ほんの少し「エチカ」概要を知った時は、「エチカ」の「神」を理解した気になっていました。自分の意思に投影もしていました。しかし、しっかり読んでいくうちに訳がわからなくなりました。私たちが認知できないこと、つまり、精神と肉体を含んだそれ以外を表す「無限の領域」について触れており、この辺りで理解が追いつかなくなりました。この世を取り巻く「形」や「完全」として認知・評価できるものをスピノザは「偏見である」と論破しており、平和主義なのか、屁理屈なのかわからなくなってきました。でも、丁寧なこの実体や生き方の証明は本質的ではあると思います。
素敵な考えでしたが、残念ながら、スピノザの考えを極めるとヒッピー化してしまい、この世のルールから隔離されてしまうと思いました。
【メモ】
スピノザ
→オランダ生まれ
→合理主義哲学者
→「商売で得る利益よりも自己実現の利益の方が大きい」と考えて、哲学の世界にいく。
→哲学の世界に行く前から「無神論」思想を持つ為、ユダヤ教を破門になる
→「神学政治論」1670年、聖書の解釈・解読を試みた。1674年に正式に禁書。
「エチカ」
→「倫理学」という意味
→東洋的な真理間(悟り)に近い
→個別の善を達成するためにはどうしたら良いかを説いた倫理の本
→デカルトが主流となっているこの世界で、エチカに触れることで、相対的に私たちが無意識に縛られている常識を浮き彫りにすることができる。
「幾何学的秩序によって論証された」とは
→エチカの構成は非常に特殊な形式
→「定義」が羅列、「公理」、それを前提とした「定理」と「補足」
→数学の証明のような雰囲気
「実に、光が光自身と闇とを顕すように。真理は真理自身と虚偽との規範である」
→真理を判断できる何かがあるとするなら、それもまた真理でないとおかしい
→真理自体に自身の真理性を証明する性質がなくてはならない
「光と闇」
→真理の判断を真理以外の別のツールに求めると「無限退行」が発生し、真理についての判断が保留され続ける
→光はその性質から闇を作り出す
→しかし、光は闇を表現するだけでなく、光はそれ自身も表現している
→つまり、真理はその性質上、それに触れればそれが真理だと認められる
→真理とは普遍的かつあらゆる人に説明が可能なものではなく、あくまでも個人的・個別的に体験として感じることのできるもの
「我思う、故に我在り(デカルト)」
→スピノザと逆の考え
→明晰判明
→ある概念が明晰で判明であれば、それに基づいて表象すふことは真である
「実体」「汎神論・神即自然」
→それ自体が原因となるような究極の存在
→実体が複数あることは考えられない
→原因を逆向きに追い求めると、必ず最後には何か一つの究極にたどり着く
→よって、実体はたった一つの唯一のものである
→その実態に名前をつけるとしたら、言語を超えた完璧な何かという意味での、「神」という言葉以外に妥当なものはない
→実体は唯一それしか認められないのだから、外部があるとするならば、他の実体を認めることになるから、実体に外部があるとは考えられない
→実体が唯一のもので、外部を持たないのであれば、我々を含めた我々が認識する全てのものは、実体の内部に含まれることになる。世界は実体そのものである。(汎神論)
→【必然的に「私たちも神の一部である」という結論】
→【「私たちが認識する全てもの、その全てが「神」の一部なのです」】
→あらゆるものに神が宿る(新道的汎神論)のではなく、あらゆるものは神の一部なのである(万有在神論)のではなく、あらゆるものは神という唯一の実体そのものである(神即自然)
→神は外部を持たない
「個物」「様態(mode, 神の現れ方)」
→自然のありありとした「差異」について
→神は法則に則って変化する
→神は神自身の法則によって内部で様々に形を変状(変化)させている
→その瞬間ごとに特定の「様態」をもつ
→その様態(現れ方)そのものが個物を表現している。
→真の意味で主語になりうるのは神のみ、それ以外の「個物」は副詞的存在
→宇宙を作る粒子は、外部から刺激を受けることなしに、自身の法則の中で変化を続けていく
→我々人間も、絶対的な法則の変化の一過程でしかない
→神の現れ方の一番特定の個物なのであれば、個物は神の「力の表現」だと言える=「このような形で現れることができるぞ」という力
→スピノザ的神は全能ではない。全てを包括する超越的な存在ではあるが、その力の表現には限界がある。つまり、表現できない個物もある。
「神の属性」
→「心身並行論」
→神の様態を違う方法で同時に認識しているだけである
→「延長」も「思惟」も神の属性の一つである(双方に因果関係はない)
→物質的実体と心的実体は確かに両方とも認識することが可能だが、それらが相互的に関係して変化しているのではなく、神の変状による表現を人間が二つの属性として認識している
→神の現れ方を二つの属性から認識
→影響しあって見えるのは勘違い
→一つの事柄を二側面から見ているだけ
→どちらも神の変状の現れであり、両者は影響し合わない。この二つに関係性を見出すのは人間の誤解。
「神の属性は無限に多く存在する」とは
