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織田信長は版図拡大に伴い、柴田勝家、羽柴秀吉ら有力部将に大幅な権限を与え、前線に送り出した。だが明智光秀の地位はそれらとは一線を画す。一貫して京都とその周辺を任されて安土城の信長から近く、政権の司令塔ともいえる役割を果たした。検地による領国掌握、軍法の制定などの先進的な施策は、後年の秀吉が発展的に継承している。織田家随一と称されながら、本能寺の変で主君を討ち、山崎合戦で敗れ去った名将の軌跡。
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Posted by ブクログ
光秀の武将としての能力をその生涯を辿る形で知ることができた。史料に見られる光秀の思いやりのある人間性にも心惹かれた。信長との出会いから本能寺での謀反までの心情の変化に注目してさらに調査を続けたいと思った。
麒麟がくるも終幕に近いこの頃、著者の福島克彦氏は私も何度か訪れている大山崎歴史資料館の館長で、光秀に関する著作や講演も多くされており、造詣も深く、光秀の最新の史料、学説も網羅されています。また分かりやすく公平で、現在あまた出版されている諸本で何を選ぶべきかお悩みの方にもお勧めします。 例えば、本...続きを読む能寺の変の後、秀吉が茨木の中川清秀に返書で送った信長生存の手紙(※梅林寺文書)について、他の学者が秀吉の情報戦略の一例として紹介しているところ、「当時茨木にいた清秀には、日々京都、畿内・近国の情勢がより正確に入ってきたはずである。」と冷静。 梅林寺文書はもともと清秀が先に本能寺の異変を秀吉に伝えたもの(内容は伝わっていません)の返書で、私的には多分秀吉は信長生存説をばらまいたが、清秀にも同様の内容を送らないと齟齬が出ると考えたのではないかと思います。 梅林寺文書を参考に ※『これから書状を出そうと思っている時に貴報を受けて嬉しく思う。さて、ただいま京都より下った使者の報告によると、信長様・信忠様はいづれも、なんのお障りもなく難を切り抜けられ、膳所ヶ崎へ退かれた。その間、福富平左衛門が三度も力戦をして比類ない働きをし、何事もなかったとのこと・・・なお、ただいま野澱(岡山県御津郡)まで到着したところ、貴殿(清秀)の書状を拝見しました。今日できれば沼(岡山県上道郡)まで進もうと思っている。また、古田左介(織部)にも同様にしたためておこう』 わがまち茨木・茨木市教育委員会
義昭政権下での特殊な立場や、丹波攻略の経緯、検知や軍法制定といった諸施策などが一次史料を中心として詳細に述べられている。本能寺の変の扱いは大きくなく、人物像を含めた総体の把握が主という印象。拠点城郭や地理的な視点の詳述も興味深い。
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明智光秀 織田政権の司令塔
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福島克彦
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