ねながら迫っている。そう言う研究の結論として、イエスを「時代の反逆者」と位置づける。イエスは時代に反逆した。イスラエルの政治的状況、律法に対する理解の本質、人間的道徳のあり方。時代において不正や不義と壮絶に闘い、時代に抗ったため壮絶な死を迎えた。自分の死を予感しながらも、その生き方を貫いたイエスの姿に強烈な魅力とシンパシーを感じ、その情熱のもとに書き下ろされたのがこの著である。
史的イエス研究の立場では、イエスが当時自らをメシヤだと自覚してはいなかったという理解が一般的である。メシヤであるというのは、後の弟子たちが祭り上げた結果の呼称であるという。福音書の記述も歴史的な真実を述べているものと、信徒たちの信仰を介しての願望を述べているものとに分かれるのだ、というのがその立場である。私たちから見ても、それはその通りだと思う。反面それだけが真実であるとは言えないと思う。
田川の研究には相当の誠実さを感じる。不可知論者として、論理的積み重ねの上にも、イエスの生き方を理解できるし、人間としての魅力を感じうる結論に至ったのは功績であると思う。しかしそれはイエスの生き様の人間としての誠実さを汲み取っただけであって、やはり宗教や信仰においての超越的な姿がなかったかというと、その証明にも足りないのだ。不可知論はあくまでも理性面においての不可知をいうことはできても、人間が知りえないことの不在を証明することもできないわけである。日本において、田川が支持されやすいのも、その研究の誠実さによる魅力もあるけれども、キリスト教の枠とは全く違う仕方で描かれた人間イエスに、日本人の理解が及んだからであって、真偽においての帰着とはまた別の問題である。
個人的には、20代半ばに非常に関心を持った史的イエス研究であり、この書でもあったけれど、信仰における実存の深まった今においては、頭の片隅に追いやられるぐらいの重要性でしかない。一度読む価値はあると思う。そしてその内容はなかなか魅力的である。しかしそれほど影響を受けることは難しい。私にとってはそのへんの位置にある。
<イエス伝関連資料>
ルドルフ・ブルトマン 『イエス』
田川建三 『イエスという男』
八木誠一 『イエス』 清水書院・人と思想シリーズ
遠藤周作 『イエスの生涯』
フランソワ・モーリヤック 『イエスの生涯』 など