→「延長」や「思惟」は、「無限にある属性のうちたった二つでしかない」
→私たちの前にはその属性は表出してない。または、私たちはそれを認識する力がない。
→人間の認識能力では「延長」と「思惟」の二つの属性しか認知することはできない
→その二つを特別視し、両者には相互的な関係があるのではないかと誤認してしまう。
「善悪」
→「善悪は本質的に存在しない」
→【前提】全ての個体や事柄は神の現れである。それぞれに絶対的な優劣はない。あるのはそれぞれの完全性だけである。ゆえに絶対的な善悪は存在しない。
→人が善悪を感じるのは、そこに何かしらの偏見があるからであり、状況と対象における相対的差異が原因しているとする。
→相対的な差異の結果現れる個別の善と悪は認める。
→自分にとっての善(活動能力を向上させるもの)を追い求めるのが幸福な人生の鍵である
→なので、「自身の活動能力を向上されるものは何か」ということを熟知してないといけない
→そのために、実践を通して「体は何をしうるか」を研究しなければいけない
→自分にとって善いものを見つける努力をし、その善いものをなるべく集める生活をせよ。
「完全」と「不完全」
→「完全」=後付け。後から付け加えられた常識に照らし合わせているから発生する概念。つまり、偏見以外の何者でもない。
→「完全」を定義すると、どうしても、差異が生まれる。差異には優劣のレッテルを貼ることができる。それによって、完全・不完全の概念が現れる。
→個体それぞれが神の力の表現なのであり、個体それぞれに形の違う「完全性」が現れている。
→この世に「不完全」なものは存在しない
「コナトゥス」
→「方向性を持った力」のこと
→その方向は、「恒常性」に向く。それは、個体が本来持つ固有性のこと。
→体内の状態を一定に維持できる能力のことを表す。
→「欲望」とも言える。
→個体特有の恒常性から逸脱した状態をもとに戻そうとする力であると解釈できる
→「変状」=コナトゥスの力と外部の刺激の相対的関係によって、個体が変化すること。
→コナトゥスこそが個物の本質
→「死」は、個物における、本質の変化。個物の「死」または「終わり」によって失われるものが、個物の本質。
→コナトゥスは、自分のことを忘れてしまう状況などでも、失われてしまう
→「自殺」は、恒常性を崩壊させる行為。「自殺の原因は、コナトゥスによるものではなく、徹頭徹尾、外部の強制力によるものである」=その原因は、全て外部からの刺激による強制である。
→「活動能力」を向上させることは、コナトゥス(本質)にとって喜ばしいこと(=善)
→外部の刺激が自分にとって善なのか否かを判断する術を身につけるために実践と実験をしなければいけないし、受け取る刺激の範囲を広げる努力をしなければいけない。
「理想の社会」とは
→「お互いのコナトゥスが踏み躙られない社会」
→それは管理でもなく、奔放でもない、相互のコナトゥスを尊重した、協調が前提となる社会
→「形」が重視されている社会に対して厳しい批判をした。
「自由」
→一般的には、自由は、制約のないもの。
→しかし、これを否定。
→「与えられた制約の中で、活動能力を高めること」が自由と定義。
→【魚にとっての自由】は、水中(制約)から解き放たれることではなく、水中(制約)でよりよく生きること。
→【世界は決定的なもの】とは、【我々の生も決定的なものである】つまり、【その制約からは逃れられない】なので、【制約を前提に生きることが重要】
→神の法則=自然の摂理から抜け出すことは【不可能】
→「制約」=主体を縛る外的な環境ではなく、主体を縛る内的な力である→コナトゥス(必然性)
→人は自分自身による必然性に縛られている
→外部の原因に影響されて行動することは不自由である
→「自由」のためには「経験」が必要
→「経験が浅い」「受動的」=「不自由」
→世界を飛び交う様々な刺激に対するアンテナをより鋭敏にするための努力をする
→「自由」=「自立」「能動的」
「能動」「受動」
能動→その結果に対して自らが原因となること
受動→その結果に対して外部が原因となること
「能動」=ある出来事に対して自分の力がどの程度表現されているか?
「自由意志」「自発性」
→否定
→自発的な意思(自由意志)は存在しない
→「自発的」という言葉はない。
→全ての個物は神を原因にしているから、原因なく現れる意思などを想定できない
→だから自発的に努力するということも同様にあり得ない
→自由意志はないけど「意識」は存在する
「人は自由意志というものを重視しすぎである」
→主体の行為を決定する要因のうち、意識できるものを人は「自由意志」と呼ぶ
→しかしそれ以外にも主体の行為を決定する要素は無数にある
→意識できるものだから、人は「自由意志」に極端に固執する
→だから「努力」と「自由意志」に不可分な結合を見出してしまう
→一度「自由意志」的な概念から離れないと、この問題は解決しない
→つまり「努力」という語自体にすでに誤りがある可能性すらある
→「自由意志」は、努力する対象を選び取って、そこに熱量を投下するという意味が含まれる。