依光隆のレビュー一覧
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七歳になったばかりの少女が、沖縄戦争に巻き込まれ、逃げる途中ですぐ上の兄が流れ弾に当り死亡する。二人の姉とも別れ別れになり、一人で逃げることになった。
その間、いくつもの死体を見ただろう。感覚の麻痺していくさまが苦しくなる。
最後の最後、ガマで出会った老夫婦から命を大切にしろと諭され、老人の褌の前垂れを切り裂き、三角にしたものを枝にくくりつけた。それを高く掲げて歩けと強く言い、少女・富子を外に出す。
終戦を迎え、投降するように呼び掛けがあったのを、老人が知ったからだ。
老人の教えの通り、富子は白旗を掲げて堂々と歩いた。そして、別れ別れになった二人の姉とも再会した。
後に、富子は白旗を掲 -
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・とにかく信じられない、衝撃の連続でした。
・ほんの6,7歳の少女が、たったひとりで?本当にひとりで?こんな過酷な状況野中で、3ヶ月ものあいだ、こんな生活やこんな立ち回りをしていたの?
・戦争を直接知らない私達からすると、信じられないようなエピソードが次から次に押し寄せてくる。でも写真が教えてくれる、紛れもない現実であり、事実であるのだと。
・この写真の少女、見たこともない武器で攻撃打たれると思って、だからこそそれに向けて笑顔で手を降るこの少女に、思いを馳せてしまう。自分だったら、大人の自分だとしても、そんなことぜったいにできない。
・どのエピソードも衝撃を受けるのだけど、やはりおじいさんおば -
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戦後22年経った1977年、コザ市(現沖縄市)の洋書店で見つけた写真集の白旗を持った少女の写真。それは、沖縄戦終戦の日の自分だった。
この写真を撮ってくれたのは誰なのか。さらに11年後の1988年、撮影者であるカメラマンを探すため、プラカードを持って、ニューヨークの平和行進に加わったという話から、この記録は始まる。
「あのときわたしを撮ってくださったカメラマンは、いまどうしているだろう。もし、元気でいるのならお会いして、ひとこと感謝の言葉をつたえたい。」(p13)
それは、どんな「感謝」だったのだろうか。
少女が持っていた白旗は、沖縄戦の最後、ガマで自分を匿ってくれたおじいさんとおばあさん -
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第二次世界大戦下の沖縄。戦地となり大量に人が死ぬ中で、奇跡的に生き残った著者、富子の実体験を綴った本。
自然な言葉で書かれており、小学校高学年から読めそう。しかし内容は悲惨でむごたらしい。当時の状況が目に浮かぶ。
ウジ虫のわいた水を飲んだり、兵隊さんの死体から金平糖をもらって食べたり、ネズミが落としていったサツマイモを食べたり。
家族とはぐれた富子は、最後、洞穴(ガマ)の中で見知らぬ老夫婦と過ごす。おじいさんは自分の最期が近いことを悟ると、富子にふんどしで作った白旗を持たせる。「これは世界に通じる安全の印だから。」と。
その姿がアメリカ兵の写真に撮られたのは、昭和20年6月25日。後の -
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おおよその概略は知っている、と思っていたが、読んで良かった。
少女(著者)が掲げている白旗が、どのようにして作られたのか。どうして手を振ろうと思ったのか。そこに、この体験記の真骨頂があると思う。
本人に自覚はなかったと思うが、ガマの存在、そのガマにいたおじいさんとおばあさんが諭す「人の命は、その人一人のものではなく、父や母、先祖から受けついたもの。命が一番大事(命どぅ宝)」の精神は、沖縄人ならではの古くからの教えだ。
また、敵と対峙する時こそ笑顔を見せろ、という父の教え。
そういった、戦争に関わらず人々の心に根付いていた気持ちが、少女を救うことになったのではないだろうか。
「白旗」は「しらは -
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子供向け新書の「青い鳥文庫」からの出版だったので、子供用に安易な表現に改定されているのか?と疑問を持ちつつ購入。
あとがきを読んだ限りでは特別な改定はされていないようだった割には、ほかの手記にあるような生々しい表現は殆どなかった。
6~7歳の子供が一人で鉄の雨を逃げ延びていたなんて、本当に信じられない。筆者も「本能」という言葉を度々使っていたけれど、本当にそうなのだと思う。動物や昆虫の動向を観察し逃げ延びるというやり方は、子供であったがゆえにできたことなんだろう。星明りだけでしっかり歩けたという記述もあったし、子供ゆえに体の適応も早かったのだろうか。
父親の言葉を思い出して、適宜実行してい