ジョン万次郎というは歴史の流れの中では画期的な存在であるは図だが、日本史においては、それほど重要な存在という扱いを受けていない。直接的に歴史の表舞台での出来事に関与したのは、日米和親条約の交渉時に裏方として翻訳作業を行った事、そして臨海丸の往復での無難な航海に貢献したこと位しか記録にないからであろう
...続きを読む。しかし、幕末の大きなうねりの中で、万次郎が直接謁見した、薩摩藩主の島津斉彬、土佐藩主の山口容堂、幕府老中の阿部政弘などは、アメリカを直に見て来た唯一の日本人から伝え聞く話に大きく影響を受けたはずである。
遭難した当時、日本は未だ鎖国状態でちょんまげの時代にアメリカを訪れた万次郎が見たものはどれも驚きだっただろう。鉄道が走り、電話がある社会。市民の多数決による民主主義。
万次郎は、あたかもそれは必然でもあったかの如くの多くの偶然が重なり歴史に名を残すことになる。鳥島で遭難したのは万次郎の他に年長の仲間が4人いたが、ハワイで十年の年月を過ごしたにも関わらず、帰国後は歴史の舞台には一切登場する事は無い。万次郎は、その冒険心と向上心に富んだ前向きで勤勉な性格だった事、遭難当時16歳であり、日本での生活をそれなりに理解している年齢だったと同時に、あたらしい事を吸収するだけの若い年齢でもあった事。また、遭難した一行を救ったのが経験豊富で優秀かつ慈悲溢れるホイットニー船長であったことも見逃す事が出来ない。