☆☆☆☆☆ やっと読み終えた。長い時間を費やしながらじっくりと読んだ。1971年10月20日第1刷発行のもの。
「進歩史観」から「進歩の基準」、「人間史のパラドックス」を経て、著者としての結論
『人間歴史の未来を創るのは、言うまでもなく人間である。多くの人間は過去、現在の惰性に押し流されたとし
...続きを読むても…。その惰性に対して異なった方向へ未来を作ろうとするとき、人間は価値理念の導きを必要とする。しかも過去の試行錯誤から人間はより良い理念を、そして、よりよく実現可能な理念を探究することができる』と説く。
考えてみれば、人類の歴史は、時間の経過とともに、一方方向に進歩してきたわけではないことは史実を読めばわかることだし、地域によるその人間の叡智の高度化と衰退、停滞の繰り返しが、存在したこともそれほど時代を遡らなくても歴史的事実として確認できる。ただ、ほんの何世紀かのなかで、西洋の思想が人間社会をリードしている期間が続いているに過ぎないのに、何故か西洋文化が人類の先端を走り、文化をリードしているような錯覚を持ってしまっている。
マヤ文明を滅ぼした、当時のスペインの文化レベルとマヤ文明の文化レベルを比較したら、当然優っていたマヤ文明。そのマヤ文明が唯一、戦闘における武器の有効利用ということに劣っていたために、その優れた文明を途絶えさせてしまったことからもわかるように、人類の長い歴史のなかでは、優れた個人や、優れた文明国家が必ずしも、その思想や文明を継承させることができたわけではない。
そこには、偶然性が左右するそのときどきの適者が存在し、他を駆逐してしまうことが、当然のこととして起こってきたに違いない。
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの関係もそう言われている様に…。
いま、私が生きているこの時代の瞬間は科学技術的には高度な文明の時間経過の中にあるのかもしれないけど、それは“人類の叡智”という視点から「歴史の進歩」を捉えると必ずしも、高度な進歩の経過点にはないような気がしてしまう。
2016/05/07