竹鶴孝太郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
「日本で本物のウイスキーをつくりたい」妥協を許さず果てしない夢に生涯を捧げたニッカウヰスキー株式会社の創業者、竹鶴政孝。彼を「マッサン」と呼び生涯支え続けた伴侶リタ。スコットランド留学から帰国し、借金に借金を重ねながら原酒づくりに邁進する日々。戦争の暗い影。原酒の熟成を待つ間に資金繰りのためにつくっていた林檎ジュース。そして苦闘の末、一九四〇年に宿願の『ニッカウヰスキー』を世に送りだします。名前の由来は「大日本果汁株式会社」を略して「日果」(ニッカ)、本格ウイスキー誕生の歴史的瞬間。スコットランド留学から数えて二十二年目の秋のことでした。読んでいる途中でニッカウヰスキーを買いに行きました。先駆者として艱難辛苦に挑んだ精神力。本物を生み出した技術者としての透徹した眼力。ウイスキーづくりに適した運命の地、余市との出会い。そして、その自然との邂逅。琥珀色の液体を口に含むと、いまでもそれらが脈々と息づいているように感じます。ウイスキーが美味しくなる一冊
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Posted by ブクログ
副題にあるようにマッサンこと竹鶴政孝の孫・孝太郎氏の書いた本。同居の孫からみた祖父母である政孝、リタ、家族、工場回りの話で、これがめっぽうおもしろい。最初はなんだ便乗本かと思ったが、なんといっても同居していた人の書いた本である、生の姿が語られる。また孝太郎氏は生まれた環境を「所与のもの」と表現していて、著者は昭和28年生まれなので、リタは8歳の時に64歳で亡くなっているのだが、同級生のおばあちゃんと「違っている」とか「違ってない」とかではなく、もう自分にとって祖母が青い目なのは「あたりまえの普通のこと」なのだとある。
リタについては、漬物をつけたり、いかに日本人に同化したかと美談風に語られるが、「文化や美意識まで日本人のそれと入れ替えたわけではなく」、わが家といえども自分の部屋から出たら、神の目を意識しきちんとした格好をする、などという生まれ育った流儀を政孝は尊重し、その一方で政孝はリタに遠慮することもなく自分の慣れ親しんだ和の精神と文化を尊んでいたので、「わが家ではふたつの文化が溶け合うことも、反発しあうこともなく」自然な形で共存していたと書いている。政孝は和食を好み、そのためリタは梅干しや沢庵を漬けていたのだが、出張でいない時にはここぞとばかり食卓にはローストビーフなどが並んだという。ただ、父母は大人になってこういう生活になったので葛藤があったと思うが、自分は生まれた時からそうなので、何の不思議も葛藤もなく和の政孝流と洋のリタ流のふたつの流儀が仲良く共存している、と書いている。
森瑤子の小説の世界では、養女のリマにどうして母の目が青いの?として、母に買ってもらった青い目の人形の目を黒く塗る、という場面が出てくる。本当の子供だったら?とか小説の中だから、というのもあるが、やっと孫の代になって、リタは受け入れられたという気がする。
孝太郎氏の覚えている、祖母リタから母に伝わったスープや件のクリスマスプディングなどのリタの料理のレシピや、また祖父政孝の毎晩の水割りは孝太郎氏の妹が作っていたとか、まさに暮らしがしのばれる。そして、リタが亡くなった朝「おばあちゃんが死んじゃった、おばあちゃんが死んじゃった」とリビングまで聞こえた声が今も耳に残っているという。そして祖父の亡くなる病室では「文化の違う人間同士が一緒になるのは大変なことだ。わしは、おばあちゃんには苦労をさせてしまった。だからお前は国際結婚はするなよ」であったという。
著者は15歳まで余市で過ごし、そこでの生活はかなり野性味あふれるものだ。項目に「七光りの葛藤」があるが、著者が就職する昭和50年頃にはすでにニッカは銘柄会社である。結局ニッカに就職し約20年勤め3代目は3代目でいろいろ葛藤はあったようであるが、外国人の祖母を所与のものとして受け入れたのと同じく、基本的にとても素直な性格の人という印象を持ち好感を持った。