昼食の際の手待ち時間などで、1日3首位ずつ読みました。
読み切るのに1年半かかりました。
1冊の本にこれほど時間をかけることは少ないのですが、興味深かったこともありました。例えば、そのときの季節に合わせて四季の歌を読んでいったことです。
学校を卒業してから長い時間が過ぎましたが、それでも学校行事は現代人の季節感に影響を与えていて、夏といえばどうしても夏休みの暑さを思い浮かべてしまいます。
でも、夏の始まりである旧暦4月は、新暦5月後半くらい。
平安歌人達は、ホトトギスの鳴き声を聞いて夏の到来を感じていました。
古今集は、そうした平安時代の季節感を追体験させてくれます。
正直、平安時代以前の古文は苦手で、以前に新古今和歌集を読んだ際は、楽しい読書というよりはトレーニングの感がありました。
これによって多少鍛えたつもりではありますが、古今集の和歌で現代語訳を読まずに意味をとれたのは、4割に満たなかったと思います。
例えば基本的なことですが、「秋」が漢字で書かれていると、「飽き」の掛詞であることを読み落としてしまうとか。
この点、本書はとてもありがたかったです。
基本的な事柄にも繰り返し語釈がありますし、現代語訳を確認することもできます。
同じ体裁をとる新古今和歌集(角川ソフィア文庫)よりも、歌と解説が同じ見開きに割り付けられていることが多く、一層読みやすかったです。
また、仮名序がとても綺麗です。
私は、物語でも音楽でも、序や跋の位置に本文のダイジェストがあると無性に感動してしまう質なのですが、その意味で古今集の序は最高です。
「さざれ石にたとへ、筑波山にかけて君をねがひ、よろこび身にすぎ、たのしび心にあまり、富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび云々」のあたりですね。
結局、未だろくに文章を読めない私ではありますが、それでも「大空の月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎて、今(古今集の編纂された時代)を恋」わずにはいられません。
この仮名序の最後の文はとても誇り高くて、それは勅撰集だからこそなのかもしれませんが、現代からすれば予言の成就とさえ思えてくる文です。
古今集は、後の歌人が手本とし、和歌が平安時代のようには詠まれなくなってもなお読み継がれてきました。
今こうして古今集を読むことができて良かったと本当に思います。