挫折はチャンス、こう言うのは簡単だが、実際にマインドをポジティブな方向に持っていくのはとても難しい。壁が身近なものであるほど、難易度は高くなる。できるもんだろと侮っている時こそ、足元を掬われがちなのである。
『伊勢物語』における失敗は、ここ最近で私が経験した挫折の中でもトップクラスに重いものだった。学生時代に慣れ親しんだものと思い込んでいたことが、この重みを最上級のものにした。何事も舐めてかかってはいけない。
受験勉強でも、大学の講義でも、なんなら興味を持って読んだ新書でも触れる機会のあった『伊勢物語』だが、一般的には簡潔なものとして知られている。在原業平のものと思われる和歌に、詞書よりやや難しい程度の説明がつく本書は、文法や単語の面から見れば、内容の薄さもあり上古の古典の中では優しい部類に入るであろう。しかし侮ってはいけない。文章が簡素ということは、それだけ説明も省かれていることを意味する。また論語などの漢文にも言える事であるが、簡潔な文を好むものは、その短さ故に一つの言葉に多くの意味を持たせようとする。つまり普通の長文よりも作品背景と読解力が試されるのである。
試みに、作中の中から一首抜き出し、現代語訳と共にここに載せようと思う。
原文:いにしへは ありやもしけむ 今ぞ知る まだ見ぬ人を 恋ふるものとは
現代語訳:昔はこんなことがありでもしたのでしょうか−私は今の今まであるはずがないと思っていたのですが-今初めて知りました、まだ一度も見た事のない〈亡くなった〉お方−実はあなた−を恋慕うものだなんて。
ものすごく長く、訳文として不適切だと思うかもしれないが、何度か読み返してみると、この訳が八割近く原意を表していることがよくわかる。ちなみに肝心の地の文はものすごく少ない。文法、単語、歴史的背景、当時の風俗や作法、こういった古文に関わる全ての要素を熟知していないと意味がとれないようになっている。安易に直訳してしまうとわけがわからなくなってしまうのだ。
本書がどうして歴史を超えて名著と言われるかが、原文を通読してみてよくわかった。貴族的な美的感覚、いわゆる「文章の奥底でほのかに香る雅さ」がいたる所に見られるからだ。地の文にしろ、和歌にしろ、全てが寓意に満ちていて、一見しただけでは関係者達の心理が掴めない。しかし解説を読みながら何度か読み返してみると、ふわっと儚げな香りが漂い始め、体の芯へと浸透していくのが感じられる。『万葉集』の頃の直情的な表現とは一線を画す世界だ。もちろん『万葉集』にも仄かな「をかし」はあるし、どちらかが優れているというわけではないのだが、『伊勢物語』のほうがより奥深さが感じられる。
ただ、この奥深さが裏目にでることもあると感じた場面があった。
とある女性が「昔男」に恋をしたが、世間体を気にして誰にも言えないでいた。その女性が恋煩いから病気になってしまい、死を目前とするところに至ってようやく「昔男」への恋心を家族に打ち明ける。両親は娘の強い思いを知り、「昔男」を自邸に招いて娘と対面させるのだが、ここで「昔男」が詠んだ歌がとにかくわかりづらい。当時を生きていた人からすれば耳に馴染んだ表現なのかもしれないが、千年以上の時の隔たりがある上に無学な私にはいまいち理解ができなかった。様々意見があると思うので、該当の和歌に関してはそれぞれ自ら読んで確認して頂きたいと思う。
ここのところ古典を読んでいて気付いたのだが、私にとって上古文学というのは魔境に近いものだった。色恋沙汰や高貴さとは無縁な人生を歩んできた私からするとかなりハードルが高い。しかし、やはりその言葉は美しく、趣の深さは魅力的なのだ。今回の失敗をしっかり反省し、これからも上古の文学に挑み続けていきたいと思う。